冬(その4)
カメラがアナログからデジタルに変わっても、自分で撮った写真は自分で現像したい。その気持ちに変わりはない。
松下のおばちゃんは自宅で写真の印刷が出来るよう、高性能のプリンターを購入していた。
パソコンで写真の管理も覚えた。
部屋の半分がたちまち散らかってしまったが、もともと息子たちが出て行って寒々としてしまった部屋だ。有効活用するに越したことはない。
人に渡す写真は、大きい方がいい。
カメラのフレームで確認しても、印刷してみるとまた雰囲気がガラッと変わる。
大きければ特に発見がたくさんある。
人に渡すなら、六つ切りサイズ(203×254ミリ)が最高だ。
ただし写真の中身までは保証できない。
出来上がったライヴの写真は、松下のおばちゃんには良いも悪いも判断がつかなかった。
今まで撮ったことのない類の写真だ。判断する基準がない。
果たしてアイヴィーは気に入ってくれるだろうか。
先日の爆音が嘘だったように、本番前のギヤは静かだった。
ゴトンゴトンと何かを片付ける音、小さな喋り声だけが流れていく。
まだ衣装に着替えていないような子も大勢いる。もっとも普通の人に比べれば、彼らは私服だってずっと派手だ。
普段着と感じたのは、彼らのリラックスした態度からかもしれない。
先日と同じように、こっちを見てはヒソヒソ話し合う子もいた。やはり異質に感じるのだろう。
構わずにフロアに向かい、言われたとおりに黒い幕を押し開けると、楽屋らしい小さなドアがあった。
ノックしてみたが特に反応は無い。
きっと、お行儀悪くて良いのだろう。
松下のおばちゃんは楽屋に入っていった。
楽屋は小さかった。タバコのヤニが染み着いて黄色くなった壁に、例の布製のシールが所狭しと貼られている。
小さな冷蔵庫がひとつ、衣装棚らしいラックがひとつ。
あとは楽器で埋め尽くされている。その日出演するバンドの楽器が全部置かれているようだ。
奥の方にかろうじてパイプ椅子が2つ3つ。その奥にある扉がステージに通じているのだろう。
アイヴィーは椅子の背もたれに逆向きに座って、仲間と話をしていた。
アイヴィーのバンドのメンバーが全員そろっている。他にも何人かいるようだ。部屋の狭さがさらに際立つ。
「おばちゃん。」
アイヴィーは立ち上がった。
「アイヴィーちゃん。」
松下のおばちゃんは笑顔を見せた。
奥にいた知らない顔の何人かが、鼻で笑ったのが見えた。
「分かるよね、松下のおばちゃん。」
アイヴィーが他のメンバーに言った。
「おお、こないだ写真撮ってくれた。」
背の高いモヒカンの男が答えた。松下のおばちゃんが気に入った「ズギューン!」のギターの子だ。タバコをくわえて、今日はサングラスを外している。予想通りの人懐っこい目をしている。
「彼がゴンちゃん、うちのギターでバンマス。」
アイヴィーが紹介した。「バンマス」って何だろう。
「よろしく。」
「アンタ、可愛い目してんのねえ。」
屈託のないおばちゃんの言葉に、ゴンちゃんは喉になにかつかえたような顔をした。メンバーが爆笑する。
「それを言うな~。」
「ゴン言われちゃった。サングラス外せば超いい人。おばちゃん、ズバリだね~。」
アイヴィーはゴンちゃんの肩をポンポン叩いた。
「最初の一言がそれかよ、あんまりだ。」
「あら、別にいいじゃない、あんた、いい男よ。」
松下のおばちゃんの容赦ないツッコミに、笑いの輪はさらに大きくなった。
「こっちがベースのジャッキー。ドラムのショージ。」
ショージと呼ばれたドラムの彼は白い歯を見せてニカッと笑った。短い髪を金髪に染めた細身で筋肉質の男。人懐っこい顔をしている。
ジャッキーは控えめに頷いた。彼は他のメンバーと比べると比較的普通の格好で髪型も地味だ。ただし髪の毛の色は緑だった。
数分後には、もう松下のおばちゃんは「ズギューン!」のメンバーと打ち解けてしまった。
「写真、持ってきたわよ。」
松下のおばちゃんは、ビニールのシートに入った写真の束を取り出した。かなりの厚みになっている。
アイヴィーは黙ってそれを受け取り、一枚一枚ていねいに見ていた。
