二度目の冬(その7)
曲のブレイクが始まった。ドラムだけが心地よくエイトビートを刻んでいる。
ここでMCをすることになっている。
アイヴィーはマイクを掴んだ。
喋り出した瞬間に、もう腹は決まっていた。
「みなさん、今日は本当にありがとうございます。
みなさんにとって、一番大切なもの、一番大事にしているものはなんですか?
アタシは、歌です。
歌がなかったら、アタシは本当にダメな女です。
でも、アタシは気づいたんです。
アタシは、アタシ自身が本当に、この人に聴かせたい、この人に聴いて貰いたいという人のために歌っているんだと。
それは、時には大勢の皆さんだったり、時にはたった一人だったりします。
でも、大事なことは、アタシ自身が歌いたい!と思って歌を歌うことです。
アタシは、パンクでひねくれ者です。
みんながみんなに、分かってもらいたいとは思っていません。
ただ、いまこの瞬間、アタシの歌を一番聴いて貰いたい人に届けたい。
だから、ホンットみなさん、すいません!アタシ行きます!」
長い長いMCに違和感を覚えていたバックバンド、スタッフ、そしてファンの見ている前で、アイヴィーはマイクを置いた。そして一目散にバックステージへ向かって駆け出した。
ざわめく場内に、エイトビートだけが延々と続いていた。
広場の隅っこに、松下のおばちゃんたちは座り込んでいた。
「音、消えたな。」
「終わったのかしらね。」
缶ビールは二本とも空になっていた。
さっきまで心地よかった冬の風が、だんだんと身体を冷やしはじめている。雪が降りそうだ。
「おばちゃん、帰るか?」
「タダシちゃんたちも、もうすぐ出て来るでしょう。みんなで一緒に、ギヤに行きましょうよ。」
「おっ、おばちゃん珍しくオールナイトするか?」
「明け方までは無理だけど、いられるだけいるわよ。今日は、まっすぐ帰りたくないわ。」
「おばちゃん、あと40年早くそのセリフ聞けたら、俺が誘ってやったのによ。」
松下のおばちゃんはショージの頭を軽く小突いた。
立ち上がって軽く背筋を伸ばす。
最後にもう一度、カメラをDXホールの方に向ける。
何となく照準を合わせてみた。
向こうから走ってくる、アイヴィーに照準がおさまった。
「アイヴィーちゃん。」
DXホールのフロアは、取り残されたファンたちのざわめきがどんどん大きくなっていた。
ドラムが辛うじてエイトビートを刻み続け、ライヴを何とか継続させようと孤軍奮闘している。
アイヴィーが衣装替えやサプライズのためにバックステージへ引っ込んだのか、と考えるファンも多かった。
しかしどれだけ時間が過ぎても、アイヴィーは一向に戻ってくる気配がない。
スタッフのある者は無線を手に走り回り、ある者はただ茫然と立ち尽くしている。明らかに現場は混乱していた。
タダシはギヤのスタッフたちと一緒に、フロアの真ん中あたりに立っていた。
「タダシさん、どうしたんですかね?」
ケンジが聞いた。
「たぶんアイヴィー、松下さんのところへ行ったよ。」
「俺も、そう思います。」
「アタシたちも、行こうよ。」
フリちゃんが言った。
「でも、いいんですかライヴは?」
「もうアイヴィー、戻ってこないでしょ。分かるよ。おばちゃんとこ、行ったんだよ。」
「また何か起きる前に助けに行かないと。」
「今ならまだ近くにいるはずだよ。」
三人は一斉に、出入り口に向かって早足で歩きだした。
ほぼ同時にフロアの各所から、パンクスたちが出口に向かい始めた。
その足早なスピード、そして揺るぎない姿に、その他のファンもつられるように動き始めた。
罵声やブーイングは、一切出なかった。
ホール内にエイトビートだけがまだ響いていた。
「アイヴィーちゃん、どうしたの?」
あ然として立ちつくす松下のおばちゃんたちの前で、アイヴィーはしばらくの間、前かがみでひざに手を置き、肩で息をして呼吸が整うのを待っていた。全力で走ってきたらしい。
「出て…きちゃった…。」
「出てきた、じゃないでしょ!ライヴはどうしたの?」
アイヴィーは姿勢を伸ばした。だいぶ落ち着いたようだ。
「ライヴ、やるよ。今から、ここで。」
「ここで、って…アイヴィーちゃん、アンタ自分が何をやってるか、分かってるの?」
「うん、分かってる。アタシ、前に約束したでしょ。アタシの晴れ舞台は、松下のおばちゃんに写真を撮ってもらうって。それに、シンには絶対写真を見せたいよ。そうでしょ。」
「それは…。」
「だからおばちゃんたち、あんな無理して頑張ってくれたんだよね。アタシ、何も応えられなかった。だから。」
奥に見えるDXホールは、違和感を覚えるほど静寂に包まれている。
もうすぐスタッフたちがここへやってくるだろう。
「来てくれたファンの人たちには、申し訳ないと思うよ。でもさ、いまアタシの歌を本当に必要としている人に届けなかったら、何にもならないんだ。おばちゃんに届けてもらわなきゃ。」
「何も今日じゃなくたって良かったでしょ。明日でも、あさってでも。」
「なに言ってんだよ、おばちゃん。今日が、アタシのデビュー・ライヴだよ。いま、ここでやらなきゃ意味ないよ!」
アイヴィーは口を真一文字に結び、しっかりと立っていた。もはや何を言っても無駄なようだ。
いや、むしろ松下のおばちゃんだって…。
「おばちゃん。アタシはアタシなりに、アタシのやり方で『ちゃんと』やるよ。」
アイヴィーのデビュー・ライヴ。松下のおばちゃんが、何よりも撮りたかったライヴ。
シンに、届ける写真。
「バカ息子はシンだけだと思ってたけど、アンタも相当のバカ娘だよ、アイヴィーちゃん。」
松下のおばちゃんはそう言って、カメラを持ちあげた。その顔は、優しく微笑んでいた。
「そうだよ。アタシたち、松下のおばちゃんのバカな娘とバカな息子だもんね。それに、アタシたちパンクだもん。お行儀は悪い。けど、筋は『ちゃんと』通すよ!」
ゴンちゃんがケースからギターを取り出した。
「アカペラってわけにはいかねえだろ。アンプ通せないから、音はしょぼいけどな。」
「…ベースの音なんか、聴こえるかどうかも怪しいよ。」
と、ジャッキーが急いでベースのチューニングをする。
「ドラムはどうする?スティックしかねえぞ。」
「パンクなめんなよ!手拍子と足踏みで十分だぜ!」
「おーっ、ショージかっこいい!」
「まあ、手拍子と足踏みのどこがパンクなのか、それは俺にも分かんねえけどな。」
この期に及んで、ショージはどうしてもギャグを言わなきゃ気が済まないらしい。
でも、ま、それがいいんだ。
「よし、いいか~早くしないと邪魔が入るぜ!」
「おばちゃんも用意はいい?」
「いいわよ!」
「よしっ、行くぜ!」
ワン、ツー、スリー、フォー!




