夏(その3)
「ズギューン!」のたまり場は、高円寺のエトワール通りにある小さなスープカレーの店だった。
店の店員である女性が元バンドマンで、店の中はピンク色の壁に所狭しとロックなアイテムが装飾され、バンドのフライヤー(チラシ)が壁一面に貼りつけられ、あるいはカウンターに整頓されて置かれている。
もちろん「ズギューン!」のフライヤーも、ライヴのたびに毎回貼らせて貰っていた。
「何でゴンのとこ、電話いかなかったんだよ。アイヴィーの方にかかってくるって、おかしいだろ。」
「さあ、な。あの加藤ってやつ、女好きなんじゃねえか?」
ゴンちゃんはアイヴィーに視線を送りながら答えた。
タバコの白い煙がピンク色の店内にくゆって紫に見える。
4人は奥にあるテーブル席に落ち着いていた。
男連中は全員、日ごろ「野菜が足りない」とか言っているくせに、肉ばかりがゴロゴロ入った焼きチーズカレーを食べている。
アイヴィーだけがスープカレーだった。大ぶりの骨つきチキンと野菜がふんだんに入っている。
どちらも店主が有名店で修業を積み、独自のスパイスを組み合わせた、雑誌でもたびたび取り上げられる実力派のカレーだ。
たまの贅沢をしながらバンドの打ち合わせをするのがこの店だった。
「しーちゃん、アタシ生ビールおかわり。」
アイヴィーは店員に言った。
「あの加藤ってやつ、そのうちシンに殺されるぞ。シンが一番嫌いなタイプだろ、アイツ。」
「ショージ、黙らねえとお前がアイヴィーに殺されるぞ。」
エクストリーム・ワークスの加藤から、アイヴィーの携帯に連絡があったのは今週初めのことだった。
「契約のことでお話がしたい。社長も会いたがっている」という話を受け、昨日の夜、アイヴィーとゴンちゃんが赤坂の事務所まで行ってきた(ショージも行きたがったが、「お前が来ると話がややこしくなる」と止められた)。
「事務所ってどんなだよ。でかいのか?」
「一応、自社ビルらしいよ。オシャレな感じだった。」
「マジかよ?」
「そんな大きくはないけどな。俺たちは二階の応接室みたいな場所で話したけど、上にはスタジオもあって、あとライヴも出来るスペースがあるんだ。そこで定期的に企画を打ってるらしいぜ。」
「ふうん、赤坂ねえ。俺には一生縁のない場所だと思ってたけどな。やっぱり俺も行きたかった!」
「これから行く機会がいくらでもあるだろ。焦ること、ねえよ。」
ジャッキーが口をはさんだ。
「で、契約の話だけど。」
すかさずショージが引き取る。
「おお、そうだよ。メールじゃ意味がよく分かんなかったけど、『一枚契約』って何だ?」
みんなの視線がアイヴィーに注がれた。アイヴィーは黙って、骨つきチキンをつついていた。
「ゴン、話してあげて。」
「要は、アルバム一枚をエクストリームから出す。アルバムがノルマ以上売れたら、そこから歩合で給料が出る。ノルマをクリア出来ないである程度の期間が過ぎたら契約終了、クビ。そういうことだ。」
ジャッキーとショージは、その内容について考え込んでいた。
「まあ、実力勝負って言っても間違いはねえな。」
「思ったより悪くないな。」
「拍子抜けって言ってもいいな。もっとメチャクチャな条件出されるかと思ってたぜ。」
ふと、ジャッキーが言った。
「…でもアルバムを出すって、この前リリースしたばっかりだけど。」
「そうだよな、急いで作ったって半年はかかるぜ。そんな急ピッチで作りたくねえしな。その辺はどうなんだよ?」
「やつらが言うには、『この前のアルバムをパッケージし直してエクストリーム盤として売るか、新しい曲を足して編集盤を出すか、どっちかでどうですか』だって。」
「なんだあ、それ。いい加減だなあ。」
ゴンちゃんはビールを飲みほした。
「お代わり、ください。…まあ、永ちゃんの言葉じゃないけど、所詮あんなのミカン箱ひとつ置いてやってる商売だよ。予想はしてたよ。」
「で、どうするんだ?」
「それを今から決めるために集まったんじゃねえか。」
「しーちゃん、あたしにももう一杯ちょうだい。」
アイヴィーの飲むペースが早い。
「あと、もう一つあるんだ。」
ゴンちゃんが口を開いた。
「なによ?」
「アルバムのどの曲でもいいから、シングルカットで一枚出すって。」
「シングル盤?」
