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冬(その1)

振り袖の首もとに巻く毛皮のマフラーみたいなのは、どうにも好きじゃない。

それ以外は、色とりどりの着物を着て思い思いのはしゃぎ方で、成人式という晴れ舞台に酔いしれる若い子たちを見るのは大好きだ。

「私の時代は、あんなことしたくても出来なかったものね。」

松下のおばちゃんは誰に話すとでもなくつぶやいた。


やはり「私の時代」にはなかった一眼レフのデジタルカメラは、軽量化が進んだ今でも60歳にはそれなりに重たい。

ここのところ毎日カメラを持って出歩いている。

60歳の誕生日に、2番目の夫である源造が買ってくれたのだ。

「子育てが終わったご褒美」だそうだ。

2人の息子は源造の実の子ではないが、特に親子の仲は悪くもなく(「とても」ではないが「ほどほどに」良く)、成人式は数年前に終わり、下の息子も昨年に家を出てひとり暮らしをはじめた。


カメラを貰ったのはその数日後だ。

「そんな話、したっけ。」

松下のおばちゃんは覚えていないが、源造は覚えていたらしい。

松下のおばちゃんが若い頃、とある写真家の先生についてモデルをしていた時期があった。

これでも昔は道を歩けば男の人が振り返った時期もあったのだ。

モデルのかたわら、現像から焼き付け、基本的なことはひと通り教わった。

モデルのショーの賞品がカメラだった。そのカメラでよく写真を撮ったものだ。

そして結婚、出産、離婚、2人の子供を抱えての子育て。とにかく生活する、子供を一人前にする、それだけが全ての毎日。

カメラの存在は記憶の片隅に放っておかれた。

還暦を迎えて、突然目の前に「忘れてたでしょ」と出てきたのが、源造が買ってきたこのカメラだった。

実直なタクシー運転手の源造に、そんな粋な部分があったのも驚きだった。


とにかく、カメラに必要なのは被写体だ。

地元の写真サークルのメンバーは、花やお寺などを撮っているらしい。

それはそれで結構。でも、松下のおばちゃんには周りの人が勧めてくれる被写体が、どうにも気に入らなかった。

「だって、ここは高円寺だもの。」ひとり言のように松下のおばちゃんはつぶやく。


一眼レフが入ったカメラバッグを抱えていると、身に着けた冬服がよけいに重く感じる。カメラは構えた瞬間にだけ重さを忘れるのだ。

JR高円寺駅前はごった返していた。いつものように雑多な人種が歩き回っているが、やっぱり成人の日は着物姿が主役だ。みんな「これ以上の日はない」という顔をしている。

ここに来れば今日はいい写真が撮れそうな気がしていた。

写真サークルを辞めたのは、単純に「人」を撮る人が他にいないからだった。

松下のおばちゃんは「人」が好きなのだ。

好きな「人」を撮るのが、ごく自然だと思う。

肝心なのは、どんな「人」を撮るか、だ。

だから今日もこうやって駅まで来てみた。

日々、色々な場所を歩いていれば、何か…誰か、見つかるかもしれない。


見つかったかも、しれない。

成人式を迎える若者、女の子たちの中に。


前に、結婚について息子たちが話していたことがあった。

早々と結婚して子供もいる長男と、根なし草の鉄砲玉な次男。

次男はそんな気質のくせに家庭を持つ長男がうらやましく思えることがままあるらしい。

「若いうちは色々遊んで、たまには悪い女にひどい目にあわされるのも勉強だけどな。結婚する相手なら蛾じゃなくて蝶を見つけないとなあ。」

先輩ぶって長男が言うと、次男はニヤリとして、

「俺は、蛾が好きなんだよ。」

その時はみんなで笑った。「なに、言ってるの」という感じだった。


次男の言っていることが、分かった気がした。

「美しい蛾」というものも、いるということを。

その毒々しさに、美を見いだせることを。


彼女はロータリーの真ん中にある広場に、ぽつりと、しかし堂々と立っていた。

誰よりも存在感があるのに、周りには誰も寄ってこない。

みんな彼女を意識しながら無視している。

無視しているが意識せざるを得ない。

派手な柄の真っ赤な振り袖に、さらに赤く染めた髪の毛が逆立っている。

髪の右半分はウェーブがかかって顔の周りにゆるくかかっているが、あとの左半分は真っ赤な太陽のように鋭く立たせている。

かなりの長さなのに、どうやっているのだろうか。

