冬(その3)
部屋の中にある全ての音が、ひとつの固まりになって自分に体当たりしてきたみたいだった。
音というよりは爆風だ。
松下のおばちゃんは慌ててドアを閉めた。今のは何だったんだろう。まだドキドキしている。まずは気持ちを落ち着けなきゃならない。
と思ったのもつかの間、内側からドアが開いて誰かが出てきた。
たちまちさっきの音が押し寄せてくる。衝撃波みたいに後ずさりをしてしまいそうだ。
出て行った男は扉を開けっ放しにしていった。閉めないと外に音が漏れるのではないか。
ええい、と松下のおばちゃんは扉の中に入った。少し音に慣れてきたみたいだ。しかし、ひたすらやかましい。何が鳴っているのか皆目見当もつかない。
目の前には黒い人影しか見えなかった。
10メートル四方くらいの部屋だろうか。天井はかなり低い。よく見ると天井はむき出しで、配管のパイプがそのまま見えている。
前方に強烈な照明が光っているから、あっちがステージだろう。今の時点では部屋の半分ほどを埋め尽くす人影しか見えない。
後ろの方は微動だにしないが、前の方はすごい勢いで動き回っている。
いったい何が起きているのだろうか。
誰かに聞こうにも、音が大きすぎて自分の声も聞こえない。
耳に入る音は痛いくらいだが、足元からお腹に響く音は何だか気持ちいい気がする。
少し前の方に行ってみようか。
真ん中を突っ切って前に行くのはさすがに気が引けた。それに、そのあたりは喧嘩でもしているような大騒ぎだ。
端っこから前の方に行けそうだった。
「すいません、すいません」と、聞こえない声で詫びながら、松下のおばちゃんは前の方に歩いて行った。
みんな松下のおばちゃんを不思議そうな目で見ていたが、誰もが少しよけてくれる。意外なほど親切な子たちだ。
みんな一様に派手だ。革のジャンバーに、汚れた派手なTシャツに、そのほかどれも街中では見かけないような衣服。
革の光沢が照明にキラキラとはねかえる。
黒、赤、銀が定番の色らしい。
腕にトゲのついたバンドをしている子もいる。
赤や青や金色の髪の毛をウニみたいに逆立てたり、いわゆる「モヒカン刈り」だったり、坊主の子も結構いる。モヒカン刈りの子をよくよく見ると女の子だった。「いったい、昼間はどうしてんのかしら。」そんな独り言も誰にも聞こえない。
ステージはフロアより一段高くなっていた。
松下のおばちゃんの首の高さくらいのまである黒い柵が、ステージとフロアを区切っている。柵にもたれてバンドを見ている人も多い。
ステージの上にはアイヴィーはいなかった。まだ出番ではないのだから当然だろうが、松下のおばちゃんは少しがっかりした。
いまステージの上にいるのは全員が男だった。
奥にドラム、左右にギター、ベース(の区別は、この時は分からなかった)。真ん中の男性がひときわ目を引いた。
長めの金髪を後ろになでつけ、オールバックのようなリーゼントのような形にしている。
上半身は白いタンクトップで、革のズボンを履いている。腕には使い込まれた革のバンドが巻いてある。
筋肉質な左の胸から腕にかけて刺青が入っているが、ここからではどんなデザインなのかはよく分からない。日本の刺青とは違うみたいだ。
鋭い目つきに不敵な笑みを浮かべた顔には、鼻筋を横切るように白いペイントが引かれている。何か意味があるのだろうか。
乱暴にマイクをひっつかみ、歌っているのか叫んでいるのか…とにかく、大暴れしている。一秒たりともじっとしていない。
目をギョロギョロさせながら気が狂ったみたいにステージをうろうろし、走り回り、胸をドンドン叩いて、柵の前で見栄を切る。
その間ずっとマイクに何か叫んでいる。とにかく忙しい。
彼に呼応するかのように演奏している他のメンバーも動き回っている。
ギターを弾いている革のジャンパーで固めた男の髪は、ウニのように逆立った髪がひときわ長くとがっていた。ドラムすらもマイクに向かって時折叫んでいる。
松下のおばちゃんが今までに見た、どんな演奏よりも騒がしく忙しかった。こんなのは初めてだ。
実際には、松下のおばちゃんが初めて体験したバンドのステージはわずか数十秒だった。
いきり立つバンドに負けないくらいにフロアの客も大騒ぎしている。
縦に横に動き、ぶっつかり、押し合い、叫ぶ。時々拳を突き上げる動きがそろう以外は「振り」なんてものは無いようだ。
