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春(その1)

今年の衣替えは松下のおばちゃんにとって少し骨の折れる仕事だった。

あの分厚いダウンジャケットはタバコの臭いが染み着き過ぎて、結局捨ててしまった。

そして冬物を奥にしまったあとのタンスには、バンドのTシャツが山のように突っ込まれることになった。

最初、色々なバンドのメンバーが松下のおばちゃんに「これ聴いてみて」と、音源を渡していた。

しかし松下のおばちゃんは、ロックやパンクの音楽性に関しては全くちんぷんかんぷんだ。

勿論貰った音源は大事にとっておくが、それよりもマーチャンダイズ=Tシャツなどの商品の方が松下のおばちゃんは喜ぶということにみんなすぐ気づいた。

かくして松下のおばちゃんの家には、Tシャツやリストバンド、缶バッヂなどのバンドグッズが大量にあふれ返ることになってしまった。

勿論Tシャツを貰ったバンドのライヴにはそのTシャツを着て撮影に行くのだが、あまりにもTシャツが大量すぎてなかなか見つからないこともしばしば。

リストバンドは撮影中の汗止めにもなるので意外と重宝することが分かった。撮影中はハンカチを出す時間も惜しい。

バンドTシャツに少しタイトな黒いズボンだとバランスも良いし、撮影にも自分が目立たなくて良い。

アイヴィーがくれた薄手の革ジャン風のジャケットに、缶バッヂを幾つもくっつける。

カメラにもバッグにもバンドのステッカーやスタッフ・パスがびっしりと貼り付けられている。

頭だけは今までの松下のおばちゃんだ。髪型までマネをし始めたら、いよいよおかしくなったと思われる。


バンドマンたちが使う用語にも慣れた。

歌い手がヴォーカル。

弦が6本なのがギター。4本がベース。そしてドラム。

キーボードやピアノを使っているバンドは意外と少ない。

バンドのリーダーが「バンドマスター」で「バンマス」。「ズギューン!」のバンマスはゴンちゃんだ。

革のジャンパーは、「革ジャン」か「ライダース(・ジャケット)」と呼ぶ。革のパンツは「革パン」だ。

ミッチがやってるような髪の毛をウニみたいに四方に立てるのが「スパイク」或いは「スパイキーヘア」。

両わきを剃り上げて真ん中を立てる「モヒカン」は以前から知っているが、それも人によって形がだいぶ違う。

髪の毛を複雑に編み込んだ「ドレッドヘア」の子も結構多い。坊主頭の子は「スキンヘッド」か「スキンズ」。スキンズはジャンルの一種でもあるようだ。

平日にライヴハウスが主催するライヴが「ブッキング」。バンドの主催ライヴが「自主企画」あるいは単に「企画」。

音源を発売するときに開催するお祝いのライヴが「レコ発」。もっとも、今はレコードを出すバンドは少ない。かといってダウンロード配信に積極的なバンドは意外に少なく、CDが主流だ。ライヴ会場でお客さんと触れ合いながら買って貰う素材として、CDはまだまだ健在だ。

