初恋姉妹は僕が気がかり 1
〜登場人物〜
・陽乃 優真 華日蘭高校1年。暗い性格だったが、中学校での失敗を踏まえ、高校では変わろうと努力する。
・波音 叶芽 華日蘭高校1年。優真の親友。モテ男。憎めないヤツ。
・夏藻 日菜美 華日蘭高校1年。大人しい性格の優等生。高校では「積極的になりたい!」と努力する。
入学式は無事に終わり、クラスに移動することになった。残念ながら波音とは離れてしまったが、隣のクラスなので悪くはない。そして、俺のクラスは5組となった。
自己紹介の時間が始まり、そこで1つ意外なことが起きた。さっき正門前で邪魔をしてしまったあの子が、同じクラスだったのだ。予想通り、いや当然か彼女は大人しい、人前が苦手そうな子で、自己紹介の時も顔は俯きがちだった。名前は「夏藻日奈美」というらしい。
半日過ごして感じたクラスの印象は、俺の中学とは大違い、という感じだ。いかにも不良、というような男子も女子もいない。さすが、礼儀作法に厳しいことで有名だった元女子校の名残はある。それもあって、軽く見回しただけでも女子のほうが多いのがわかる。
「必ず変わってみせる」と心の中で呟く。でも、もし俺が前の自分のままだったとしても、このクラスは温かく迎えてくれるような気がした。
「うちのクラスすげーかわいい子いたんだよ!」
「俺んとこThe・陰キャって感じのやつが1人いてさぁ」
高校初日の帰りは、やはりこういう会話が常に耳に入ってくる。
「あれ、俺のクラスの人たちじゃ...」
少なくとも今の俺はそんな風に見えないと思いつつも、やはり気が気でない。...いやあんな人は俺のクラスにはいなかったはずだ。こういうのは俺の被害妄想に過ぎない。
「よう優真、ずいぶん不安そうな顔してるな」
聞き慣れた声に呼びかけられ、その不安はかなり和らいだ。信頼できる友達がいるというのは、こんなにもいいものなのか。俺は思わず彼の名前を呼ぶ。
「なんだ、にやにやして...気持ち悪いな」
「話せる人がいるとやっぱり落ち着くんだよ、女子ばっかりで気まずいしさ」
波音はため息を吐いて先が思いやられると言った。それもそうだ。初日からこんなんじゃこの先が思いやられる。
「ま、それはいいとして...お前のクラスすごいかわいい子がいるって話題じゃないか、ていうかそれってさっきの子だろ?」
自信満々に言ってくれたが半分当たっていて半分は外れている。
「あの子もそうだけど、もう1人...」
と、言いかけたところで俺らの話し声の3倍はあるその声で、場の空気は変わってしまった。
「サッカー部来てねーーー!!かっこいい先輩いっぱいいるぞーー!」
同時に廊下が笑い声で溢れかえる。これまた初日にありがちなこと...そう、部活の勧誘が始まったのだ。
「君たちどうよ?バスケ部。あぁ、未経験でも全然いいから!男子少ないし人欲しいんだ」
「2人とも背高いしな!」
早速、近くにいた俺ら2人を勧誘してきた。俺はこういうのが苦手なんだ。昔から「ぎゃはは」みたいな悪ノリがどうも好きになれない。だが、波音はこういう時に強い。スムーズにお断りの挨拶を済ませ、俺を連れて喧騒なこの場所から抜け出すことに成功した。
「はぁ、助かった...まったく一気に疲れるな」
ため息混じりに言う。
「優真もこれくらいの対応できないとな、やっていけないぞ」
...なんにせよ波音に感謝だ。大体初日から部活動の勧誘なんか早いだろ!と心の中で呟く。
「さて、電車の時間も近いし帰るか優真」
「あぁ」
とはいっても、波音とは駅でお別れだ。彼は小学校の時俺のクラスに転校してきたのだが、それ以来も父の仕事の都合で2回程家を変えている。といっても近場だが...
