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秋(その3)

デビュー・シングルとなる曲が完成した後も、アイヴィーはスタジオにこもって取り憑かれたようにセッションを重ねていた。

シングルに続いて発売予定のアルバムに収録される曲も、既に予定曲数の倍は出来上がっている。それでもアイヴィーは作曲を止めなかった。

音楽に関わっている時は、全てを忘れていられる。


大手レコード会社からアイヴィーにつけられたマネージャーは、彼女より少し年上の女性だった。

スケジュールを調整したり、必要なものを手配し段取りをつけることに関しては有能だ。やる気もある。性格も悪くない。

でも、彼女に話せることは何もない。

「お疲れ様です。」

「ああ、お疲れ様です。」

これが全てだ。あとは予定を確認するだけ。

マネージャーに限らず、面談から契約、レコーディングに至る今まで、アイヴィーに悪意を向けたり邪魔をしたり、足を引っ張ろうとする者は、ただの一人もいなかった。

当然だ。みんなアイヴィーに期待している。大いに期待しているのだ。

アイヴィーも、それは分かっているつもりだった。

だが今は正直、戸惑っていた。

レコード会社にとって、これはビジネスだ。

彼女にとって、これは人生そのものだ。

進むべき方向は合致している。

にもかかわらず、どうしても綺麗にパッケージされて商品として並べられるような感覚が拭えない。

反発する理由が見つからないが、反発したいような衝動に駆られる。

期待にどう応え、どう反発していいのか。

それが全く分からなかった。

「一人で闘わなくちゃいけない」と思ってやってきたこの場所で、彼女は真っ暗闇の中、相手を探し出せずにいた。


「アイヴィーさん。デビュー・ライヴ、決まりましたよ。会場はDXホールです。」

「そうですか…大きいね。」

「5千人は入場できます。日程は来年の…1月12日。成人式の日で、すいません。デビューが急なので、他の日が押さえられなくて。」

「成人式…。」

「ええ、成人の日です。アイヴィーさん、今年でしたよね。」

松下のおばちゃんと、始めて会った日だ。

初めて、写真を撮って貰った日。

全てが、始まった日。

「アイヴィーさん、大丈夫ですか?」

「ん?ああ、大丈夫。」

これも偶然のイタズラなのか。いや、ここに来るまで偶然なんかただのひとつもなかった。

あれから一年後。

松下のおばちゃんに、写真を撮って貰いたい。

アタシと、おばちゃんのステージで。

「来週からプロモーションが始まります。」

「プロモーション…。」

おばちゃんの件は、あとで必ず事務所に言わなくちゃ。今は、とにかく前に進まなきゃ。

気に入ろうが気に入るまいが、やらなくちゃ。

「メインはPVの作成です。それから雑誌とウェブのインタビューがかなりあります。さ来週の水曜日にテレビ出演も決まりました。お昼の情報バラエティ番組で…。」

「バラエティ…。」

そんなことも、やらなきゃいけないのか。

「そうなんです。CMのタイアップも決まったので積極的に露出していくことになります。忙しくなりますので今週のうちに休んでおいて下さい。」

コマーシャル。タイアップ。世間に、飲み込まれていく。

「はい、分かりました。」

上等だよ。かかってこい。


「昨日、観た?『パンク・ロックの歌姫。』」

「ああ、アイヴィーだろ?観た観た。すげえいいじゃん。」

「歌、上手いしね。可愛いし。可愛いっていうか、いい女。」

「エロくね?」

「セクシーだよね。」

「あの子、バンドやってたんでしょ?」

「インディーズで結構売れてたバンドらしいよ。友達が観に行ってたもん。」

「ソロでデビューしたの?バンドは?」

「解散したんじゃね。」

「ちょっと、ひどくねえ?」

「でも格好良いもんな。あれは放っておかないって。」

「デビュー・シングル、とりあえず買うでしょ。」

「買う、買う。」

「俺、もうダウンロード予約したよ。」

「デビュー・ライヴ、DXでやるんだって。観に行こうかな。」

「お前、ハマり過ぎだろ。」

「だって、すげえいいよ。存在感ありすぎ。」

「ところで『パンク・ロックの歌姫』って何?」

「そういうノリで売りたいんでしょ。荒っぽいシーンの出身だって。」

「今じゃ、パンクも歌謡曲?」

「何でもいいよ。アイヴィー、超いい。絶対売れるって。」


電話向こうのアイヴィーの声を聞いた瞬間から、松下のおばちゃんは何を言われるのかをほぼ確信した。

アイヴィーの声は沈んでいた。

