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夏(その4)

そのライヴ当日はあいにくアイヴィーに取材が入ってしまい、松下のおばちゃん一人で行くことになった。

シンのバンドは出ていた。

が、シンは出ていなかった。

シンのバンドはヴォーカルもギターを弾くので、ライヴには支障なかった。が、いつもより厚みの無い音は松下のおばちゃんにも若干寂しく聴こえた。

いや、寂しく聴こえたのはギターのせいじゃないかも。

終演後、苦虫を噛み潰したような顔で他のメンバーが外に出て行った。

松下のおばちゃんはバー・スペースでミッチと会った。

「シン、だろ。すっぽかしだよ。」

「何か、急用とかトラブルでもあったんじゃないの?」

「いや、すっぽかしは今日で二回目なんだ。」

ミッチのスパイクヘアは、今の気分を表すかのようにグンニャリと垂れ下がっていた。

「この前は、ライヴ前に中野で飲んでて飲み過ぎて『ライヴのこと忘れてた』って言ってた。そんなの誰も信じなかったけどな。」

「アイヴィーちゃんには、リハーサルに行くとかライヴに行くとか言ってから出かけてるみたいだけど。」

「リハも最近はよくすっぽかすよ。俺は平気だけど、あいつら見たろ?だいぶ怒ってる。『クビにしろ』とも言われたよ。」

次のバンドのライヴが始まった。みんなバー・スペースからぞろぞろとフロアに入っていく。

「アイヴィーちゃんのこと、かしらね?」

「それしか無いだろうな。ギヤに出るのも嫌がるようになったし。ここは思い出が多すぎるからな。」

松下のおばちゃんは、この前のアイヴィーとの電話を思い出した。

「アイヴィーちゃん言ってたわ。シンちゃん、昔に戻ったみたいだって。」

「そうだな。アイヴィーと出会う前のシンが、ちょうど今のシンみたいだったよ。二人が付き合い始めて、シンは飲む量が減ったし周りにも厳しく当たらなくなった。それが、ここしばらくで元に戻っちまったみたいだ。」

「シンちゃん、アイヴィーちゃんを見て焦ってるのかしらね。」

「そんな感じなのかな。隣に寝ている女が、てめえと同じポジションから抜け出てどんどん先に進んでいっちまう。自分にとっては居心地良い場所がアイヴィーには満足できない場所なんだって、そんな風に思ってるんだろう。」

