最後の森と小人さん ~ひとつめ~
「そうか、帰りに寄られるか」
早馬から受け取った西の森巡礼を報せる書簡に眼を落とし、アンスバッハ辺境伯は、小さな嘆息を漏らした。
彼は窓の外に視線をやり、なんとも喩えようもない気持ちを胸中で渦巻かせる。
夏の始めに謁見した金色の王は、幼子の姿をしていたが、その理路整然とした口調に驚かされた。
あれは幼女ではない。見掛けに惑わされてはいけない。
ただの賢しい子供かと思いきや、その中身は老獪な化け物だ。
辺境伯は、綺麗に整頓され、設えられた机の抽斗をチラリと見る。
そこの中にはフロンティアから一通の書簡。バンフェル侯爵からの嘆願書だった。
内容は簡潔。金色の王の御巡礼を阻止してくれとの事。
これが神々の御意志であろうと、フロンティアが周辺国と同じに成り下がるのは許せない。本当に神々の御意志かも分からない。
神々に奪われるのならともかく、自ら放棄するなど愚の骨頂。
王宮は賢しい子供の戯言に踊らされて、誰も話にならない。
なので、同じ志しであろう辺境伯に御頼み申す。
そう書かれた侯爵の書簡。
あの王女を目の前にして、こんな世迷い言を書ける老人の頑迷さに、思わず失笑を禁じ得ない辺境伯だった。
これを見たからこそ、アンスバッハ辺境伯も件の子供を見てみようと思ったのだ。
噂にしか聞かなかったが、孫であるテオドールと良く似た少女だと聞き、興味はあった。
他の貴族らは知らないだろうが、ヘブライヘイルは、その幼女に心当たりがある。
ファティマと名付けて秘密裏に育てられた、もう一人の孫。
死んだものと思っていたが、耳に届く噂の端々から、その幼女がファティマではないかとの疑惑をヘブライヘイルは捨てられなかった。
そして謁見の日。
その疑惑は確信に変わる。
目の前に座る王女は、幼い頃のハビルーシュに瓜二つだったのだ。
世にも名高い美姫と謳われた自慢の娘。それと同じ顔など、この世に二つと有り得ない。
ハビルーシュともテオドールとも酷似した、この面差し。これで、三人に血の繋がりが無いなどと誰が思うだろう。
多くの噂や質問がヘブライヘイルへ届いたのも無理からぬこと。
王家は誰も気づいていないのか? どういう経緯で、王の養女になったのだ?
脳裏に浮かぶ疑問は尽きないが、取り敢えず挨拶を済ませ、ヘブライヘイルは何故に魔力を棄てるのかと尋ねた。
しかし、その返答に辺境伯は戦慄を覚える。
神々を親とし、子供である人間は一人立ちすべきなのだという理論に、辺境伯は反論の余地もない。
魔力や魔法が借り物であるなどと想像もしなかった。他国が魔力を失った理由を考えたこともなかった。
魔力は、幼く弱い人間達を救うために与えられた神々の庇護。こうして、一国を構えて文明を発達させた人間達は、神々の庇護から脱却すべきなのだと幼女は言う。
その理屈は、不思議なほどしっくりとヘブライヘイルの胸に収まった。
むしろ、今まで疑問に思ってきた事に、明確な答えをもらった気分である。
それを話す幼女の姿に全身を粟立てつつも、ヘブライヘイルは奇妙な安堵すら覚えた。
これが答えならば、カストラートは神ではない何かに踊らされている事になる。
カストラートと違い、自由度の高いフロンティアで育ったヘブライヘイルは、常に違和感を抱いて成長した。自分の置かれた境遇に。
徹底して管理された後継者育成。
カストラートを後ろ楯にしながら、フロンティアを利用するアンスバッハ辺境伯家。
その当主に連なる者に行われる、虐待にも等しい教育。
カストラートが絶対なのだと、言葉や暴力で刻みつけられる異様な家。
条件反射になるほど過剰な畏敬を骨の髄まで染み渡らせ、カストラートに対して絶対服従するまで続けられる拷問にも近い教育の数々。
娘であれば、こんな面倒な事はしない。神よりもたらされた調剤術による薬剤で人形のごとく育てられる。ハビルーシュのように。
だが、男はそうはいかない。
フロンティアの貴族らと渡り合い、領地を治め、運営せねばならない男子は薬で人形にする訳にもいかず、徹底した管理と教育で言いなりに育て上げられる。
反発する者もいた。そういう者は、一生陽の目を見ない地下牢で朽果てていく。
ある日ヘブライヘイルと兄弟達は、邸地下への階段へ案内された。
そこは湿った牢獄で、薄汚れた檻の中に一人の男がいる。
鎖に繋がれ、ブツブツと何かを呟く痩せ細った老人。襤褸をまとい、すえた臭いを放つ汚れ切った人物は、父親の兄弟なのだと説明された。
家に反発し、言う事をきかなかったため、十代前半に見限られて、ここに入れられたのだとか。
最初は悪態をついていたらしいが、しだいに懇願を口にし、最後には謝罪を叫び続けて人生の大半を浪費した。許して下さいと。
一度見限られたら、二度とは戻れない。これが、家の役にもたたない者の末路なのだと、父親は嫌らしい笑みを浮かべてヘブライヘイルの肩を掴んだ。
檻越しに見る不適合者の成の果てに、ヘブライヘイルや兄弟らは心底怯える。
見せしめにと生かされているだけの老人は、落ち窪んだ眼に虚ろな光を浮かべ、鉄格子の前にいるヘブライヘイルを見てもいない。
こんな目に合うのは嫌だ。
反骨を粉々に砕く悲惨な光景。
あの後、老人はどうなったのだろうか。