それでも学校は同じところに行きたいと、毎日遠くから通っていたのだ。高校生になり、アルバイトをして一人暮らしをするということで、今年からは学校の最寄り駅の近くにアパートを借り、そこから登校するみたいだ。俺とは駅で待ち合わせをして学校に行こうという話になっている。俺もアルバイトはしてみたいと思っているが、個人的な理想の高校生活は青春を謳歌することであって、どちらかといえば部活動を積極的に取り組みたいと思っている。まぁ頑張れる人は部活をしながらアルバイトもこなすのだろう。俺には到底できそうにない。勉強だって、疎かにする訳にはいかないしな。
「じゃ、また明日な、優真」
「じゃあな」
俺は明日から本格的に始まるこの先が不安でもあるが、待ち遠しかった。どんな高校生活が始まるのだろう。初日から疲労困憊といったところではあるけれど、楽しみで仕方がない。
「明日も積極的に頑張らないとな...」
俺は天井を見上げ、真っ暗なベッドの中で呟いた。この日は初日で疲れていたせいか、スリーカウントで眠りに落ちた。
「おはよう優真」
「お、来たか、おはよう」
入学2日目、駅で待ち合わせていた波音と出会いの挨拶を交わし、学校へ向かう。
「なぁ優真、今日悪いんだけど放課後先に帰っててくれ」
「何か用事でも」と聞くまでもない。入学式の翌日から学校に残る用事なんてよほどの問題児でもないとできないだろう。となると...
「女子と予定でもあるんだろ...?」
「まぁ大体当たりだな」
だろうな。実は昨日女子と話していた内容が聞こえたのだが...
「じゃあ、明日でいいかな」
「うん、叶芽くんばいばい...!」
この時はまさかなと思っていたが、そのまさかだったなんて...底知れない波音のコミュニケーション能力には驚かされるばかりだ。
「...というかお前!彼女いるんじゃなかったのか...?」
「あー...まぁ遊びに行く程度だし?浮気はしないから平気っしょ」
「それを浮気っていうんだろ!知らないぞ俺は...」
教室に来てからもなんだか気分が悪い。朝にあんな話を聞いたせいか。高校生ってそんなもんなのか?いやあいつが軽すぎるだけだろうでも...なんてつまらぬ考え事をしている内に、4時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。この時間で、今日は係や委員会等を決めるらしい。
着々とそれぞれの役目が決まっていくなか、俺はまだ手を挙げずにいた。そう、俺がやるべきものは...
「じゃあ次、学級委員やってくれる人ー」
その瞬間俺は「はい!!」という返事に加え小さい頃、横断歩道を渡った時よりも、高いところにある物を取った時よりも綺麗に手を挙げた。少なくともそんな気持ちでいた。のだが...
「うーん1人だけか...」
熾烈な争いになると思って勇ましく手を挙げたというのに、これじゃむしろ浮いてるぞ。それどころかみんな唖然とした表情でこちらを見ている。俺の中学校はどうだったか覚えてないが、小学校の頃は学級委員や班長みたいなリーダー役にはクラスの男子がこぞって手を挙げていた。高校はこういうものなのか...?
「お、ありがとうな。えーと、2人とも名前は...」
1人落ち込んでいる間に、もう1人の手が挙がったみたいだ。男女1名ずつなので1人は女子になるが...
「...夏藻日奈美です」
「君は?」
「...あ、陽乃優真です」
驚いた、まさかあの子が手を挙げるなんて。予想外だな。正門前で会った(?)時も、昨日の自己紹介の時も大人しそうな性格が非常に目立っていたから、てっきりそんな柄じゃないと思っていた。人は見かけによらない、とはこの事か。
「じゃ、悪いんだけど4時間目終わった後学級委員は顔合わせがあるみたいだから、2階の第一会議室に行ってくれ、すぐ終わるみたいだから」
「はい」
「わかりました」
ふたつの声が重なる。多少恥をかいたが、学級委員にはなれた。それにしても...夏藻さんと一緒に、か。昨日の出来事もあり、少し気まずいが...