「アイヴィーちゃんはアイヴィーちゃん、シンちゃんはシンちゃんなのにねえ。」

「本心ではシンもアイヴィーを応援してやりたいけど、そうすると置き去りにされる気がするんだろうな。今は二人とも気持ちに余裕がないよな。」

シンがギヤに来なくなったのは、例の肋骨の一件があってからだ。

松下のおばちゃんは、あの日3人に何かを変えるきっかけを作ったのだ。

シンと、アイヴィーと、そして自分自身に。

アイヴィーと松下のおばちゃんは、それを掴まえた。

シンは、それを掴み損ねた。

いや、今でも掴もうとしてもがいているのかもしれない。

「アタシ、シンちゃんと話してみるわよ。」

「おばちゃん、頼む。俺じゃ話しても喧嘩になるだけだから。」

「そうね。ここは年寄りの出番かもね。」

「はは。でもさ、俺はあいつにギター弾いてて貰いたいんだ。問題ばっか起こすけど、シンより格好良いギタリスト、そうはいねえから。」

「ミッチ、あなたも頼んだわよ。」

「ああ、他のメンバーのことは任せとけ。いつまで抑えられるかは分からないけどな。」


シンを見つけ出したのは、それから二日後の夕方のことだった。

シンは何ごともなかったかのように商店街の中でティッシュを配っていた。

松下のおばちゃんは少し離れたところからシンを見ていた。

シンはいつもと変わりないように見えた。強いて言えば、いつもよりさらに目つきが悪いようだ。いら立っているのだろうか。

松下のおばちゃんは後ろからシンに近づいていった。

いつもならシンはサッと向こうに行ってしまう。

今日は近くに来ても逃げなかった。

「シンちゃん。」

シンはゆっくり振り返った。その顔色は真っ白だった。

「アンタ。調子、悪いんじゃないの?」

近くで見ると、目つきの悪さは熱っぽさのためだと分かった。動きもいつもより明らかに遅い。

夏風邪でも引いたのだろうか。

「ちょっと、大丈夫?」

「放っておいてくれよ。」

シンはそっぽを向いた。しかし急な動きに力が入らないようで、へなへなと崩れ落ちそうになる。体勢を立て直したひょうしに、ティッシュを取り落してしまった。

「いいわよ、拾うわよ。」

松下のおばちゃんもシンも地面に手を伸ばす。触れたシンの手は熱かった。

「すごい熱じゃない。シンちゃん、病院行かないと。」

「うるせえな。放っておけよ。」

いつもの威勢は見る影もない。

「ティッシュ配り、歩合制でしょう?いま配らなくても、あとで何とでも出来るわよ。早く病院行かないと。」

「うるせえな、無えんだよ。」

「…え?」

「無えんだよ。」

「無いって、何が?」

「保険証だよ。」

夏の長い日差しが、ようやく陰りを見せはじめた。もうすぐ7時ごろだろうか。

「保険証なんて、みんな持ってるでしょう。」

「金、払ってねえから止められてるんだよ。いいから放っておいてくれよ。」

松下のおばちゃんは立ちつくしてしまった。シンはもう立ち上がる気力も無く、その場に座り込んでいる。

「とにかく、こんな状態で仕事なんか無理よ。帰りましょう。」

シンは言い争う気力も無くしたようだった。


ティッシュの大きな箱を自転車にくくりつけ、松下のおばちゃんとシンはアパートまで帰ってきた。

アイヴィーは明日から夏フェス「レッド・インク」に出演のため、家を留守にしている。

サブステージの前座だが、とにかく夏フェスだ。

松下のおばちゃんも誘われたが断っていた。年寄りが野外のライヴで熱中症にでもなったら、周りに迷惑がかかる。

シンをパイプベッドに寝かせ、松下のおばちゃんは冷蔵庫をひっかき回した。

案の定、ビール以外はほとんど何も入っていない。

さいわい炊飯器には冷やご飯が残っていた。悪くはなっていないようだ。

来る途中に野菜を少しとスポーツドリンクを買ってある。

松下のおばちゃんはありあわせの材料で雑炊を作り始めた。

手持ちの鎮痛剤があって良かった。シンに食事をさせて、薬を飲ませて寝かせればいい。

「はい。おじや、出来たわよ。」

小さいテーブルに雑炊の鍋と取り皿を置き、ベッドにあおむけに寝るシンに松下のおばちゃんは声をかけた。

シンは薄目を開けてこっちを見た。

「少しでもいいから食べなさい。熱冷ましならあるから、食べてから飲んで。」

シンは松下のおばちゃんを睨んで黙っていた。

またきつい言葉が返ってくるかな、と思ったが、シンはやおら起き上がり、無言で食べ始めた。

「美味しい?」

「熱あんだよ。味なんか分かんねえよ。」

「可愛くないわねえ。」

シンは一心不乱に食べていた。少し鼻水が出るようだ。

