『雪を越えて、守る者』
とあるノースネイアの村での一幕
静かな朝だった。
雪は昨夜から軽く降り続け、今は止んでいる。空は白く、風もない。
それでも一面の銀世界に、何かが隠れていそうな緊張感がある。
「さて……今日は、久々の山だな」
テッラは道場の鍵を掛け、深く息を吐いた。
滅多にない野外学習の日。雪の状態、風向き、子どもたちの体調──条件が揃わなければ実施は見送る。
だから、生徒たちはこの日を心待ちにしていた。
イーワンとソーリャンがわずかに興奮した顔で待っている。
二人に雪靴の紐を確認させると、テッラは腰に軽い装備を帯びて歩き出した。
彼女の背は伸びやかで、姿勢に無駄がない。
十代で村を離れ、軍に入り、連合王国軍の少凍尉まで上り詰めた。
退役の理由は、吹雪の戦線での大雪崩。片足を負傷し、歩くには支えが要る。
それでも、今も子どもたちに教える彼女の眼は、かつて戦場で命を守っていた頃と変わらぬ光を宿している。
ふと、村道から裏山へと足を進めながら、テッラの脳裏に一人の少女の顔がよぎった。
──もう10年か。
そのまま、記憶は白い山道の奥に沈み込み、ある日の再会を呼び起こした。
あれはまだ雪が残る春先のことだった。
昼過ぎ、道場の戸を叩く音に、テッラは振り返った。
「ドゥーリョ……!」
「よう。元気そうで何よりだ、テッラ」
懐かしい声と共に現れたのは、軍時代の旧友。今は中凍尉となった男だ。
戦場を共に駆け、何度も背中を預け合った仲だった。
「ずいぶん出世したじゃないか。昔は私の後ろに隠れてたくせに」
「隠れてたんじゃない、あれは戦術的撤退だ」
茶を淹れながら、二人は短い時間で数年分の会話を交わした。
「ところで、お前が紹介したいって言ってた“逸材”、この村に?」
「いるさ。今も裏で木剣振ってるはずだ」
呼びに行くと、小さな足音が雪を踏みしめて現れた。
「こんにちは。ストゥーディンです!」
淡い赤髪の少女。礼儀正しく、だが目に隠しきれぬ好奇心を湛えていた。
「……ほう。いい目をしてるな。中身が磨かれれば、本物になる」
その日からの数日間、ドゥーリョは村に滞在した。
焚き火を囲んで、戦場の話、旅先の話、軍の訓練、外国の食べ物──語り尽くせない世界を、ストゥーディンは何度も訊ねた。
「ドゥーリョさん、空飛ぶ島って……実在するんですか?」
「あるよ。島の上は学校があるんだ」
「すごい!いつか見てみたいな……」
その夜、彼女は焚き火の傍らで小さく寝息を立てていた。
「……あれだけ話しかけられたら、さすがに疲れるな」
テッラは笑い、ドゥーリョの方へ静かに顔を向けた。
「ドゥーリョ。あの子を、頼む。世界を知りたいと思ってる。だけど……まだ幼い。導いてやってくれ」
彼は真顔になり、うなずいた。
「任せておけ。お前が託すって言うなら、俺は絶対に裏切らない」
翌朝、旅立ちの見送り。ストゥーディンの背は小さかったが、まっすぐに未来を見ていた。
そして──10年が経った。
「この斜面は、午後になると陽が当たるから雪が緩む。足を取られないように注意しろ」
子どもたちは真剣な顔で頷いた。
テッラはふと空を見上げる。風もなく、冬晴れの空。だが、それがかえって不気味だった。
(静かすぎる……)
耳を澄ませる。木々の軋む音の向こうから、低い唸り声が近づいてきた。
──狼、しかも群れだ。
「背中を向けるな。私の指示があるまで動くな!」
棒を構え、前へ出る。
鋭い突きと打ち下ろしで一匹目を叩き、続く二匹目、三匹目──昔取った杵柄で退ける。
だが、数が多い。既に五頭。まともな猟師でもお目にかかれない群れの規模だった。
やがて、動かなくなった狼たちの中に息を切らして立ち尽くすテッラ。そのときだった。
尾根の上──
一際大きな影がこちらを見下ろしていた。
片目を失い、傷だらけの体躯。
歴戦を思わせる、ただの獣とは思えぬ威圧感を放つ。
──アオォォォォ……
その遠吠えが、空を切り裂いた。
直後、山が呻いた。風ではない。地鳴りだった。
(……来る!)
「まさか……雪崩!」
白く広がる斜面が、一気に崩れ落ちてくる。
その瞬間、テッラの頭に過去の記憶が閃光のように甦る。
──あれは、まだ軍にいた頃。任務中、部隊ごと巻き込まれたあの雪崩。
凍てつく雪に囚われ、目の前で仲間が次々に消えていった。
助かったのは自分ひとり。左足に後遺症を残し、軍を退いたあの日。
(──まただ……!)
雪を見上げる足がすくむ。
動かない身体。あのときの白い絶望が、再び彼女を呑み込もうとしていた。
「ソーリャン! イーワン! 岩陰へ、走れ!」
テッラは叫ぶように言った。
訓練通り、二人の子どもはすぐに反応し、岩陰に身体を滑り込ませた。
その背を見届ける前に、テッラの足元が崩れ、視界が白に染まる。
──だめか。
心が途切れかけた、その時だった。
「先生っ!」
雪の音を裂いて、誰かが彼女の腕を掴んだ。
その声は、十年前に見送ったあの小さな少女のものだった。
「……ストゥーディン……!」
銃剣を背負い、濃い外套をまとった彼女は、力強くテッラを引き寄せ、雪陰へと身を投げた。
直後、轟音が背後を飲み込む。雪の壁が通り過ぎ、静寂が戻った。
テッラは荒い息を吐いた。
「……子どもたちは……?」
「無事です。あの岩陰で避難できました。先生の教えのおかげです」
(そうか……よかった……)
だが、まだ終わっていなかった。
尾根に残る、あの大きな狼──
崩れ落ちた斜面の端から、重くゆっくりと姿を現す。
雪に耐えたその体はなお強靭で、血に濡れた牙をむいている。
「下がっていてください。私がやります」
ストゥーディンはそう言って銃剣を構えた。
巨大な狼が咆哮し、襲いかかる。
彼女は冷静に身をかわし、刃を横に薙ぐ。肩に深く食い込み、血が舞う。
だが獣は怯まず、再び突進してきた。
三度目の激突──
ストゥーディンはわずかに身を沈め、雪の反動を使って飛び込む。
「……これで!」
銃剣が狼の胸を深く突き貫いた。
短い呻きと共に、狼は崩れ落ち、雪を染める。
呼吸を整えるストゥーディン。剣を抜き、空を見上げた。
テッラはその後ろ姿を見て、ふと微笑む。
「……あの小さかった少女が、ここまで……。私も歳をとるわけだ。……立派になったな」
テッラの怪我は大事には至らなかった。
道場に戻り、ストゥーディンは彼女の看病をしながら、生徒たちに雪上の動き方や獣との距離の取り方を教えた。
「先生、また来てくれますか!」「もう帰っちゃうんですか?」
別れの日、子どもたちは手を振って叫んだ。
「また来るさ。君たちに、ちゃんと挨拶しにね」
玄関で見送るテッラは、微笑んでいた。
「あの頃のお前のような子を、今度はお前が支えるのかもしれないな。」
雪は静かに降り始め、春の気配をひそかに含んでいた。