「良いスタートは切れたはずだ...!」拭いきれない不安をかき消すように、そう心の中で呟いて、俺は帰りの支度を始める。
「あ、あの...陽乃優真くん...?」
「は、はいっ!」
不意に声をかけてきたのは、夏藻さんだった。久々に女子に話しかけられ、動揺を隠せない俺。
「私、会議室の場所分からなくて...だから一緒に行ってくれないかな...?」
「あぁ!それなら俺事前に調べておいたから、バッチリだよ」
「ほんと?じゃあお願いしてもいいかな、陽乃くん」
「おう!」
新学期早々頼られることになり、意気揚々とする。あらかじめ、ある程度教室の配置は覚えておいたので場所はわかっている。前日の悪印象を取り消すチャンスを棒に振ることにならずに済みそうだ。
「何かの役に立つと思ったけど、早速その何かが来るなんてな...」
「どうしたの?」
なんでもない、と笑って誤魔化す。また無意識に心の声が漏れていた。「これも会話のきっかけだ」と開き直り、ずっと気になっていることを彼女に尋ねる。
「あのさ...変なこと言うようだけど俺のことどっかで見たなーとか思わない?」
「うーん、思わないけど...」
その言葉を聞いて、一気に肩の力が抜けた。なんだ...てっきり昨日のことを覚えているものだと思っていたが、そんなことはなかったみたいだ。
「あ、ああそれならいいの、俺の気のせい」
「そ、そう...?」
当たり前だが、謎の質問に彼女はすごく不安そうな顔をしている。いきなり変な印象をもたれるのは勘弁だ。今度は苦笑して誤魔化し、すぐに口を開いた。
「と、ところでさ...夏藻さんはどうして学級委員やろうと思ったの?」
階段を降りること3段、少し間を置いて彼女は答えた。
「私ね、今まで部活とか委員会とか、やったことなくて...すっごく消極的な性格なの...でもね...高校では変わろうと思って」
「...そうなんだ。実は俺もさ、中学の頃はそんなだったからよくみんなに隠キャ隠キャって馬鹿にされてね...はは、高校で変わるんだって、頑張ってるんだ」
じゃあ一緒だね、と彼女は微笑む。その表情に、無性に心臓が締め付けられるような気がした。もっと簡単にいえば「かわいい」という気持ちだろう。自分と同じような境遇で、同じ気持ちで、同じ活動に取り組もうとしている。それだけで俺は、彼女のことを応援してあげたいと思うし、親近感が湧いた。
「学級委員の顔合わせここだぞー」
前方10メートル先から野太い声が響いた。帰りの生徒でごった返す中、よく通る声だ。
「じゃ、頑張ろう!」
「うん...!」
新しく始まる高校生活が不安から高揚に変わっていくのが、俺は嬉しかった。
顔合わせも終わり、夏藻さんとも別れの挨拶を交わした。すぐ終わると言われたのに、活動内容の説明やら、3年5クラス、2年6クラス、1年6クラス各クラス2名ずつの長い自己紹介やらで、なんだかんだ30分ほど経過した。そのはずがまだ学校の近くは1年生が毎秒目に映る。
「そういえば今日から部活の見学とか仮入部とかやってるんだっけ」
1年生だとわかるのは、女子は冬服のリボンが学年によって模様が違うからだ。男子の見分けは難しいが、強いていえば身体的特徴と、校内なら上履きの色くらいだが、高校生に大して差はあるように見えない。まぁここにいる時点で大体が1年生だろう。2、3年は部活もあるだろうし。そんなことを考えながら帰り道を少し歩いたところで、近くから思いもしない男の大声が聞こえてきた。
「なんだ...怒鳴り声?」
完全に嫌な予感しかしないが、無視するわけにはいかない。何か事件かもしれないのだから...