鼻をすすりながら、それでも食べていた。

松下のおばちゃんは、アイヴィーの鏡台の上に鎮痛剤と一万円札を置いた。

「明日になったら役所に行って、何とかこれで保険証を発行して貰いなさいよ。病院代くらい、あるんでしょ。」

「アイヴィーに借りるよ。」

「今、いないでしょう。しょうがないわねえ。じゃあ、それも貸してあげるわよ。『あげる』って言ったらアンタ甘えるから、元気になったらちゃんと働いて返すのよ。」

松下のおばちゃんは一万円の上にさらに五千円札を置いた。

シンは雑炊を平らげると鎮痛剤をスポーツドリンクで流し込み、倒れ込むようにベッドに横になった。

「『ちゃんと』か。『ちゃんと』って何だ?」

「アンタ、風邪を引いたら急におしゃべりになったのね。」

帰り支度をしながら、松下のおばちゃんは笑った。

「『ちゃんとしろ、ちゃんとしろ』って、生まれてからこの方ずっと言われ続けてきたけどよ。『ちゃんと』って何だ?意味分からねえ。」

シンは天井を見つめていた。

「親父もお袋も世間も、どいつもこいつも勝手なことを押しつけやがってよ。パンクやってりゃ自由だ思ったら、銭もなけりゃ何にも思い通りにならねえ。同じことアイヴィーにも言われたよ。『ちゃんとしろ』って。なんでパンクになってまで『ちゃんと』しなけりゃならねえんだ?『ちゃんと』してねえからパンクじゃねえのか?」

松下のおばちゃんは、答える代わりに聞いた。

「アンタ、アイヴィーちゃんのこと、どう思ってるの?」

「アイツはよ、パンクやってても俺とは違うよ。バイトだって文句言わず休まねえしよ。目標持ってよ、金はねえけど、バンドだってレーベルと契約してよ。一緒に住んでたってアイツだけ別の国に行ったみたいでよ。」

前にアイヴィーから同じような言葉を聞いた。あれは、いつのことだったか?

「音楽でも生活でも何でもよ、アイツだけ生き生きしやがって…。俺は毎日クソ面白くもねえティッシュ配って、風邪引いても病院にも行けなくてよ。いったい何なんだよ俺は。」

松下のおばちゃんは口を開いた。

「シンちゃん。『ちゃんとしてる』ってね、社会的に身分があるとかお金があるとか、そんなことじゃないのよ。アンタが本当に相手にしなきゃならないのは、アイヴィーちゃんとか、親や世間じゃないわよね。自分自身に引け目を感じるか感じないか、よね。それは分かってるはずよね。」

シンは黙って聞いていた。

「反論しないのね。」

「たまにはね。」

松下のおばちゃんはほほ笑みそうになりながら続けた。

「アイヴィーちゃんはお母さんがいないけど、アタシは5歳で父親を亡くしてね。中学校しか出ないで就職したのよ。それこそ何でもやったわよ。女だてらに車の免許とって、配達の仕事して、結婚して離婚してまた結婚して、働いても働いても楽にならなくて。苦しくて、時には『うつ』みたいになったしね。」

やだやだ、自分語りなんて年寄り臭いことこの上ない。

「でもね、一つだけ決めてたことがあるの。『どんなに大変でも、自分自身に引け目を感じるようなことだけはしない』って。だから60歳過ぎてパンクのライヴに行って世間から色々言われたって、アタシは全然平気なのよ。自分で『ちゃんとしてる』って思ってるから。」

突然、松下のおばちゃんはシンが真剣に聞いていることに気がついた。

「保険証が無いのが悪いとか、お酒飲むのが悪いとか、パンクだから悪いとか、そんなのは関係ない。アイヴィーちゃんがどうなるかも関係ない。アンタとアイヴィーちゃんがこれからどうなっていくかは誰にも分からないけど、アンタはアンタで自分に正直でなきゃいけないのよ。それが今のアイヴィーちゃんとアンタが、ちゃんと向き合える道よ。」

黙って聞いていたシンは、やがて目を閉じた。

「…寝る。」

松下のおばちゃんは立ち上がった。

「おやすみシンちゃん。余計なこと言って、ごめんね。」シンは無言だった。松下のおばちゃんは靴を履いたが、扉に手をかける前に付け加えた。

「シンちゃん?」

「何だよ。」

「お酒、飲んじゃダメよ。」

シンは思わず苦笑いをした。

「お袋みてえなこと言いやがって…。」

松下のおばちゃんは振り返らず出て行った。。


シンが本音を語ってくれた嬉しさもあった。

自分が余計なことをしゃべり過ぎてしまった後悔もあった。

松下のおばちゃんは、少しボーっとしながら帰宅の途に就いた。

まさか、風邪をうつされたんじゃないだろうが。


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