激しく体当たりをされた男が松下のおばちゃんに背中からぶつかった。痛くはなかったが、とにかく驚いてしまった。
あちこちで同じようなぶつかり合いが起きているが、みんな喧嘩になることもなく自然にまた大騒ぎの中に飛び込んでいく。
気がつくと松下のおばちゃんはフロアの後ろの方まで下がってしまった。動き回る人の渦が松下のおばちゃんを弾き出したみたいだった。
強烈な音はまだ響き続けているが、最前列の喧騒からみればここは静かな安全地帯だ。
まだ心臓がドキドキいっている。
不思議と疲れはない。
これが、ライヴの初体験。名前も何も知らないバンド。
松下のおばちゃんの顔は輝いていた。
外に出ていいのか分からず、その後は隅っこの壁にもたれて続けて2つのバンドを観た。今のところバンドの違いはよく分からなかった。曲も歌詞も全然聴き取れないが、全部とても面白い。
写真を撮りたかったが勝手に撮って良いかどうか分からなかったし、何となく自分が一番初めに撮るのはアイヴィーのバンドでなければならない、という気がしていた。
バー・カウンターには、当たり前に水もジュースも置いてあった。
お酒を飲むも飲まないも自由ってことだ。
みんな実に楽しそうに、思い思いの楽しみ方をしている。
なんだかニコニコしてしまった。
バンドの演奏が終わると今まで演奏していたバンドが片づけを始め、次に出て来るバンドが準備にやってくる。
歌い手が準備に出て来ることはあまりないようだ。
だから革のジャンバーで固めたメンバーが演奏を始め、ステージの真ん中に勢いよくアイヴィーが飛び出してくるのを危うく見逃すところだった。
「ちょっとごめんなさい。」
さっきよりもスムーズに、さっきよりももどかしく、松下のおばちゃんは最前列に走った。
隅っこの柵の前が空いていた。急いで上着を脱ぎ、バッグを下に置いてカメラを組み立てる。
そういえばアイヴィーにも写真を撮っていいか聞いてない。でも、ええい、撮っちゃえ。
バッグと上着は手早くたたんで柵の後ろに押し込んだ。蹴っ飛ばされるかもしれないが、もう構っちゃいられない。
アイヴィーは初めて会った時と同じ髪型、同じメイクで立っていた。
しかし、その表情は全く別だった。
ここが彼女のホームリング。自信に満ち溢れ、この瞬間を心から楽しんでいるのが感じられた。
赤い振り袖の代わりに、これまた真っ赤な革のジャンバー。こんな色のジャンバーがあるなんて知らなかった。
白のタイトなパンツに黒い革のロングブーツで、前回は分からなかった体の線がしなやかに動く。
グッと頭を後ろにそらすと、吐き出すように歌い始めた。
声のトーンは女性らしく高めだが、やはり叫ぶような歌い方で歌なんてもんじゃない。
でも松下のおばちゃんには、他の歌い手と比べてその声がよく通るような気がした。
続けざまにシャッターを切る。
ズームを上下しながら、アイヴィーだけを何枚も追った。
そのフラッシュに歌っていたアイヴィーがこっちを見た。
少し怪訝そうな顔が松下のおばちゃんを確認した途端、ニッと笑った気がした。
そこからさらに勢いがついたように、アイヴィーはステージを所狭しと動き歌い上げる。
他のメンバーもアイヴィーに呼応するような動きをみせ、フロアも煽られてぐっちゃぐっちゃの団子状態になった。
松下のおばちゃんも背中を押され、目の前をひじがかすめ、いつ怪我をしてもおかしくない状態だ。
しかし周りの客たちは最終的に松下のおばちゃんが転んだりしないように配慮してくれているようだった。
みんな、いいやつ。
徐々に写真のリズムがつかめてきた。
最初はアイヴィーばかりを撮っていたが、他のメンバーと一緒の写真の方がさらに格好良く撮れることが分かった。
そのうち他のメンバーにもそれぞれの良さを感じて、個別の写真も撮り始めた。
特に長身で黒いモヒカン刈りの、タバコをくわえたギターの男の子。
サングラスで隠しているが、優しい目をしている。
優しい目の子が優しくないギターを弾く。そのコントラストが気に入った。
あっちこっち押され、一度は(故意ではないだろうが)髪の毛を引っ掴まれながらも、松下のおばちゃんは「ズギューン!」の写真を撮り続けた。
麻薬みたいだった。