自分なりの覚悟を決めて、俺はなんとなく想像がついていた場所に向かう。帰り道とは別にもう一本道があるのだが、そこからさらに枝分かれしたあまり人目につかない路地がある。そこで俺は、これからの高校生活、いや人生にまで影響を及ぼすような、ある「きっかけ」に遭遇することとなる。
「やっぱりここか...!」
そこには、4人、いや、5人のヤンキーみたいな奴らに囲まれている女の子の姿が在った。しかも、あの子は―――。
「だからさぁ、言ってるでしょ、ちょっと一緒に来て遊んでほしいのよ」
電柱の影に隠れて様子を伺う。ナンパしている雰囲気じゃない、というのは確実だ。もっと危険な予感がする。
「ごめんなさい、何度も言ってるんですけど今日は用事があるんです...!」
お断りの常套手段で訴えかけるも、一切通用していない。何かもっといい断り方を...なんてそんなこと考えてる場合じゃない。助けに入らないといけないんだ。
なかなか踏み出せずにいる自分へ叱責したい気分だったが、それとは別に向こうから舌打ちする音が聞こえた。
「さっきから用事用事って、そんな大事な用でもあんの?」
「今日は妹が風邪で寝込んでるんです。だから早く帰って看病しないといけないので...」
言葉を遮って場に笑いが起こる。嫌な笑い方だ。
「それ、別に大した用事じゃねぇよな」
先程とは打って変わって声に威圧感が加わった。無関係の俺まで戦慄する。
「わたしにとっては...」
また声を遮って今度は彼女の手を掴む。まずい、連れて行かれる。
「こんなところで見ていてどうする...!動け...!」
俺は変わると決めたんだ。ここで動くのが男だろ...!自分に言い聞かせる。固く拳を握りしめ、陰から踏み出そうとするが緊張や恐怖で足にまともに力が入らない。でも、それでも俺は...
「手を離せぇぇぇぇぇ!」
彼女の手を掴む1人に、叫び声をあげながら捨て身で殴りかかる少年。信じ難いことだが、それは紛れもなく自分であった。これには流石の不良たちも驚いたようで、彼女から手を離し鋭い目を俺に向けた。なんと俺は見事解放することに成功したのだ。そして、その昂った気持ちのまま彼女の前に立ちはだかり、よろけた不良を睨む。その身体が脆弱なのは誰の目にも明確だが、勇気で満ち溢れていた。
「この子に手を出すのは俺が許さない」
何を言ってるんだ俺は。これじゃまるで厨二病だな。自分で言うまでもなく、不良たちからも「何言ってるんだこいつ」と聞こえた。...だよな。
「てめぇ...やってくれたな、ツレか」
「...あぁそうだ」
一瞬言葉に迷ったがそういうことにしておいた方が都合がいいだろう。勢いで慚愧に堪えない発言をしてしまったが今の状況、そんなことを気にしている余裕も猶予もなかった。
「随分威勢のいい彼氏さんじゃねぇか、なぁ」
後方から声が聞こえたのと時を同じくして、また笑い声が響く。後ろを見ると、その子は少し体を丸くして、ぼうっと立ち尽くしている。突然の出来事にさぞ驚いていることだろう。彼女に「大丈夫か」と声をかけようとするも、先に不良の1人が口走る。
「もう君はいいからさ。それよりこいつ、どうしてやろうか」
「へっ、まずは...こうだな!」
前を向く瞬間「あぶない!」という声が聞こえたが、反応する間も無く俺の腹に拳がめり込んだ。その衝撃と痛みで背中から倒れ込む。自分でも今何が起きてるのかわからなくなるほどの衝撃...こんなことは初めてで、冷静に思考する暇など当然、あるわけが無かった。そして、俺はそのまま動けなくなってしまった。鼓動とともに激しく波打つ鈍痛。悶絶するも、鳩尾を殴られたせいか声は全く出ない。
「弱ぇ!1発でダウンかよ!」
「強くやり過ぎだって!ゆっくりいたぶってやろうぜ!」
どうやら完全に俺に狙いを定めたようだ。でも...これであの子に逃げるチャンスを与えられただろう。目だけを動かして彼女のいたほうを見る。だが、未だに1歩も動かずその場にいる。...どうしたんだ、なんで逃げない。まさか恐怖で動けないのだろうか。...それとも俺のことを気にしているのか。それならば彼女に伝えなくてはならない。「俺のことはいい」と...