父親が亡くなって、ヘブライヘイルが当主となり、地下牢へ赴いたとき、既に檻の中には彼の姿はなかった。
だいぶ後になって、老人は亡くなったのだと知ったが、その亡骸がどうなったのかも分からない。
カストラートのために忠実な猟犬を育成するアンスバッハ辺境伯家。
これに違和感を抱きつつも、家の意向に逆らえず、唯々諾々と全てを受け入れてきたヘブライヘイル。
貴族学院へ入学し、寮生活をしていた六年間。あれが唯一の自由な時間だった。
義務と責務を果たしてさえいれば、誰もが等しく自由なフロンティア。
貴族とて例外ではない。
法整備がしっかりしているため、平民に無体を働く貴人はおらず、権力にモノを言わそうものなら、後ろ指をさされる意識の高さ。
これこそが、あるべき人間の姿なのだと、ヘブライヘイルは己の環境に疑問を持った。
そして、そういった貴族の横暴が当たり前に罷り通る祖国カストラートを、酷く野蛮で悪辣な国に感じる。
子供達から反抗的な態度を感じたときに、父親や教師が口にする数々の言葉。
カストラートなら一本鞭で打たれる。火で炙られる。とうに除籍されているなど。
事あるごとに教師らに言葉や乗馬鞭で打ち据えられながら、ここがフロンティアで良かったと、ヘブライヘイルは心底感謝した。
ほんの六年間。それも長期休暇は辺境領地に戻っていたので、実質四年ほどの自由ではあったが、ヘブライヘイルにとって貴族学院での生活は、何物にもかえがたい宝物だった。
そして、ふと思い出す。
親しくしていた友を。
「元気にしておろうか。もう何年も会っておらぬな」
燃えるような赤い髪の友は、ここと真逆の辺境伯領地で騎士団長をしていると聞いた。
懐かしい名前を思い出して、ゆうるりとヘブライヘイルの口角が上がる。
どのみち成るようにしかなるまい。
祖国カストラートの勅命は金色の王の捕獲。これはバンフェル侯爵の思惑とも重なる。ある意味、彼からの書簡は好都合だった。
シリルが薬を盛り、自我を失わせた幼子を運ぶだけの簡単な仕事。
ただしそこで、アンスバッハ辺境伯家は失われる。捕らえた王女とともに、カストラートへ逃げ延びなくてはならない。
簡単ではあるが、家名をかけた最後の謀。
巡礼の帰りに、王女はヘブライヘイルの邸を訪れて一泊する。金色の王を手中に収めれば、魔物を従わせることも可能だろう。
曾祖父が婿入りしてから百年以上。ようやく本懐を遂げることが出来るというのに、ヘブライヘイルの心は晴れなかった。
小人さんと謁見し、彼の心に穿たれた小さな楔。それは、ヘブライヘイルを長く縛りつけていた軛に深く突き刺さり、今にもへし折ろうとしている。
ミシミシと音をたてて軋む軛に気づきもせず、ヘブライヘイルは、生まれてこのかた一度も見たことのない祖国に、ただただ忠実であろうとしていた。
物心つく前より、心へ植え付けられた祖国への忠誠。呪いのように彼を蝕む父親の呪詛。
そのどれもが洗脳であり、虐待であったのだと彼が知るのは何時だろうか。
彼の父親も同じ道を辿ってきた。それが異常なのだとは思ってもいない。
可愛い子供らを地下牢の兄弟のような目に合わせないためには、辛く厳しくあたることこそが愛情なのだと信じて疑わぬ歪んだ家系。
そんな一族の負の連鎖をヘブライヘイルも受け継いでいた。
彼もまた、息子らに異常な教育を施してきたのだ。
結果、鉄面皮で冷淡に育った息子らを、誇らしく思う反面、痛ましく思う自分に、ヘブライヘイルは驚く。
何故? これで正しいはずだ。不適合者などと烙印されれば、否が応にも地下牢へ投げ込まれ、人生が終わる。私は息子達を守ったはずだ。
長きに渡り管理、矯正されたヘブライヘイルの思考は、真っ当な人間の持つモノではなかった。
恐怖と暴力による祖国カストラートへの忠誠。がっちりと軛をはめられた彼の心に迷いなどない。
.....はずだった。
小人さんと謁見するまでは。
凛と佇み、神々を尊ばず、むしろまるで家族か友人のように語った幼女。
揺るがぬ絶対的なモノなど、死か懐妊くらいしかない。他のことならば、どうにでもなるのだ。小人さんは、それを知っている。
そういった柔軟な思考をもたない辺境伯には、自由奔放で挑戦的な眼差しをした幼子が、得体の知れない化け物のように思えた。
しかし、眼が離せない。祖国の呪いでがんじがらめなヘブライヘイルには、あまりに眩く、心惹かれる魅惑的な王女だった。
まぶたを閉じれば浮かぶ、自信に満ちた快活な笑顔。
己の心が揺れていることに気づきもせず、辺境伯は、後日訪れるだろう王女を手中にするため、綿密な打ち合わせをシリル達と行う。
周辺国のざわめきを肌で感じたフロンティアは、少数の護衛で千尋を送り出した事を後悔していた。
数日後に早馬の報せを受け取ったロメールが、早急に騎士団を編成して小人さんの後を追うのだが、一路、西の森を目指している小人さんに分かるはずもない。
西の森へ思いを馳せて、小人さんは辺境伯領地に入っていた。
小さな村を訪れ、素朴な歓迎を受ける小人さん。最後の森まで、あと二日である。
アンスバッハ辺境伯家の執念とも言える内情。小人さん獲得に動き出したカストラート国。
それを知ったフロンティアや、他の国々。
最後の森、物語はラストスパートに入ります。