パンク。ハードコア。Oi!。メロコア。エモ。ラウド系。サイコビリー。音楽の違いは分からないが、みんな何となく雰囲気が違う。

ヘビー・メタルは「ヘビメタ」とは呼ばず「メタル」と呼ぶと喜ばれるようだ。

フロアでピョンピョン飛び跳ねるのがポゴ・ダンス。

押し合いへし合いで暴れまくるのがモッシュ。モッシュが起きている場所がモッシュ・ピット。円を描くように暴れているのがサークル・ピット。

ステージから飛んだり人の上に乗ってゴロゴロ転がるのは、まとめて「ダイブ」と言っているようだ。

どれも正式な名称ではない。その辺は適当でいい。だいたい何をしているのか雰囲気が分かれば、それでいいのだ。

松下のおばちゃんは、ここ数ヶ月で「ライヴハウスの最前線で写真を撮りまくる、格好良いおばちゃん」という認知をされるようになった。

高円寺をはじめ、新宿、中野、荻窪、吉祥寺など都内近郊のライヴハウスでは、たいてい「あっ、おばちゃん来たね」で通じてしまう。

いつの間にか「おばちゃんを呼ぶときは、交通費と撮影代と写真代で2千円」というルールが出来た。

当初、写真は六つ切りの現物で渡していたが、インターネットで利用する利便性を考えて最近はCD-Rの形で渡すことが多くなった。

みんな彼女が来ると「おばちゃんおばちゃん」と寄って来ては、ビール片手に雑談に花を咲かせる。

もう撮影するだけの人ではない。松下のおばちゃんはロック界隈の住人になりつつあった。


もっともバンドマンの評価に反比例して、松下のおばちゃんの近所では「年甲斐もない」「派手好きな」「変わった人」という評価がもっぱらであった。

松下のおばちゃんに挨拶する主婦もめっきり減った。

別に気にはしていない。思った通りだからだ。

「困るとしたら、うちのオジサンが死んだときに近所で手伝ってくれる人がいるかしら、くらいね。」

おばちゃんはそう言って笑った。

今はこのまま行けばいい。息子や娘が沢山いて、こんな心強いことはない。


「おばちゃん、待ってたよ。」

アイヴィーが出迎えてくれた。今日はライヴがないのだが、アイヴィーに限らず高円寺のバンドマンは暇になるとギヤに来て時間つぶしをしている子が多い。

どのライヴハウスも好きだが、やっぱり一番最初に撮影した高円寺ギヤには特別な思いがある。

どのバンドマンも息子や娘みたいだが、やっぱり一番最初に出会ったアイヴィーには特別な思いがある。

今日はギヤに用事はないのだが、近くに来れば寄るのが習慣になっている。必ず誰かがいて歓迎してくれるし、それがアイヴィーとなればなおさら嬉しい。

「アイヴィーちゃん。」

握手の仕方も覚えた。

最初に普通に握る。そして手を離さずに腕相撲みたいな形に組み替えてもう一度握る。まあ、これも決まりというわけではない。

握る力が強いほど気持ちが伝わる気がするが、あんまり痛いのはごめんだ。それに握手をするよりは、握手するのを横で見ている方が気持ち良い。

「シンに会った?」

「さっきね。いつものところにいたわよ。」

アルバイトでティッシュ配りをしているシンを探して写真を渡すのが、松下のおばちゃんの習慣になっていた。

あの一件以来、シンは松下のおばちゃんが自分たちのステージで写真を撮ることには何も言わなくなった。

が、せっかくわざわざ印刷した写真を渡しても「後で見るから」と言ったきり、プイと仕事に戻ってしまう。

かといって後から感想を言ってくるわけでもなかった。

「おばちゃん、シンに写真を渡すことないよ。お金はミッチが払ってるんでしょ?CD-Rだけミッチに渡せば、それでいいんだからさあ。」

「いいのよ、あれはアタシの趣味だから。」

松下のおばちゃんは、さらりと言った。

「シンちゃんに認めさせたいのよ。」

「別にシンが認めなくても、みんな松下のおばちゃんのことは認めてるよ。そんなにこだわること、ないじゃん。」

「アタシのことなんかどうだっていいわよ。」

松下のおばちゃんはカメラをいじくり回しながらつぶやいた。

「シンちゃんよ。シンちゃんに『自分はこんなに格好良いんだ』って、認めさせてあげたいのよ。」

アイヴィーはつかの間、黙り込んだ。そして少し寂しげにほほ笑んだ。

「おばちゃん、よく分かってるね。」

「年を取ってますからね。」

「さすがだね。シン、自分に自信が無いんだよね。だから、あんなに虚勢張って。」

「シンちゃんはいい子よ。自分で気づいてないだけ。」

開場前のギヤは埃っぽいような静寂に包まれている。

「おばちゃん、ありがとうね。」


「おばちゃん、今日は何を撮りに来たの?」

「ホット・アンド・クールに呼ばれたの。二百万ボルトでライヴなのよ。」

「ああ、今日か。アタシもホット・アンド・クール大好き。後で観に行こうかな。」

「予定が無いなら、観にいらっしゃいよ。」

勿論、この会話は本日のギヤの出演者には聞こえないように喋っている。それくらいはエチケットだ。

「おばちゃんも、すっかりこの辺の顔になったね。」

「そうねえ、顔だけは売れてきたけど。でも写真に関しては、まだまだ名前負けもいいとこよ。」

「そんなこと…そういえば、写真展に出展するって言ってたよね。」

「『西野真一郎・芸術写真展』ね。でも、まだ出す写真が決まってないのよ。」

西野真一郎は、人物像を撮るカメラマンとしてはその道の権威といって良い存在だ。

年に一回、協賛を募って写真展を開催している。

松下のおばちゃんが所属していた写真サークルの仲間が、電話で近況報告をした際に写真展の話を教えてくれた。

「高く評価されるかどうか」はさておき、客観的な意見がもらえれば、と思って出展することにしたのだ。

ただ、写真がまだ決まらない。

「アイヴィーちゃんたちがアルバムに使う写真を出そうかなとも思ったのよ、最初は。」

おばちゃんは神妙な顔でそう言った。

「でも、アタシ自身はあの写真を心の底から納得しているわけじゃ、ないもの。アイヴィーちゃんには悪いけど。」

「分かるよ。アタシだって、人から『良かった』って言われても全然納得できないライヴ、よくあるもん。」

「アタシ自身が納得できた写真を出展しないと、本当の意味での評価なんか分からないじゃない。そう思ってるんだけど…。」

「まだ、撮れないんだね。」

松下のおばちゃんは黙って頷いた。

「アイヴィーちゃんのライヴで、それが撮れたら本当に嬉しいけど。でも、こればっかりは『撮りたい』と思って撮れるものじゃないからね。」

「そうだね。」

「まだ時間があるからね。もう少し頑張ってみるわよ。」

「おばちゃん、応援してる。」

そろそろ下に降りる時間だ。

「アイヴィーちゃん、レコ発は再来週だったわね?」

「おばちゃん、ちゃんと覚えておいてよ。ギヤで最高のメンツを集めたから、きっとすごい企画になるよ。」

「楽しみねえ。アタシの写真がCDの表紙になったのも早く観たいわ。」

「完成したら真っ先におばちゃんに渡すよ。聴くか聴かないかは知らないけど。」

アイヴィーはニヤリとした。

「時間があれば聴くのよ。洗濯物を干したりしながら、とか。」

「BGMにしてはかなりうるさいね。」

「『ズギューン!』は、いつもより長く演奏するの?」

「うん。長くったって、そんなに曲は無いけど。」

「絶対良いライヴになるわ。もしかしたら、そこで納得いく写真が撮れるかも。」

「だったら嬉しいけどね。でも、案外と今夜のホット・アンド・クールのライヴで撮れちゃったり、するもんだよ。」


ホット・アンド・クールのライヴは、確かに白熱で素晴らしかった。

しかし、今夜も松下のおばちゃん快心の一枚はお預けだった。

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