3. yellow candy
「おっ、相内いいところに!これから会議だから、代わりに準備室の鍵閉めて来てくれないか」
部活に行く伊坂くんと別れて、丁度帰る所だったおれは担任の先生に用事を頼まれた。
準備室は教室のある校舎とは別棟で、改築されていない昔のままの古い校舎の中にある。
歩くたびに軋む長い廊下に窓から陽が差し込んで、暖められた古い木の匂いがした。
ここは静かだ。
遠くでかすかに運動部の声が聞こえる。
人気の無い校舎を、準備室を探してゆっくり歩く。
(今日は瀬名先輩に会えなかったなあ)
初めて会ったあの日から、学校で無意識に先輩を探すようになった。先輩とは学年が違うから教室のある階も違って、滅多にすれ違う事が無い。
朝や放課後に偶然玄関で会えないかな、と期待しているけど、先輩はけっこうギリギリの時間に登校しているみたいで、時間が合わない。
一度先輩に会うために家を遅く出ようとしたら、母さんに「あんたはのんびりしてるんだから余裕持って早く行きなさいっ」と家を追い出された。
だから先輩に会えるのは、休み時間に教室を移動する時や、放課後たまたま廊下ですれ違う時しかない。
会えた時は嬉しくて、おれはつい先輩を目で追ってしまって、あまつさえ声も聞けないかと耳もすますけれど…声をかける勇気がなかった。
一度中庭で会ったきりの先輩に、なんて言葉をかけたらいいのか分からないから。
…なんて、1人になるといつも、先輩の事ばかり考えてしまう。
「あ…、あった」
目的の準備室を見つけて小さく呟いた。
準備室って普段来ないけど、どんな場所なんだろう。鍵を閉める前に一目覗いてみようと思って、引き戸をガラガラ…と開けてみた。
中はカーテンが閉められており薄暗かった。ちょっと湿ったような、埃っぽい匂いがする。廊下は日当たりが良くて眩しいので、準備室の暗さに目が慣れずよく見えない。何度も瞬きすると、乱雑に段ボールや備品が積まれた棚がたくさん並んでいるのが見えてきた。
その時、ぱたぱたと走る足音が聞こえてきた。
こんな所に、誰だろう。
音のする方へ顔を向けると、足音が段々と近づいてくる。
廊下の角から姿を現したのは、なんと、瀬名先輩だった。
「夢…?」
(嘘!こんな偶然に会えるなんて…!)
どうしたらいいか分からず、ドキドキする胸をぎゅっと押さえる。
走ってる先輩、レアかも。
(こっちに来る!)
焦るようにこちらに向かって走ってきた先輩は、おれに気付いた。
「あ」
先輩は急いで後ろを振り返ってから、おれの背後の準備室の戸が開いているのを見た。
「こっち」
そしておれの腕を引いて準備室に入ると、戸を閉めた。
(ーななな、何事!?)
「ごめん、今追われてて」
遠くから複数の足音が迫ってくる。
「ちょっと屈んで」
「ー!」
先輩に偶然会えて、動揺していたおれは、いきなりの出来事に頭がついていけなかった。
「せんぱ、」
「しーっ」
先輩が、後ろからおれの口に手を当ててドアの前にしゃがみこんだ。つられてしゃがんだおれは、自然に先輩の胸に体をもたれかける体勢になる。
薄暗い準備室の中で、密着した背中のシャツ越しに先輩の鼓動を感じる。
え、先輩に後ろから抱きしめられてる?
しかも今、先輩の手の平がおれの口に触れてる!?
今の状況を理解した途端、あまりの出来事に全身が沸騰しそうになった。
唇に感じる先輩の肌の感触。先輩の匂いを感じて呼吸が早くなったけど、ふと先輩の手に鼻息をかけてはいけないと思って息を止めた。
全身が心臓になったみたいに、ドクンドクンと振動している。
薄暗くて静かな準備室で、おれのうるさい心臓の音、先輩に聞こえてるんじゃないだろうか。
準備室の戸の上半分に嵌められたすりガラスの前を、誰かが通り過ぎる。
「ちょっと瀬名どこ行ったのよっ」
「また逃げられた…明日許さん」
女子生徒の声が遠ざかる。
ドキドキしながら息を止めているおれはもう限界だった。
昇天する…じゃなくて倒れちゃう…
ほっと息をついた先輩は、真っ赤になって震えるおれの様子に気づくと慌てて手を離した。
「あ、ごめん大丈夫!?」
ずっとずっと聞きたかった声。
会いたかった。
息を整えている間なぜだか涙が出そうになって、必死でこらえる。
「大丈夫…です」
大丈夫。先輩は後ろにいるから、泣きそうになったの見られてない。
「いきなり驚かせてごめん。委員会サボって帰ろうとしたら追いかけられて」
「あ…出なくていいんですか?」
平静を装ってなんとか声を出した。
「今日、好きなアーティストの新曲が出る日なんだよ。委員会出てる場合じゃないんだ」
声が近くて、先輩が喋る度に身体がむずむずしてしまう。
「あっ、悪い今よける」
先輩は密着している今の状況に気付いたらしくて体を動かした。一生気付かなくていいのに。
先輩は立ち上がってポケットを探ると、しょんぼりして見上げるおれに手を差し出した。
両手の上に飴玉がコロン、と置かれる。
「これ、協力してくれたお礼」
「あ…ありがとうございますっ」
その場に正座した体勢で恭しく飴を受け取ったおれを見て、先輩は少し笑った。
「じゃーね」
静かになった準備室に1人取り残されたおれは、手の平の飴をじっと見た。綺麗な黄色の飴。
そういえば、さっきも先輩から飴のような甘い匂いがした。
そんな風に笑いかけられたら、おれは先輩のこと、もっと頭から離れなくなってしまうのに。
先輩のいなくなった廊下を見つめる。
いつの間にか、窓から差し込む光がオレンジ色に変わっていた。




