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冬(その6)

「松下さん。どこ、いらっしゃるの?」

ご近所の主婦の問いかけに松下のおばちゃんは無言だった。

よくよく見れば大きめの耳栓がハッキリ見えたはずだ。

「あらやだ。失礼ねえ。」

「急ぎの用でもあるのかしら。」

「最近、髪の赤い女と歩いてるの見かけたわよ。派手な格好して、なんていったかしら、キャバクラ?」

「商売女みたいな人?」

「いやあねえ。」

「水商売っていうより、あれよ、芸能人みたいな。派手なの。」

「松下さん、昔からよく分からないところがあるから。」

「もう60歳過ぎたかしら?ちょっと軽薄よねえ。」

「そのうち、おかしなことにならなければいいけど。」

「恐いわねえ。」


今日も「出演する全バンドを撮って欲しい」とアイヴィーから言われていた。

やっぱり体力的には厳しいけど、ペースは掴めてきた気がする。

ギヤの入り口をくぐると受付けには誰もいなかった。

「確かスタッフ・パスが出ていたはず。後でタダシちゃんに発行して貰いましょう。」

バー・スペースには顔見知りになった客=パンクスたちが何人かたむろしていた。手早く挨拶を済ませる。

「もう最初のバンド始まってるぜ。」

聞いていたよりも早いスタートだ。時間が早まることもあるのだろうか。

松下のおばちゃんは急いでホールの中へ向かった。

時間も早いので観客はまばらだ。

「ここなら荷物が汚れない」と教わった場所にダウンジャケットとカメラバッグを置き、カメラを組み立てる。

人が少ないけど、それはそれで写真が撮りやすくて良いだろう。


「ババア、コラッ!勝手に撮ってんじゃねえ!」

曲間の静寂が切り裂かれた。

誰もが松下のおばちゃんに目を向けた。

松下のおばちゃんも一瞬カメラを持つ手を止めた。

わざわざマイクを使って怒鳴った男は、ステージの右側でギターを弾いていた男だった。

若い子受けしそうなあごの細い端正な顔だが、細い眉毛にぎらついた目が人を遠ざける雰囲気をまとっている。

やや長めの黒髪は中途半端な状態で全体に立ち、額には細いヒモのようなものを巻いている。

裸の上半身はスリムながらも筋肉質だ。右腕に大きめの刺青が入っている。アルファベットの羅列みたいだ。

左ひざに穴の空いたスリムな革のパンツにボロボロの靴を履いている。アクセサリーはあまり身につけていない。

「てめえ、誰だコラッ!」

男はもう一度、凄んだ。

本来なら謝るべきだったかもしれない。

しかし、その怒った顔がまた何とも魅力的に見えてしまったから、カメラマンとは不思議なものだ。

松下のおばちゃんは思わずシャッターを切った。

「聞いてんのか、この野郎!ババアだからって容赦しねえぞ!」

男はあっという間にステージ下に降り立ったかと思うと、両手で松下のおばちゃんの胸ぐらをつかんだ。

恐がるべきかもしれない。

が、その時の松下のおばちゃんには、男が「強がっている子供」のように見えた。彼も精いっぱいだ。

「謝るから手を離しなさい。」

「なに、ババア!」

しかし周りの客やステージに立っていたバンドのメンバーがすぐに松下のおばちゃんと男の周りに集まると、有無を言わさず双方を引き離した。

男にはバンドのメンバーが何やら言葉をかけている。どうやらなだめているらしい。

「松下さん、大丈夫だから。」

目を上げると、松下のおばちゃんを押さえているのはタダシだった。

「タダシちゃん、ありがとう。」

男はまだ、ふてくされたような顔でメンバーに何かをまくし立てている。

ただならぬ雰囲気に、外にいた人たちが集まってきた。


「シン!」

よく通る声が響いた。振り返らなくても松下のおばちゃんにはそれがアイヴィーだと分かった。

「アイヴィー。」

ギターの男が言った。

「アンタ、何やってんの。また喧嘩?」

「このババアが、勝手に写真撮りやがってよ!」

アイヴィーは松下のおばちゃんを見た。

「今日のライヴは、全部のバンドを撮るって聞いてたから。」

「ああ、おばちゃんアタシが悪いんだ。今日、アタシらのライヴはギヤじゃないんだよ。この下の二百万ボルトなんだ。」

アイヴィーは申し訳なさそうな顔をしたが、すぐにシンと呼ばれた男に詰め寄った。

「だからって、おばちゃんに怒鳴ったりして。松下のおばちゃん、話したでしょう?」

「ああ、たぶんその婆さんだと思ったよ。だからって断りもなしに勝手に撮られて『はいそうですか』っていくかよ!」