他のメンバーもお互いに回しあって見ている。
楽屋にいる他の人間も、横から覗いていた。
みんな黙っていた。
長い時間、ずっと写真を見ていた。
松下のおばちゃんも黙っていた。
喉が渇くような気分になった。
アイヴィーが、一枚の写真をメンバーに見せた。
「これ、さ。」
ゴンちゃんが頷く。
「おお、いいよな。」
「例の新しいやつ、ジャケに使おうよ。」
「マジで?」
「良くない?」
「いや、良い…かなり、良い。絶対良いと思う。」
メンバーの興奮が伝わってきた。
「おばちゃん。」
アイヴィーが松下のおばちゃんに向き直った。
「凄いよ。凄く、いいよ、おばちゃんの写真。」
「本当に?」
松下のおばちゃんは、嬉しいと同時に当惑していた。何がどう「良い」のだろうか。
「うん、こんなに格好良く撮ってもらったこと、ない。」
「見るとさ、その時の情景とか気分とか、思い出すんだよな。」
「俺、こんな格好良いんだ!って思えるよ。」
「ショージお前、調子に乗るなよ。」
軽口をたたきながらも、メンバーは真剣だった。
「おばちゃんさ。」
アイヴィーが言った。
「アタシら、いま新しいアルバムをレコーディング中なんだけどさ。そのアルバムのジャケット…表紙に、このおばちゃんの写真を使わせてもらいたいんだ。」
「えーっ!」
松下のおばちゃんは素っとん狂な声をあげた。
「ダメかな?」
「いや、ダメなんてことは無いけど…いいの、そんな大事なものに。売り物なんでしょう?」
「売り物ったって、自主で作ってるんだから規模は大したこと、ないよ。でも、アタシらは本気で作ってるし、この写真は大したこと、あるからさ。」
「そう…。もちろん、好きなように使ってちょうだい。」
「ありがとう、おばちゃん。」
アイヴィーは、部屋の隅にいた男たちに声をかけた。
「誰かちょっとさあ、タダシ呼んできてくれない?」
坊主頭の男がうなずくと、部屋を出て行った。
「これ、そんなに良い写真なのかねえ。」
松下のおばちゃんは、アイヴィーがジャケットに使用すると決めた写真を眺めながらつぶやいた。
「ただ、夢中で撮っただけなんだけどねえ。」
「おばちゃん、そもそもそれが凄いんだよね。」
アイヴィーの言葉に、他のメンバーも深く頷いた。
「普通さ、あんな荒れまくってるライヴ中に、ど真ん中から突っ込んでいって写真なんて撮れないよ。前に雑誌のカメラマンが来たけどさ、ずっと後ろからズームで撮って、あとで写真見たら『何だこれ』って突き返したもん。」
「だって、前に行かないと表情とか撮れないでしょう。」
「そりゃそうだけどさ、おばちゃん。」
ゴンちゃんが答える。
「分かってても、普通は最前列にはなかなか来られないぜ。」
「普通にライヴ慣れしてる客とかなら分かるけどね。あれだけ客が暴れてるわけだから、ぶつかったり蹴られたり、機材壊されても仕方ないし。」
「パンク雑誌のカメラマンだって、結構びびって後ろの方からしか撮れないやつ、多いよ。それをさあ、60歳過ぎてるおばちゃんが陣取ってバシバシ撮ってるんだから…。」
「凄い根性してるか、何にも考えてないか、だよな。」
ショージの言葉にみんな笑う。どうやら彼がムードメーカーらしい。ジャッキーは黙ったままだが楽しそうにしている。
「どの写真もいいけど、特にこの一枚ね。」
アイヴィーだけがまじめな顔のままだった。
彼女がジャケットに使うといった写真は、アイヴィー、ゴンちゃん、ジャッキーの3人が揃ってジャンプを決めているところを、下からのアングルで見事に捉えていた。
「おばちゃん、これ狙って撮ったの?タイミング完璧だよ。」
「うん。最初の方から何回か、みんなでジャンプするところがあったでしょう。何回か見ているうちに「あっ、飛ぶな」ってタイミングが分かった気がしたのよ。それでそのタイミング通りに合わせてみたら、上手く撮れたの。」
「たった一回のライヴの中で?それ、凄いよ。凄いことだし、松下のおばちゃんが本当にアタシらと気持ちを合わせて、ライヴに集中してくれてるってことだよね。」
「かろうじて俺も写ってるしな。」
と、ショージ。確かに写真の隅っこには彼の姿も何とかおさめられていた。
