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冬(その2)

「お前、それで本当にそんなライヴホールだかハウスだか、行くつもりなのか?」

源造は夜勤を控えて夕食を始めたところだった。

松下のおばちゃんよりいくつか年下ではあるのだが、そろそろ夜を通して車を走らせるのは体にこたえるようになってきている。

特に冬場の勤務は明らかに嫌がるようになった。

「そうよ。」

松下のおばちゃんはそんな源造に味噌汁をよそってやる。

再婚した当初から二人の関係は常に松下のおばちゃんがリードし、源造が黙認するという関係だった。

急なことを言い出すのはたいてい慣れていたつもりだったが、今回ばかりは全く理解できない。

「お前よ、そんな若い人ばっかり来る場所にお前みたいな婆さんがノコノコ行って、笑われちまうのがオチだろうがよ。」

「いいじゃない、お呼ばれしたんだしさ。何だか予想もつかない所に行くのってワクワクしちゃう。」

「音がうるせえんだろ。耳が馬鹿になっちまうぞ。」

「アンタの愚痴が聞こえなくなって、ちょうどいいわ。」

松下のおばちゃんは源造のボヤキを適当にあしらっている。

源造は源造で、突飛な話に食事も上の空だ。

「なに、着て行こうかしらねえ。」

「な、なに?」

源造は喉の奥でくぐもったような音を出した。

「お前、なんだ若い人にまじってヒラヒラの服でも着ていく気か?頭のおかしい婆さんって言われちまうぞ。」

「馬鹿ねえ、オシャレする訳じゃないわよ。どんな格好が写真を撮りやすいか、場所の雰囲気が分からないじゃない。」

源造は天を仰いだ。

「お前、なんだ写真撮りに行くのか?そんな凄いところで写真なんか撮っていいのか?怒られちまうのが関の山だろ。」

「あら、そんなことないわよ。カメラのおばちゃんなんだから、写真を撮って当然でしょ。」

松下のおばちゃんは嬉しそうだった。

「すごく良い子なのよ。派手でキラキラして、でもとっても純粋な感じよ。今風の猫かぶっているような子よりずっといいわ。あの子がどんな格好でどんな歌を歌うのか、写真にしてみたいのよ。ロックなんて全然分からないけど、絶対面白いはずよ。」