「助けなきゃ」という使命感を頼りに、負傷した身体を起き上がらせようとするが、気持ちとは裏腹に身体が言うことを聞かない。今までの恐怖がついに爆発したのか、はたまたこの痛みのせいか、脚は震え身体は強ばっている。だが、ようやく声が少し出るようになった。
「俺のことはいいから...はやく、逃げて...!」
まともな発音もできず聞くに耐えない声だったが、「どうしよう!」と言わんばかりの顔をしていた彼女にも十分伝わったはず...
「覚悟しろよ...」
不良の1人が指を鳴らした。よくフィクションで見かける、喧嘩の前にするアレだ。くそ、高校生活始まったばかりだっていうのに。走馬灯か、これ。昨日の光景が頭をよぎる。やっと...順調なスタートが切れたと思ったのに...あぁ蹴りが飛んでくる。拳じゃないのかよ...終わったな。目を瞑り、歯を食いしばる。が、来るはずの衝撃が一向に来ない。感覚が麻痺してるのかと思い、ゆっくりと片目を開く。そこに映った光景に、思わず両目を見開いた。か弱い立ち姿が、俺の前にあった。あまりに予想外の出来事に先程の痛みも忘れ唖然とする。
「この人にこれ以上手を出さないでください」
さっきまでとは少し違う、芯のある声で彼女はそう言った。こちらから顔は見えないが、きっと凛々しい表情をしているのだろう。
「こいつ...なに庇っちゃってくれてんだよ!」
そう言ったと同時に、両手で突き飛ばす。当然、そんな力で突き飛ばされた彼女は、俺の目の前へ尻もちをついた。
「あぁっ、大丈夫か!」
「おい彼氏さん、羨ましいなぁ守ってもらえてよぉ」
また、路地に笑い声が響く。もっともだ。自分でもこの状況がみっともない。助けようと格好つけて、返り討ちにされ、終いには逆に庇われる始末だ。
「ほんとに...俺のことはいいんだ...君はもういいって言われてたじゃないか」
せめて俺が身代わりになってこの子を守れたら...そう思って発した言葉だったが、このタイミングで言うと自暴自棄になったように聞こえるな。なのに、それでも彼女は―――
「...そういうわけにはいかないよ」
譲らない。ここまで危険な目にあっても俺を庇ってくれる。男数人に囲まれているのに。きっと立ちはだかるくらいしかできないだろうに。
...そうだ。今はこんなことで落ち込んでる場合じゃない。怖がってる場合でもない。彼女の勇姿を目の当たりにして、ネガティブになっていた心が逆転した。少し冷静さを取り戻したおかげか、周りの状況が見えてきた。不良達は5人。そのうち4人は金髪やら茶髪やらで見るからにガラが悪い。そして1人はわりと知的な見た目をしている。多分こいつがリーダーだ。そして目の前に尻もちをついている女の子が1人。表情は俺と比べて落ち着いているし、体も全く震えていない。怖くないのだろうか。俺もなんとか震えは止まったが内心ガチガチだ。さて、この状況...
「なんとかならないか...」
それを聞いて、彼女は振り返って微笑んだ。
「安心して」
「え、あぁ、君に言ったんじゃなくて...」
また心の声が漏れた。これじゃまるで彼女に「なんとかしろ」と言ったみたいじゃないか!
焦る俺をよそに、彼女は立ち上がって、また俺の前に立った。
「なに、まだ痛い目に遭いたいの」
「これ以上私たちに危害を加えるなら、あなたたちが痛い目をみることになります」
脅す作戦だろうか...?だとしたら...悪いけど全く怖くない...!彼女の喋り方や声質上仕方の無いことではあるが...