バンドは立て続けに何曲か演奏し、少し間をおいて水(や、ビール)を飲んだり楽器を調整する。
その間に(主に歌い手=ヴォーカルが)何か喋る。つかの間の静寂が訪れる瞬間だ。
次のライヴの告知の他、人生を応援するような言葉が目立った。きっと歌詞もそんなことを歌っているのだろう。
アイヴィーも演奏の合間にお喋りを始めた。
「この前さあ、アタシ高円寺駅にいた時さあ、成人式だったんで(ここで拍手と祝福の声、はにかむアイヴィー)どうもどうも…で、着物着てたんだ。そしたらさあ、知らないおばちゃんに声かけられて。ナンパされて(みんな笑う)。写真撮らせてって言われて、『ライヴ来てくれたらいいよ』って答えたら、来てくれるって言うの。アタシの親より年上だと思うんだけど。ホントかなって思ったら、それがこのおばちゃん。」
えっ?と思ったら、アイヴィーは松下のおばちゃんを指さした。バンドのメンバー、フロアの客が大笑いする。
“馬鹿にされてるのかな…。”
と、松下のおばちゃんが思った次の瞬間、笑い声は歓声に変わり、大きな拍手とはやし声がフロアを包んだ。
「いいぞー!」「やるなおばちゃん!」「よく来た!」
みんな、とてもあったかい。
15分で汗だくになった松下のおばちゃんは、心の中までもあったまるのを感じた。
「せっかくおばちゃん来てくれたしさあ、写真も撮ってくれてるから、今夜のいっちばん凄いやつ、おばちゃんに見せてやろうぜ~よろしくっ!じゃあ次の曲いくよ!」
アイヴィーが喋るのに合わせてフロアの客が雄叫びとともに拳を突き上げ、そこからライヴはさらにものすごいことになった。
客がステージの上に登っては、フロアにいる客の頭の上に飛んでいくのだ。
フロアの後方から前の客の肩によじ登って、みんなの頭の上をゴロゴロと転がりながらステージに向かっていく者もいる。
驚いた、なんて言っていられない。今度は前後左右だけではなく、頭の上にも注意しないといけなくなった。
何度となく松下のおばちゃんの上に人の足や体が落ちてきそうになったが、幸いにも必ず誰かがそれを押さえ、向こう側に押しやってくれた。
いや、先ほどよりも明らかに松下のおばちゃんに誰かがぶつかる頻度が少なくなっている。
みんなに守られている。
松下のおばちゃんだけではない。誰かが転べば必ず他の誰かが助け起こす。
喧嘩みたいにぶつかり合いながら、みんなが楽しむルールを守っているようだ。
松下のおばちゃんはますます嬉しくなった。ピンボケでも何でも、無我夢中でシャッターを切り続けた。
今夜は「ズギューン!」が最後のバンドらしく、演奏が終わるとフロアは一気に静かになった。みんな冷たい空気と飲み物を求めてバー・スペースから出口に出ていく。
松下のおばちゃんも転がり出るようにギヤから出た。
一月の空気が、ほてった体に気持ち良い。
キーンという音が耳にこびりついている。
外で休むか迷ったが、結局は地下の階段にへたり込んだ。外で60歳のおばちゃんが座り込んでいたら警察を呼ばれてもおかしくない。
余韻を楽しむように階段に座って談笑する者もたくさんいた。半分以上の人はすぐには帰らないようだ。
「おばちゃん、お疲れさん。」「がんばったね。」「やるね。」
横を通る時に声をかけてくれる子もいる。
若い人にそんな声をかけて貰うことなんて、なかなかない。
松下のおばちゃんは笑顔で答えた。
「本当に来るとは思わなかったよ。」
目の前にプラスチックのカップになみなみ入ったビールが差し出される。
アイヴィーだった。赤の革ジャンバーから黒いTシャツに着替えている。どうやら自分のバンドのTシャツらしい。
メイクはかなり落ちていたが気にする素振りもなかった。
「アイヴィーちゃん。」
松下のおばちゃんは言ったが、自分でもビックリするくらい小さな声しか出なかった。喉がカラカラだ。
「飲んでよ。アタシのおごり。」
アイヴィーは松下のおばちゃんにビールを手渡すと、自分のカップを合わせて乾杯のしぐさをした。口紅がついたアイヴィーのカップは半分くらい無くなっている。
「ありがとう。」
松下のおばちゃんは音を立ててビールを勢いよく飲んだ。
酒は嫌いではないが、こんな飲み方をするのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろう?