「しかしなあ…。」

「この前の写真も持って行ってあげるつもりよ。」

松下のおばちゃんは独り言のように言った。

「あの子、キラキラしてたもの。」


「ギヤ」は、アイヴィーの言った通り、PAL商店街の中ほど、アイスクリーム屋の向かいの雑居ビルの中にあった。

数えきれないほど通った道だが、今までそんな場所は気にしたことも無かった。

よく見ると、エレベーター・ホールの上には確かにキャバクラの店名にまじって「ギヤ」という黒い看板がある。

派手に宣伝するでもなく「来たきゃどうぞ」という、安易に人を寄せ付けない雰囲気だ。

家からは自転車で20分。

アイヴィーと会ってから、松下のおばちゃんは予行演習のように何度も何度もギヤの前を通った。

夕方になると、ビルの前に無造作に黒いイーゼルが出される。

殴り書きのような字で、読みにくい横文字が並ぶ。

カタカナや漢字が混じることもあった。

どうやら、その日の出しバンドが表記されているみたいだ。

毎日、自転車でギヤの前を通った。

金曜日まで、アイヴィーのバンド「ズギューン!」の名前は無かった。

そりゃそうだろう。出番は土曜日だ。

何だか初恋みたいだった。


お上品なコンサートではない、ということは分かった。

花束なんか持っていくだけ野暮だろう。

写真を撮るための服装。他は気にしなくていい。

結局、黒いTシャツに黒い伸縮パンツ、いつものスニーカーとダウンジャケットにした。

ダウンなら暑ければすぐ脱げる。

中が暑いのか寒いのかも分からない。

座席などというものは、なさそうだ。

クロークやコインロッカーはあるのだろうか。

荷物はどこへ置けばいいのだろう。

カメラを収めたバッグがひとつ。あとは小さなポーチに財布とハンカチ、のど飴があれば十分だろう。

ポーチをたすき掛けすれば、あとは最悪、身に着けたままでもいい。

とにかくコンパクトに。こんなおばちゃんがカメラを持ってライヴハウスに一人で行くのだ。

なるべく目立たず、写真だけ撮って帰ってくればいい。

やっぱり初恋に似ている。


高円寺の街は年中が週末みたいににぎやかだけど、週末は週末でやっぱり騒がしさが一段と増すようだ。

PAL商店街は生活と娯楽が入り混じったいつもの独特な熱気で松下のおばちゃんを迎えてくれた。

自転車はギヤが入っている雑居ビルの裏に停めた。

毎日欠かさず見ていた例のイーゼルには、横文字に混じって「ズギューン!」とカタカナで書いてある。間違いないようだ。

少し奥まったエレベーター・ホールに入り、ボタンを押す。

あれっ、地下にはエレベーターが行かないみたいだ。

まあエレベーターの手前にある階段を10段も降りれば、踊り場の左側に入口らしきものが見える。多分あれがギヤだろう。

壁には一面にライヴのポスターらしい紙がベタベタと貼ってある。古いポスターの上に新しいポスターが重なり、ぐちゃぐちゃになっている。

踊り場の一番下、さらに続く階段には何人かの若者が座り込んで喋っている。

みんな汚れたTシャツにボロボロのズボンだ。革のジャンバーを羽織っているだけの人もいるが、この冬に寒くないのだろうか。アイヴィーがしていたような指輪やネックレスを、たくさん身に着けている

ちょっと怖い気もするが、ここで怖気づいては何をしに来たのか分からなくなる。

思い切って階段を降り始めたところで、ペットボトルの水を持ってくるのを忘れたことに気づいた。

まあいい、ライヴハウスというからには飲み物くらいあるんだろう。「水をくれ」なんて言ったら、笑われるのだろうか。


「おはようございまーす。」

受付けらしい小さな机の後ろに座った女の子が、目も上げずに言った。

少し小柄なぽちゃっとした鼻の大きい子で、耳にピアスをたくさん空けている。

グレーと黒の太いラインが入ったモヘアのセーターを着て、ベレー帽をかぶっている。こういうのもロックなんだろうか。

「前売りですか当日ですかー。」

目を上げると、ピアスは耳だけでなく鼻も唇も眉毛のところにも空いていた。女の子は松下のおばちゃんに少し驚いた顔をしたが何も言わなかった。

写真を撮りたくなったが、まずは受付けだ。

「ええと、アタシ『ズギューン!』の…。松下です。」

思わずバンドのメンバーみたいなことを言ってしまったが、ピアスの女の子は気にもしなかった。よくあることなのだろう。

「ドリンク込みで2千円でーす。」

ということは飲み物が500円か。どのみち飲み物は欲しかった。受付けの横にはバー・カウンターがある。後でメニューを見てみよう。

ピアスの女の子は、松下のおばちゃんから受け取った2千円の代わりに緑色の小さな長方形の紙をよこした。見ると「ライヴハウス・ギヤ」という文字の下に、スタンプ印で今日の日付と入場料金が押してある。

「飲み物はどうすればいいの?」

「そこのカウンターでチケットと交換でーす。チケットを残したい場合は裏にハンコ押しまーす。」

ピアスの女の子の言葉に、松下のおばちゃんは理解するまでに少し時間を要した。

要は、チケットを記念にとっておきたい時は裏にハンコを押して返してくれるということだろう。もちろん今日の記念に返してもらいたい。

まだ飲み物はいらないから、あとで来ればいいだろう。


狭いバー・スペースの裏手に会場に繋がるらしいドアがある。

中はとてもタバコ臭い。

ギヤの中も外と大差なく、壁中にポスターが貼られている。

ほかに、小さな布製のシールみたいなものもそこら中に貼りつけられていた。ギヤの名前が印刷され、マジックで日付けとバンド名らしき名前が書いてある。これは何なのだろう。

バー・スペースの中には2~3人の若者が壁にもたれて話をしている。

何人かがチラッとこっちを見て、小さな声でなにか言った。「お母さん」という言葉が耳に入った。誰かの親が観に来たと思っているのだろうか。

ドアの向こうからズンズンという音が聞こえてくる。

聞こえてくるというよりも響いてくるといった方が正しい。

何の音なのかは分からないが、演奏が始まっているんだろう。

アイヴィーは9時といったが、1時間も早く来てしまった。少し中の雰囲気に慣れておきたい。

ドアにはごついレバー式の取っ手が付いていた。それを押し下げて中に入るとまたそこは小さな部屋になっていて、目の前に同じような扉がもう一枚ある。

どうやら音が外に漏れないための工夫らしい。ズンズンという音は更に大きく聞こえる。

松下のおばちゃんは深呼吸をして、内側のドアをグッと押し開けた。

中から音が、爆発した。


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