「そう。で、カップリングで新しく、バラードっぽい曲を入れてくれって。」
全員が、沈黙した。
「どういう意味だ?」
「バラード?俺たち、パンクだぜ?」
アイヴィーはビールジョッキに口をつけたまま、黙っている。せっかくのスープカレーには、ほとんど手をつけていない。
「まあ、アイヴィーの歌を聴かせたいんだろうな。」
「…確かに、アイヴィーの歌は凄いけど。」
「今までの俺たちの楽曲じゃ、それが伝わらないって言いてえのか。くそっ、面白くねえな。止めちまうか?」
いきり立つショージをゴンちゃんがなだめた。
「向こうが出してきた条件はそれだけだ。あとは音源の流通も全国でやって貰える。デカいレコード屋なら、まず置いてくれるよ。」
「それは…まあ、嬉しいよなあ。今までほぼ手売りだけだもんなあ。」
「ダウンロード配信もやってくれる…あんまり好きじゃねえけどな。あと音楽雑誌とか一般の雑誌で、インタビューとか記事にもしてくれるってよ。広告も他のバンドと一緒だけど載るって。」
「ZOLL以外の雑誌、まず載らなかったからなあ。いいかもなあ。」
ショージがグラグラし始めた。
実は、条件はもうひとつ出ていた。
「アルバムのジャケットを、アイヴィーがメインの写真に差し替えたい」というのがそれだった。
が、ゴンちゃんとアイヴィーは猛反発した。
松下のおばちゃんが撮ってくれた大事な一枚、ライヴバンドとしてのアイデンティティーだ。絶対に譲るわけにはいかない。
まあ、とりあえずその案は向こうが引っ込めた。いまこの話をしても、リズム隊の2人が余計にエキサイトするだけだ。
「深夜枠だけど地上波の音楽番組にも出られるし、小さいステージだけど夏フェスにも出られるって言ってた。まあ、本当かどうか知らないけどな。」
「夏フェス」という言葉に、今度はジャッキーがグラッと来た。
「…夏フェス、出たい…。」
「今からの時期じゃ、夏フェスっていうか秋フェスかもしれないけどな。」
「それでもいい。野外やりたい。」
「あと、来月の渋谷クワルトの『エクストリーム・ナイト』にも出演できるってよ。正規の枠は決まってるからオープニング・アクトだけどな。」
「渋谷クワルト…大バコ(収容人数が大きいライヴハウス)だよな。前にラ・ロッカが自腹切って出たろ。あの時いくら金かかったって言ってた?」
ジャッキーとショージは完全に宙に浮いてしまった。何が良くて何が悪いのか、判断がつかない状態だ。
「アイヴィー。」
ゴンちゃんが言った。アイヴィーは、うつむき加減で前を見ていた。
「お前はどうしたいんだよ。バンマスは俺だけど、うちのバンドの顔はお前だ。バラードを歌うのもお前だ。お前の考えは、とても大事だ。」
その言葉に、リズム隊の二人も口を閉ざした。
「4人の意志じゃなきゃ、ダメだろ。アイヴィー、お前の意見を聞かせてくれ。」
アイヴィーは顔を上げた。
口を開く前に、店員が皿を片付けにテーブルまでやってきた。
「しーちゃん、聞いてた?」
「うん、ごめん。聞こえちゃった。」
「しーちゃん、どう思う?」
しーちゃんは、ちょっと考え込むような顔になった。
「しー、よく分かんないけどさ。『ズギューン!』は闘ってる方が、らしいと思うよ。」
その言葉に、アイヴィーの顔がほころんだ。しーちゃんはアイヴィーの肩をポンポンと叩いて立ち去った。
「だよね。」
今や、全員が笑顔だった。
「アタシ、別にバラード歌いたくないなんて思ってないよ。『パンクらしい』とか何とか、関係ないじゃん。『ズギューン!らしい』かどうかじゃん。」
「そうだよな。関係ないよな。」
ショージが残っていたカレーを一気にかき込んだ。ゴンちゃんは、アイヴィーを見守っている。
「アタシら、挑戦されたんだよ。舐められてたまるかって。バラード、シングル、上等だよ。夏フェス、大バコ、上等だよ。アイツらが思ってるようなバラードなんか作らないよ。『ズギューン!』が叩き出す、最強のパンク・バラードで勝負してやろうじゃん。クソくらえだよ、やつらの度肝を抜いてやろうよ。」
「そうだ、そうだ!」
「やろうぜ、アイヴィー。」
「これで決まりだな。」
「よしっ!すいませーん、生ビール4つ!」
ジョッキがぶつかり合う音が、店の中に響いた。