乾いた体に吸収されていくように、あっという間にカップの半分が空いた。
今頃思い出したように、どっと疲れが出てくる。
「写真、撮ってくれたんだね。」
「勝手に撮っちゃって、ごめんね。」
「いいよ。だって写真が縁で来てもらったんだもん。今度、その写真も見せてよ。」
「勿論よ。あっ、そうだこの前の写真…。」
松下のおばちゃんはカメラバッグの脇のチャックを開けたが、顔をしかめた。
「アイヴィーちゃんゴメン。ちゃんと持ってきたんだけど、バッグも蹴っ飛ばされたり踏まれたりして写真汚れちゃった。せっかく六つ切りで持ってきたのに。」
「あはは、仕方ないね~ウチらの客は凶暴だから。でもみんな、いいやつばっかりでしょ。」
「うん、ぶつかりそうな時もかなり助けて貰った。恐かったけど面白かったわあ。」
「やっぱり変なおばちゃんだね。普通はビビッて帰ると思うよ。」
「年を取るとあんまり恐いものがなくなるのよ。」
さっきまで暑かった体が急に冷えてきた。松下のおばちゃんはいそいそとダウンジャケットを羽織る。汗でぬれたTシャツの上にダウンは不快だったが、風邪をひくよりはマシだ。帰ったら急いで風呂に入ろう。
「アタシら、来週の金曜もここでライヴなんだ。その時に写真持って来てほしいんだけど。」
「いいわよ。でも、また写真踏まれちゃうかも。」
「ライヴも来てくれるの?また?」
アイヴィーは少し驚いた。このおばちゃん、何だか本気みたいだ。
「じゃあさ、ライヴの前に来られない?5時位ならリハが終わって楽屋にいるから。ステージの左横に幕があったでしょ、あの奥。始まる前なら勝手に入って来ても誰も何も言わないから。」
「分かったわ。じゃあこの前の写真と今日の写真、両方持っていく。」
アイヴィーも松下のおばちゃんも立ち上がった。カップは2つとも空になっていた。
「じゃあアイヴィーちゃんご馳走様、ありがとう。ライヴも誘ってくれてありがとう。とっても面白かったわ。」
「アタシらの曲、どうだった?」
「曲は全然分からないけど素敵。」
アイヴィーはブッと吹きだした。
「正直だねえ、おばちゃん。」
「本当よ、だって音が大きすぎて。でもアイヴィーちゃんもバンドの人もキラキラして。全部輝いていたわ。本当に素敵。心臓がドキドキしちゃった。」
「ふうん。それが松下のおばちゃんの感じ方なんだね。」
アイヴィーは松下のおばちゃんについて自転車のところまで見送りに来た。荷物をかごに入れると一気に体が軽くなった。
「アイヴィーちゃん、じゃあまた金曜日ね。」
「うん、待ってる。あと、おばちゃんは耳栓買ってきた方がいいよ。最前列の両脇はスピーカーがあるから、特に音がデカいからね。」
「分かったわ、ありがとう。それじゃ、またね。」
去っていく後ろ姿は、どう見てもただのおばちゃんだ。
アイヴィーはしばらくその姿を見ていた。数十分前、そのおばちゃんが凄い力を発揮したんだ。
「写真、楽しみだな。」
風を切って自転車は進む。いつもよりも5分早く自宅に着いた。まだ興奮しているのだろうか。
帰宅すると体中がタバコ臭くてびっくりしたが、もう疲れ切ってしまって服を洗濯かごに放り込むのが精いっぱいだった。
何とかシャワーだけ浴びて、倒れこむように寝床に着いた。
源造が通しの勤務であるのをいいことに、次の日は一日中ゴロゴロしていた。