さっきからなんとなく感じてはいるが、危機感が欠けているというか天然というか...この状況を楽観視しすぎではないか。
「へぇ〜...女には手出さないと思ってるのかな、調子に乗りやがって!」
まずいまずい完全に逆効果だ。止めに入ろうと立ち上がりかけるが、もう振りかぶった拳が彼女に向かっている。
「あぁ!避けて!!」
もう間に合わない。俺が止めに入ったばかりに彼女まで怪我を負うことになるのか。こんなことなら初めから見て見ぬふりをした方が良かったのでは。見ていられなくなった俺は、思わず目を瞑ってしまう。
刹那、鈍い音が路地に響いた。ドサッ...と人の倒れる音。そしてもう一つ、聞こえてきたのは...男の悲鳴だった。
その声に、開きたくなかった目が自然と開く。...また予想外の光景だ。今にも殴りかからんとしていた不良が逆に殴られたかのように横たわっている。
「何が起きて...」
「あ...こ、こいつ!やりやがったなっ!!」
遅れてまた別の1人が叫ぶ。不良に目がいってしまい、彼女の方を全く見ていなかったが、ヤツの言葉からすると...倒れた不良は彼女に返り討ちにされた、と...?頭の中では理解しつつも、俺はその現実を受け止めきれずにいる。てっきり俺は絶体絶命の俺たちを救ってくれる第三者が現れたのだと思ったのだが、それは...他の誰でもない、彼女であった。そして、さっきの発言もハッタリなんかじゃなかった。不良たちのように驚きの声をあげることはなかったが、怒号が飛び交うこの場でただ1人、呆然としていた。
「やれ!」とリーダーらしき人物が号令すると、大人げもなく、残りの全員がこちらに向かってきた。「仕方ないですね」と彼女は呟いて、持っていた鞄を置き、途端に雰囲気を変えた。向かってくる数人を見事に捌き、華奢な体格に似合わない威力を誇る蹴りで、着実に落としていく。圧倒的人数差を全く不利に感じさせない...それどころかこちらが一方的なようにも見える。俺はまたもや何が起きてるのかわからなくなってしまった。本来なら加勢するべきところを、ただただ傍観している。...開いた口が塞がらない。
彼女の強さに見惚れているうちに、突如として始まったこの逆転劇は終わりを告げた。気付くと、もう立っているのはリーダーらしき人物のみ。たまらず後ずさりするも、うしろは行き止まりだ。
「わ、わかったもう行くからさ...な」
知的な風貌が、らしくもなく怯えきっている。彼女はなにも言わなかったが、見逃してやるみたいだ。すごい...武術の経験者なのか。決して見た目からも声からも、表情すらも強そうには見えないのに...
間もなくして無様に倒れこんでいた不良たちが起き上がり、漫画のような捨て台詞を吐いて、路地の入り口の方へ姿を消した。
「...大丈夫だった?」
本来、聞かれる側であったはずの彼女に、逆に質問される。
「う、うん君の方こそ...その」
未だこの状況に思考停止中の俺は、まともな会話ができない。例えるなら、ALTの先生に突然英語で話しかけられた時のような。
「うん、それなら良かった。私本当に急いでて...しっかり診てあげる時間もなくて...ごめんね」
柔らかい笑顔でそう言うと、彼女は置いた鞄を手に持ち、また明日、と手を振り走り去った。桜の散る、晴れた日の昼下がり。その路地は、何事も無かったかのように静まり返っている。そこにたった1人取り残された俺は、依然として先程の興奮が収まらないままで地面に座り込んでいた。閑静な住宅街の一角、無音の路地にひたすら心臓の音が響く。しばらくしてふと我に返り、電柱の影に置いてきた鞄を拾う。
「夢じゃなかったんだよな...?」
フィクションのような現実を受け入れられないまま俺は、恩人にありがとうの一言も言えず、1人帰宅することとなってしまった。
次回もお楽しみに!!