「おい、聞いたか?『ズギューン!』、エクストリームと契約だってな。」
「おお、聞いた聞いた。すげえな。」
「凄いか?あんなクソレーベル…。」
「松下のおばちゃんの写真つながりで、スカウト来たらしいよ。」
「仲いいもんな、おばちゃんと『ズギューン!』。」
「ギヤとかでやってたのがいきなり先週、渋谷クワルトだってよ。動員が一ケタ違うぜ。」
「いいねえ後ろ盾ができて。何がパンクか知らんけど。」
「俺クワルト行ったよ。何かバラードみたいな曲やってたよ。『ズギューン!』にバラード?って思ったけど良かったよ。」
「その曲、シングルで出すらしいな。雑誌にも載ってた。」
「レーベルに言われりゃ、一般受けする曲もホイホイ作るわけね。」
「まさにメジャー行きの切符だな。」
「まあ、アイヴィーは実力あるからな。ただのパンクならアレだけど…アイツなら可能性あるよな。」
「いい女だしな。お偉いさんに色気ふりまいて芸能界入りでもすりゃいいんじゃねえの?」
「お前、シンに殺されるぞ。」
「まあ、とにかく『ズギューン!』すげえよ。面白いことになってきたな。」
ZOLL MAGAZINEの山口はもの静かに黙ってこっちの話を聞き、上手に言葉を引き出してくれる人だった。
日本新聞の渋谷記者は「僕もむかし、バンドやってたんですよ」と笑う、気さくなお兄ちゃんだった。
今日インタビューと称して松下のおばちゃんを呼び出した男は、そのどちらとも違った。
「大手音楽雑誌のライター」と名乗る汗っかきで小太りの男は、早口で唾を飛ばしながら、ことあるごとに自分の音楽知識をひけらかしている。
ある程度の年数を業界で過ごして、ミスの連続を「経験豊富」という言葉に置き換えてきたような男だ。
だいたい、松下のおばちゃんに音楽知識の話を向けたところで通じるわけがない。
「撮影されているバンドは典型的なパンク・ハードコアやラウド系が多いですね。オルタナとかエモはあんまり無いけど、撮影の対象ではないですか?」
「ごめんなさい。言ってること、ひとっつも分かりません。」
二人が落ち着いたのは、高円寺の駅前にある明るくて大きい店構えのケーキ屋だ。クリームチーズが好きな松下のおばちゃんは、レアチーズケーキにコーヒーの取り合わせを楽しんでいた。
「あ、いや、ですから何というか…いかにもパンクというか、派手派手しいバンドの方が好きですか?」
「そうねえ、見た目ガチャガチャしてる方が面白いは面白いわね。普段着で演奏する子、いるじゃない。『道を歩いてきた格好で、お客の前に立つんじゃない』って、言ってやるのよ。お金払って観に来てくれるお客さんに失礼でしょって。」
「派手なバンドが好き、と。」
「気合入っている格好って、その子たちの強い気持ちが出るじゃない。そういうキラキラした部分を写真にしてみたいんですよ。」
「キラキラ…グラム・ロックも好きですか?」
お互いに勝手なことを喋っている。
「いま、いちばん押しているバンドはありますか?」
「みんなアタシの大事な娘や息子だから、一番は決められません。」
「『ズギューン!』は、特に写真を撮る機会が多いみたいですが。」
「きっかけを作ってくれたバンドだし、思い入れは深いわね。あの子たちと関わって、色々なことがあったわよ。」
「彼らも最近エクストリーム・ワークスと契約してステップアップの最中ですが、音楽的な変化などは松下さんの目から見て…。」
「全然分かりません。でも広い舞台でも堂々としてるわね。」
「革新的なバラードが話題になってますね。」
「あの歌でしょう?いいわよねえ。アイヴィーちゃん、歌が上手だから。とっても素敵。」
「音楽性の転換は、従来のファンを置き去りにする可能性もありますが、どう思いますか?」
「あの子たち、何か変わったの?」
松下のおばちゃんはニコニコしている。
「松下さん、バンドの音楽性に興味は無いんですか?」
「ライヴハウスって音が大きいじゃない。アタシ、いつも耳栓してんのよ。」
「…普段、音楽って聴きますか?」
「美空ひばりと、さだまさしはテープ持ってるわよ。」
今日は記事になりそうにもなかった。違う人間を連れてこい。
松下のおばちゃんも、メールが打てないわけではない(LINEは存在すら知らない)。
けど電話の方が好きだった。勿論、電話より会う方が好きだ。生身に勝るものはない。