今度はアイヴィーも笑った。
「でも、200枚近く撮ったのよ。持ってきたのが50枚くらいで、あとはピンボケだったり手とかマイクが顔に重なっちゃったり。失敗の方が多いのよ。」
「それでいいんじゃないの?アタシらカメラのことなんか分からないけどさ。動きが大きいんだから、数撃てば当たるってこともあるでしょ。それにしたって凄い写真だよ。」
アイヴィーは、自分の顔がアップになった写真を眺めながら言った。
「アタシ、こんな表情するんだね。なんか楽しんでるねこの子。それが、凄く伝わる。」
松下のおばちゃんは黙って微笑んでいた。
「アイヴィー、呼んだ?」
細面でなかなか整った顔立ちの男が楽屋に入ってきた。くしゃくしゃのハンチングをかぶり、大きめのメガネに風邪のマスクをあごまで引き下げ、ダボッとした水色の上着にカーキ色のパンツを履いている。飄々としながらも芯の強さを感じさせる雰囲気だった。
「ああ、タダシ来た。おばちゃん、これタダシ。ギヤの店長。タダシ、これ松下のおばちゃん。」
タダシと呼ばれた男は、ペコンと頭を下げた。
「松下さん。この前写真撮るの見てました。凄いですね。あんな風に前で撮る人、なかなかいないですよ。」
「店長さんなの。偉いですねえ。」
松下のおばちゃんの言葉に場が和む。
「ほんのバイト上がりです。偉くないです。」
タダシは謙遜した。
「タダシ、松下のおばちゃんに今日のスタッフ・パス作って。」
「あ、オッケー。」
「今後アタシらのライヴの時は、おばちゃんは無条件でスタッフね。覚えておいて。」
「分かった。」
松下のおばちゃんは事態が呑み込めず、きょとんとしている。
「でさあ、タダシあんたも今日、おばちゃんに写真を撮ってもらいなよ。ちょっとこれ見てよ。」
アイヴィーはタダシに写真の束を渡した。
「店長さんもバンドやってるの?それで今日出演するの?」
「まっ、よくあることだよ。こういう場所で働いてる奴は、たいていバンドマンだからね。タダシは『シナリオ』ってバンドやってんだ。アタシらとジャンルは違うけど、なかなかいいよ。」
「そうなの。」
タダシは熱心に写真に見入っていた。
「すげえなあ。松下さん、是非俺らも撮ってくださいよ。」
「タダシさん、アタシでよろしければ喜んで撮らせて頂きますよ。」
「お願いします。ギヤに関しては、松下さんはいつでもスタッフ、最悪ゲストにしておきますから。」
松下のおばちゃんは、意味が分からなかった。
「ゲストって何?スタッフは何となく分かるけど…特別ゲストみたいじゃない。」
アイヴィーが笑った。
「ゲストは、まあディスカウントだよ。ハコにもよるけど、ドリンク代だけ貰うとか通常よりも安く入場できる。スタッフはそのまま、出演者と同じ扱いだからお金はかからない。」
「そうなの。業界用語なのねえ。」
何から何まで、松下のおばちゃんにとっては初めてのことだらけだ。
「あの~…。」
アイヴィーたちがバタバタし始め、松下のおばちゃんも一度外に出ようかというとき、後ろから声がかかった。
さっき鼻で笑っていた男の一人だった。
「俺たちも今日の出演者なんすよ。出来たら、うちのバンドも撮って頂きたいんすけど…。」
結局、今日の出演バンド全てを撮影することになった。
何て大変なんだ!
壁に貼ってあった布製のシールのようなもの、あれがスタッフのパスだと分かった。「カメラ・松下」と書かれたパスは、Tシャツにペタンだ。ライヴが終わったらカメラバッグに貼り直すことにした。記念だ。
スタッフ・パスが無くてもギヤは再入場可能、出入り自由だということを聞いて、だいぶ気が楽になった。
長丁場だったが、前回のライヴよりも落ち着いて撮影することができた。フロアの客たちも松下のおばちゃんをそれとなくフォローしてくれていた。
途中で外に出て新鮮な空気を吸ったり、向かいのアイスクリームを食べたりして気分転換をした。
タダシのバンド「シナリオ」は「ズギューン!」とは全然違っていたが、また新たな魅力があった。
今日も帰りは夜の11時になった。玄関で源造が心配そうに出迎えてくれた。