ルージュもマニキュアも髪に合わせたように真っ赤だ。メイクは巧みだが、ラフな化粧の仕方にも見える。

整った顔立ちで、小さなハート形の顔にやや切れ長の目、少し小さな日本美人の鼻、口はわりあいに大きい。

背は平均よりも高いようだ。しなやかで筋肉質なのが着物を着ていても姿勢の良さで分かる。

ハッとするほどの美人ではないが、いやでも目を引くタイプだ。

ほっそりした手には指輪が沢山ついている。

普通の女の子が身に着けるような、きらびやかなリングじゃない。

鈍く光る銀色のドクロがやたら主張している。ピアスも合わせたように銀だ。

威嚇ではなく、近づいたら射抜かれそうなたたずまいだった。

「なんだか、ライオンみたいね。」

松下のおばちゃんは口の中でつぶやいた。


普通なら、恐がるんだろう。

でも、その時の松下のおばちゃんには「面白い」という感情しか湧かなかった。

ひとりでに体が動いたように、松下のおばちゃんは彼女の前に立っていた。

近くで見ると、メイクに隠れた素顔は思ったよりもずっと若いことが分かった。

考えてみれば、振り袖を着ているんだから新成人に決まっている。

彼女は視線をそらしながら目の端で松下のおばちゃんを見ていた。

じろじろ見られるのには慣れている、といった顔だ。

でも松下のおばちゃんは、ただ真っ直ぐに彼女の眼を見てこう言った。

「アンタ、綺麗な髪してんのねえ。」

予想外の言葉に彼女は一瞬何と返事していいか分からず、戸惑っているようだった。

視線が松下のおばちゃんに真っ直ぐ向いた。

「あ…ありがと。」

選んで出てきた言葉にしては、よく通る気持ちの良い声だった。松下のおばちゃんはその声がとても好きになった。

「すごいわねえ。」

彼女はその言葉に自分を立て直した。目つきがやや冷やかになる。好奇の眼差しは慣れっこだ。

「おばちゃん、何か用?」

目の前にいるおばちゃんは、小柄な体で不格好な黒のダウンジャケットに藍色の伸縮パンツ、靴は古いスニーカーで、体に対しやけに大きなバッグを抱えている。

髪はいわゆる「おばさんパーマ」を後ろで束ねている。人懐っこい顔に笑みが浮かんでいる。少し「サザエさん」に見えなくもない。

どう考えても自分に用があるタイプには見えない。

「写真、撮らせてほしいのよ。」

唐突な申し出だった。彼女にはすぐに真意がはかりかねた。

「いやだよ。なんでよ。」

“アタシのこと面白がってるのかな、このおばちゃん”

「だって、すごく綺麗なんだもの。」

「それだけ?」

「そうよ。」

目の前にいるちんちくりんな初老のおばちゃんはニコニコしながら返事を待っている。

「うーん…。」

面倒くさいなあ。でも、邪険にするには何かが引っかかる。

「プロのカメラマンなの?」

「違うわよ。見ての通り、普通のおばちゃんです。」

「ああ、そう…。」

彼女は答えを出せずに困った顔をしていたが、やがて思いついたように松下のおばちゃんに聞いた。

「ひょっとして、アタシのこと知ってるの?」

「えっ、誰かの娘さんだったかしら?」

「違うよ。アタシのバンド、知ってる?」

「アンタ、バンドやってんの?」

「そうだよ。ヴォーカルだよ。」

「歌を歌う人?何のバンドやってんの?」

「う~んと…うるさいやつだよ、パンク、ロックだよ。」

この質問は誰に何回訊かれても説明が難しいし面倒くさい。できたら省きたいのだが、逃れられないのだ。

「へえ~。凄いわねえ。」

でも松下のおばちゃんはそれ以上追及しなかったし、その言葉遣いが彼女は気に入った。

「じゃあさ、いいよ撮っても。」

「本当に?嬉しい~。」

「その代わりさ、チケット買ってよ。」

松下のおばちゃんは目をぱちくりした。

「チケットって、バンドの?コンサート?」

「コンサート…まあ、そうだね、ライヴ。ギグだよ。」

「いいわよ。」

あまりにもアッサリと松下のおばちゃんは答えた。

「いいわよって…チケットの値段も言ってないよ、まだ。アホだね、おばちゃん。」

「アンタ、人を困らせるタイプには見えないもの。」

彼女はちょっと口元の端っこでほほ笑んだ。

「1枚1500円。今度の土曜日、PAL商店街のライヴハウス「ギヤ」ってとこ。アイスクリーム屋の向かいの、キャバクラとか入ってるビル、分かる?あの地下だから。まあ、別に来なくてもいいけどさ。」