「おばちゃん。」

「アイヴィーちゃん。デビュー・ライヴおめでとうね。良かったわね。」

「ありがとう。」

「大きい会場じゃない。お客さんいっぱい入るし、頑張らなきゃねえ。」

「うん。」

「アタシも応援してるから。絶対観に行くわよ。」

アイヴィーはなかなか本題を切り出せなかった。

「おばちゃん、ごめん。」

「どうしたの?」

「せっかくのデビュー・ライヴだから、松下のおばちゃんに…写真、撮って貰おうと思ってた。絶対、おばちゃんじゃなきゃ、ダメだったのに。」

「そんなことないわよ。」

「他のことはさ、何でも言うこと聞いて我慢したんだ。テレビだってイヤだったけど出たし、偉い人にもたくさん挨拶したり。『アタシらしくねえな』って思いながら、それでも頭下げたよ。」

「よく我慢したわね。偉いわあ。」

「今のアタシのワガママ、たったひとつだけだったのに。たったひとつも、叶えられなかった。」

アイヴィーの声には悔しさがにじんでいたが、もう泣くことはなかった。

涙は、あのスープカレーの店に置いてきた。

「誰か、他にカメラマンがいたのね。」

「大物アーティストのライヴ写真を専門に撮ってる、安瀬って人がさ、『ぜひ自分に』って売り込んできて。有名な人らしくてさ、会社は喜んで『どうぞどうぞ』で。アタシに話が回ってきたのは、全てが決まった後だった。」

「仕方ないわよ。」

「その人、松下のおばちゃんが撮った新聞の写真を観て『君のことは気になってた』って言うんだよ。悪い人じゃないけどさあ、すごい自信満々で。『あの写真よりもすごいのを撮ります』だって。笑わせんじゃねえよ。」

「だって一流のプロなんでしょう。アタシなんか足元にも及ばないと思うわよ。」

「おばちゃんに勝てるライヴカメラマンなんか、いないよ。」

「そんなことないわよ、上には上がいるわよ。その人の写真、観たの?」

「うん。上手には撮れてると思うよ。でも、でもさ。何か…何か、違うんだよね。何か足りないんだよね。それが何なのか分からないんだけど。」

「アタシの写真に慣れちゃったから、他の人の写真に違和感があるだけだと思うわよ。安瀬さんっていうの?今度アタシもその人の写真、観てみるわ。」

「あの松下のおばちゃんが撮ってくれた写真、あの一枚には色々な思いや出来事が込められてる。あの一枚は単なる写真じゃない。アタシの人生が写ってるんだ。それを軽く『超える』とか、言われたくないんだよね。」

「いいじゃないの、悪気はないんだから。」

「ここまで来て誰も彼もみんな、悪気はないんだよ。悪気があった方がいいよ、ぶっ飛ばしてやれるから。でもさ…お偉いさんも事務所もマネージャーも関係者も、どいつもこいつもみんな、自分勝手な期待をアタシに押しつけて、さも『良いことした』みたいな顔をして。アタシはそれをありがたく受け止めるしかなくて、結局カメラマン一人、自分で選ぶことさえできない。ああ、力が欲しいよ。」

「いずれアタシの出番だって回ってくるわよ。あんまり気にしないで。」

「アタシの晴れ舞台、おばちゃんに撮ってもらう運命だと思ってたのに。ライヴの日にちだって、おばちゃんと初めて会った成人の日だし。」

「そういえばそうね。でも、そんなにこだわる必要はないのよ。いつだってアイヴィーちゃんが歌えば、それが大事な日なんだから。」

「おばちゃん、ありがとう。少しスッキリしたよ。約束を破って本当にごめんね。」

「いいのよ。当日はみんなで観に行くからね。チケット買うわよ。」

「ダメ、ダメ、そんなの。みんなの分、チケット送らせるから。せめてそれくらいしないと、アタシの気が晴れないよ。」

「無理しないでね。」

「うん、大丈夫。正直言って無理はしてるけど、おばちゃんや高円寺のみんなから元気を貰ってるから。」


写真家・安瀬準一。彼の写真集は、少し大きな書店の音楽書籍コーナーに平積みで置いてあった。

松下のおばちゃんは写真集をパラパラとめくってみた。

写っているのは大物バンドや歌手ばかり。松下のおばちゃんは、そのほとんどを名前すら知らなかった。

写真集の半分も観た頃には、アイヴィーが言う「何か、違う」の意味が松下のおばちゃんには分かった。

「これは、アイヴィーちゃんは納得しないわね。」

やっぱり、自分が撮ってあげたかった。

そういう巡りあわせではなかったのか。

松下のおばちゃんは、アイヴィーの顔を思い浮かべようと目を閉じた。

しかし何故か脳裏に浮かんだのは、シンの顔だった。



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