「じゃあ、ちゃんとそう言えばいいじゃない!すぐにキレてさ、みっともない。」

「何だテメエ!殺すぞコラッ!」

再び激昂するシンを横目に、アイヴィーは松下のおばちゃんの肩を抱いた。

「行こう、おばちゃん。こんなやつの相手してる暇、ないよ。ミッチ、ごめんね。」

ミッチと呼ばれた、バンドのリーダーらしい髪をツンツンと立てている男は「分かってる」という顔で頷いた。恐らく前にも似たようなことがあったのだろう。

喧嘩は終わりらしく、その場の空気が緩むのを感じた。


「アイヴィーちゃん、ごめんなさい。アタシ何にも知らなくて。」

「アタシの方こそ、ごめん。おばちゃん、ギヤにしか来たことないもんね。」

ギヤの前の踊り場からさらに下へ続く階段を下りながら、二人は互いに詫び合った。

「胸ぐら掴まれたんだって。怪我はなかった?恐くない?」

「全然平気よ。長いこと生きてきて、あれより怖い目に何度も遭ってるもの。正直、子供が駄々こねているのを聞いてる感じだった。」

アイヴィーはプッと吹き出したが、悲しそうな顔になった。

「アイヴィーちゃん、あの子、知り合い?ずいぶん威勢が良かったけど、アイヴィーちゃんのタンカも大したものだったわね。」

「まあ、ね。」

アイヴィーは、二百万ボルトの前で立ち止まった。

「あれ、シン。アタシの、彼氏。」


あんなことが起きたせいか、その日の「ズギューン!」のステージはいつもにも増して激しかった。

松下のおばちゃんは最前列でそんなアイヴィーたちの姿を切り取った。

階段で見せた悲しそうな表情が、時折ファインダーの中に紛れ込んでくるようだった。

カメラは時に、そこにある以上のものを写し出す。

松下のおばちゃんはカメラを通してアイヴィーと心を重ね合わせていた。


その日のライヴが終わって、そのままライヴハウスの中で打ち上げの飲み会を行うことがある。

「ハコ打ち」というやつだ。

どこかへ行ってしまった松下のおばちゃんが、大きな包みを持って二百万ボルトに戻ってきた。

このご時世に丁寧な風呂敷包みだ。

「はいこれ、みんなで食べて。」

パンクスたちが今日一番かもしれない歓声をあげた。

大きなタッパーに、お稲荷さんときんぴらごぼう、そして松下のおばちゃん特製の漬け物がぎっしりと詰まっている。

「今日はおばちゃんの差し入れです。いっぱいあるから、たくさん食べて。」

たちまち、タッパーの前にみんなが群がる。

「うめえ、やべえ!うめえ!」

「お稲荷さん、久しぶりだな~。」

「俺、今日来て良かった!」

みんな嬉しそうだ。ジャッキーは黙々とお稲荷さんを頬張っている。

「ジャッキー、お稲荷さん好きなの?」

「うん。」

これが、初めてジャッキーと交わした言葉だった。口数は少なくとも態度で分かる男だ。

アイヴィーの方を見ると、彼女はニッコリ笑ってビールを掲げ、乾杯のしぐさをした。

「こらっ、ショージ、つまみ食いしない!ちゃんとお皿とお箸を使いなさい!」

行儀の悪いショージをたしなめるのも忘れない。

「松下さん、これ店からおごりです。今日はありがとうございます。」

アイヴィーから「イシ君」と紹介された二百万ボルトの店長が、松下のおばちゃんにビールを持ってきた。彼も凄いパンクのバンドをやっているらしい。今度、写真を撮らせて貰おう。

「ありがとうございます。頂きます。」

松下のおばちゃんはお礼を言うと、思い出したようにアイヴィーに声をかけた。

「ねえ、ギヤの皆さんにも来るように言って。みんなで食べよう。さっき迷惑かけちゃったし。」

アイヴィーは頷くと、黙って出て行った。


ニッコリして周りを見回した松下のおばちゃんに、一瞬だがゴンちゃんの目がうるんでいるように見えた。

彼はフロアの隅に座って漬け物を食べている。

松下のおばちゃんはゴンちゃんに近づいて行った。

「ゴンちゃん、お疲れ様。」

松下のおばちゃんの声に、ゴンちゃんは慌ててサングラスをかけた。

「おばちゃん、お疲れ。」

「美味しい?」

おばちゃんはただこう聞いただけだった。

「うん…旨いよ。何ていうかな…旨い。」

ゴンちゃんは独り言みたいに言った。

「お袋がさ、作ってくれた漬け物をさ、思い出すんだよ。もう何年も食ってないから。」

「そうなの。」

ゴンちゃんはまた漬け物を一切れ口に入れると、よく噛んでからビールで洗い流した。

「うちはさ、すっげー田舎なの。親父もお袋も農業やってて、カチカチでさ。成人したら公務員か家を継ぐか、なんて感じで。『バンドやってビッグになる』なんて、ふざけんなって感じで。それでさ、親父と大喧嘩して…。」

