君を覚えている。
一人寂しく、公園のベンチで座っていた。
去年は二人並んで座っていたベンチであったのに、今年からはどうやら一人で座る事になるらしい。
空を眺めれば、雲が一つだけ浮かんでいた。どこか、自分と似ている気がして親近感が湧いたが、その雲はみるみると小さな雲二つに割れてしまった。仲間外れは私だけらしい。それがわかると、こんどは何も見ないで済むように地面を見た。
地面には先ほどまで、飲んでいたブラックコーヒーの空き缶が置いてある。
「バイクぅ? いい加減、車にしてよ」
ベッドで掛け布団に包まって、そう、彼女は私に言っていたのがふと思い浮かぶ。
それが私の身を案じての言葉であることはわかっていたのではあるが、今でも、バイクを降りれないでいる。
せめて、その言葉がずうっと残っているのであれば、その言葉の通りにした方がいいだろうに。
ベンチから立ちあがり、空き缶を手に取り、少し離れたゴミ箱へと投げる。ゴミ箱の縁に当たった空き缶は、甲高い音を出して、あらぬ方向へと跳ねた。コロコロと地面を転がる。
「末期のガンです」
あまりにも呆気ない医師からの宣告。
若いというのもあり、そう宣告を受けた彼女はみるみると弱っていった。本人は、「大丈夫でしょ」とか言ってはいたが、一番、不安な気持であったであろう本人は、一切と弱音を吐くことなく、闘病生活を全うした。現代医学における最善の結果が、彼女の結末だ。
煙草も、酒もやらなかったのに。
私の心に一つだけ重石を置いて、去って行った。
私の目に濃いフィルターをかけて、去って行った。
何もかもが色褪せて見える。
「行くかぁ」
退屈に、空き缶を掴んで、ゴミ箱へと放り込むと、公園から出た。公園出口に停めてあるバイクに跨る。
YAMAHAのSR400。
だいぶと古く、シートは破れがあるので補修のテープが貼られている。そのうちの一つ、ハートの模様が付いたピンクのテープは、彼女が貼ったものだ。彼女がリアシートに座って乗っていた時、どこかで靴の踵をひっかけたのか、破れていたのに気付いた。
「私が重い訳じゃないから」
と、言いながらも、その日の晩にいそいそと貼っていた。
そんなバイクのシートに跨り、キックでスタートをかける。
「手間のかかるバイクねぇ」
キックスタートの時、バイクの脇にしゃがんで私に言う彼女の言葉が耳に蘇る。
バババッとエンジンがかかり、どっどっどっと単気筒特有の排気音が聞こえてきた。
本当に言う通りだ。
フロントブレーキを握って、左をすっと見た。
いつものように。
でも、、もう、後ろに彼女が乗る事はない。
サイドスタンドを払って、ヘルメットのシールドをがこっと降ろして、ギアをローに入れた。
どっどっどっとしたアイドリングが、ドドドドっと立ちあがって、回転数があがり、走り出す。
背中を蹴飛ばすように加速する。
街並みが過ぎていく。彼女と過ごした思い出の街が、どんどん、後ろへと流れていく。
「私、カフェならここが好き」
「ここの中華が一番好き」
「あそこの店はイマイチね、煙草臭くて嫌い」
「そこの角の服屋さんでね。あなたに似合うネクタイあったから」
「帰りに新しくパン屋を見つけたから買ってきたわ」
「ここら辺は静かでいいわ」
どんどん、後ろへと消えていく。
自分だけが先へ、先へと進んでいく。
いつしか、彼女と過ごした街は遠く、見渡せる展望台へと来ていた。
ここにも来たことがあった気がする。
どこまで行っても、この街には彼女との思い出が溢れている。
SR400のサイドスタンドをたて、エンジンを切って、バイクから降りて、少し歩く。
「あ」
声が漏れた。
匂いがしたのだ。金木犀の香り。
その匂いを、甘い香りを辿って歩く。
あった。
展望台の本当の隅っこに金木犀が植えてあった。ちょうど、頭の高さに金木犀の花が咲いている。
「私、金木犀が一番好き」
金木犀の花に顔を近づけながら、彼女が言っていたのを思い出す。
甘い香りが、それを色鮮やかに蘇らせる。
彼女がしていたように、私も金木犀の花へと顔を近づけて、息を一杯吸い込む。
頭の中に金木犀の香りが、彼女の好きだった香りが満たされていく。
しばらくの間、ずっとそんな事をしていた。
意を決して、SR400へと向かって歩き出す。
君がいない世界は、随分と、退屈で、刺激のない世界ではあるけども。
君が愛したこの世界で、私は
「もう少し、生きてみるかな」
SR400に火が灯った。