「行くわよ。面白そう!」

松下のおばちゃんは古びたがま口から千円札を2枚出して彼女に渡した。何故か彼女は受け取らなかった。

「正直、すごくうるさいしタバコ臭いし、おばちゃん向きじゃないよ。本当は客じゃない人にチケット売るの嫌いなんだけど、今回ノルマがきつくてさ。しょうがない。」

「ノルマがあるの?出演料が貰えるんじゃないの。」

彼女は“やれやれ”という感じで首を振った。

「ハコから…ライヴハウスからノルマ出されてさ。機材とか場所代って感じなのかな。アタシらが呼んだ客が多ければ、バックでギャラが出るけど…だいたいは、とんとん。ダサいバンドなら、毎回自分らで金を払う羽目になってるよ。」

「そうなの。厳しいのねえ。それじゃ、ご飯は食べていけないわね。」

「そんなやつ、プロでもない限りひと握りだよ。みんな大体バイトしてる。」

おばちゃんは興味深く聞きながら、自然にカメラを出して素早く彼女の写真を何枚か撮った。ポーズを決める暇も無かった。

「ちょっと、撮るなら撮るって言ってよ。」

彼女は少し不機嫌そうに言った。

「だってバンドの話をするアンタ、すごくいい顔してるんだもの。ポーズつけた写真より、ずっといいわよ。」

「あ、そう…。おばちゃん、面白いね。何だろう、面白い。それに話をさせるのが上手いね。何か普段言わないようなことまで喋っちゃった。」

「あら、でもアタシは別に何も言ってないけど。」

松下のおばちゃんの言葉に、二人は目を見合わせて笑った。

「変なおばちゃん。」

彼女は“少し心を開き過ぎた”というように真面目な顔になった。

「本当にライヴ来る気あるんなら、アタシたち9時から出番だよ。だいたい時間は押すけどね。」

「お金、払うわよ。」

「今はいいよ。チケット持ってきてないし、来なかったら悪いもん。ハコの受付で、アタシたちの名前で『前売り』って言ってくれればその値段で入れるからさ。『ズギューン!』ってバンドなんだ。」

「へえ、凄い名前ねえ。」

彼女は高架の方を見て、えり元をすっと直した。そろそろ何処かへ行くつもりらしい。

「ハコは地下の一階と二階と両方ライヴハウスだから。ギヤは二階の方ね。」

「分かったわ。必ず行くからね。」

松下のおばちゃんはもう何枚か彼女の写真を撮った。今度は彼女も少しポーズをとった。

「じゃあ土曜日ね。たぶん、おばちゃん逃げ帰ると思うけどね。おばちゃんみたいな人はまず来ない場所だよ。」

「どんなかしら。楽しみだわあ。」

駅の方に歩き出した彼女に、おばちゃんはにっこり笑って言った。

「今日はどうもありがとう。ライヴも誘ってくれてありがとう。絶対行くわ。あと…。」

「なに?」

「アンタの名前、まだ聞いてないわ。」

彼女はその言葉に思い出したようにちょっと微笑んで、松下のおばちゃんに向き直った。

「ああ、そうね。アイヴィー。アタシ、アイヴィー。それで通ってるから。」

「アイヴィー?アイビー・ルック?」

「なに、それ。」

今度は彼女がポカンとする番だった。

「ああ、いいのよ。昔そういうファッションがあったの。アタシ、松下よ。松下侑子。」

「松下か。松下の、おばちゃんね。」

「そうよ。」

彼女…アイヴィーは松下のおばちゃんをもう一度見て、また口元で笑うと再び駅の方へ歩いて行った。

「じゃあね、松下のおばちゃん。縁があったら土曜日、待ってる。」

「じゃあね、アイヴィーちゃん。」

松下のおばちゃんは去っていくアイヴィーの後ろ姿を最後に一枚、写真に収めた。

「何だか凄いことになっちゃったわね。」


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