「出てきちゃったんだ。」

「もう、結構経つよ。『ビッグになる』はいいけどさ。実際んとこやってる音楽だってパンクだし、メジャーとか興味ねえし、何がどうビッグになるのか俺にもさっぱり分かんねえし。」

「帰るタイミング、なくしちゃったんだねえ。」

ゴンちゃんはしばらく黙っていた。

「昼間は左官屋やってよ、夜はバンドやってよ。バンドは最高だけど、飯はコンビニ弁当かラーメンで缶ビール買って飲むくらいが贅沢でよ。バンドやってるから大丈夫だけど、この漬け物食ったらな。ああ、ダメだダメだ。ちょっと待ってくれ。」

そう言って、ゴンちゃんはタバコに火をつけ黙ってしまった。男の子だって泣きたい時もある。

「いいから、たまには帰ってあげなさいよ。」

「でもなあ…。」

「アタシが写真大きくして持たせてあげるわよ。あとは新しいアルバム?それ持って、堂々と田舎に帰りなさい。」

ゴンちゃんが目を上げた。

「有名になっていなくても、お金持ちになっていなくても、アンタが頑張ってる証を見せればご両親もきっと安心するわよ。『ちゃんとやってる』って分かってくれるわよ。」

「俺の音楽、分かってくれるかなあ。」

「きっと分かるわよ。アタシは全然分かってないけどね。」

ゴンちゃんの弾けた笑い声が、終演後のホールに響いた。

「なんだ、そのオチ。おばちゃん、そりゃねえや。」

ゴンちゃんは長い間むせるように笑っていた。

「ありがとな、おばちゃん。考えておくよ。」


ギヤから人が流れてきた。

シンの姿もあった。彼はわざと松下のおばちゃんから一番遠くに座った。ミッチと呼ばれた男が松下のおばちゃんに向かってペコリと頭を下げた。落ち着いて見てみると、精悍な顔立ちのなかなかいい男だ。

アイヴィーもシンの近くに座っていた。松下のおばちゃんは漬け物の入った紙皿を持って、彼らのところまで近づいて行った。

「さっきはごめんなさい。アンタも食べる?」

シンは松下のおばちゃんをにらみつけた。

「シン、もらっておきなよ。これで手打ちだよ。」

アイヴィーが助け舟を出した。厳しい視線をそらさないまま、シンは乱暴な手つきで紙皿を受け取った。

「シンちゃんって言ったわね。あなたのバンドの写真も、撮ってもいいかしら?」

「カメラなんか、間に合ってるよ。」

「シン!」

アイヴィーが語気を強めた。

「アンタの怒ってる顔、良かったわよ。魅力的だった。今度は、ちゃんとライヴも撮ってみたいの。」

アイヴィーは黙ってシンを見ていた。

「勝手にしろよ。俺らのライヴは荒っぽいからな。怪我しても知らねえぞ。」

松下のおばちゃんは、それを同意と受け取った。

「ありがとう、シンちゃん。」

「しょせんババアが来るところじゃねえんだ。俺を認めさせるのは難しいからな。」

「いい加減にしなよ!」

アイヴィーが叫んだ。

「何がそんなに気に食わないの!」

「アイヴィーちゃん、いいのよ。」

松下のおばちゃんが取り成したが、アイヴィーはおさまらなかった。

「アンタ、いつもそう!偉そうに格好つけて、威張って怒鳴って。そうやって自分より弱い者に文句つけて、粋がってるだけじゃない。言っておくけどね、松下のおばちゃんはアンタの何倍もタフで何倍もすごいんだよ!アンタ、卑屈だよ!もっと堂々とやれないのかよ!」

シンもアイヴィーも立ち上がって、お互いを睨みつけた。

松下のおばちゃんも慌てて立ち上がった。が、周りのパンクスたちは見ているだけで一向に動こうとしない。

シンがアイヴィーに何か言った。声は小さくて聞き取れないが、威嚇するような音だった。

二人は出て行った。

「ちょっと、大丈夫なの?止めなくていいの?」

続いて出ようとする松下のおばちゃんをゴンちゃんが止めた。彼も周りのみんなも笑っている。

「いつものことだよ。」

「ああやって喧嘩して、仲良くやってんだよ。」

「本音でぶつかり合えるんだろ。あいつらお似合いだよ。」

「俺はあんな女はゴメンだけどな。」

最後はやっぱりショージが落とす。

「松下さん、大丈夫ですよ。座りましょう。」

イシ君が松下のおばちゃんを座らせた。

松下のおばちゃんは、もう一度チラッと天井を見た。

今ごろ2人は激しくやり合っているに違いない。

「『割れ鍋に綴じ蓋』なんて言ったら失礼よね。でも、あの2人はあれで良いのね。」

松下のおばちゃんは、静かにほほ笑んだ。


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