電話口の向こうでアイヴィーは元気そうだった。
「おばちゃん。昨日は会えなくてごめん。」
「いいのよ、アイヴィーちゃん。」
「せっかく来てくれたのに。渋谷クワルト、どうだった?」
「何だか広くて、落ち着かないわねえ」
エクストリーム・ワークスが主催する「エクストリーム・ナイト」に「ズギューン!」が出演するのは、昨夜で二回目だった。
オープニング・アクトでの出演が好評だったため、今回は真ん中あたりに順番が回ってきた。
松下のおばちゃんもパスを貰い、カメラマンとして参加させて貰った。
「こないだのバンド、撮影した時よりは慣れたけど。」
「そう、『ヘビーレイン』の撮影、したんだもんね。メジャーバンドのライヴは何か違った?」
「なーんか面白くないわねえ。別に悪くはないんだけど、全体にお行儀がいいわね。本人たちは気持ちの良い人たちだったけどねえ。」
松下のおばちゃんも名前が売れてきた影響で、時おり有名バンドやライヴ以外の撮影依頼が舞い込むようになっていた。
有名だから必ずしも満足いく撮影になるわけではなかったが。
「ふふ、相変わらずだね、おばちゃん。インタビューも読んだよ。あれ、大笑いしちゃったよ。」
「だって、あの人なに言ってんだか全然分からないんだもの。」
「あのインタビュアー、アタシたちんとこ取材来ないかな。アイツ面白すぎるよ。」
アイヴィーはケタケタと笑っていた。溜まっているものを吐き出すような笑い方だった。
「アイヴィーちゃんのこと待ってたけど出てこないから。アンタも売れっ子になってきたわねえ。」
「昨日は、本当ならライヴの後に時間取れたんだよ。ただ、カトケンとちょっと喧嘩しちゃって。」
「相変わらずねえ。何があったの?」
「あさって雑誌のインタビューなんだけど、アタシ一人で受けろって言うから。『4人でないと行かない』って言い張って、それで。」
「頑張ってるわね。」
「こないだも同じ話があったから、お互いピリピリしてんだよね。でも負けないよ。4人で『ズギューン!』だからね。」
実際、雑誌のインタビュー記事や広告も、使われる写真のほとんどはアイヴィー単独でのものだった。
音楽については口を出さないレーベルも、メディアの露出に関してはあからさまに主張を押し出してくる。
「シングルも売れたしね。アルバムも売れてる。それは感謝してるよ。アタシたちには出来ないアプローチだったし、大勢の人に聴いて貰えるんだから。でも、認められてるのは『ズギューン!』だからなんだよ。そこは譲れないよ。」
「みんな格好良かったわよ。ギヤのステージでも素敵だったし、今の大きいところでも輝いてるわ。」
「ありがとう。大きいところで演れる以外は、何も変わらないけどね。」
「お給料、出てるの?」
「ちょびっとだよ。バンドやるのに金がかからなくなっただけで、相変わらずのバイト暮らしだし。部屋も相変わらず、あのぼろアパートだし。」
音源の売り上げがエクストリームに搾取されているのかどうかは、アイヴィーには関心がなかった。大勢の前でライヴ出来るようになっただけで今は十分だ。
「ギヤのみんなは元気?」
「相変わらずよ。今週はタダシちゃんの企画があるし、来週にはオーバー・ドライブのレコ発に呼ばれてるの。」
「いいなあ。最初はギヤにも今まで通り出られる予定だったけど…なんか予定が埋まるのが早くて。あーあ、たった二か月前には普通に出ていたのに。」
「エクストリームがライヴの予定を決めるの?」
「ううん。事務所主催のやつ以外は、アイツら何もしない。ある意味今まで通りだよ。一緒になったバンドが誘ってくれて、出たライヴでまた別のバンドに誘われて。出るハコが大きくなっただけ。」
「じゃあ、本当の実力じゃない。すごいわよ。」
つかの間、沈黙が流れた。
「シンちゃん、元気?」
「うん、元気だけど…よく分かんない。全然、話をしないんだよね。」
「そうなの?」
「違うな、何ていうか普通の会話はするんだけど、『ズギューン!』の話は何も。『どうなんだよ』のひと言も無いし、こっちも敢えて言う雰囲気じゃないしさ。」
「シンちゃん戸惑ってるのかしら、ね。」
「分かんない。いつも怒ってるようでもあるし、でも時々すごく陽気になったり、浮き沈みが激しいんだ。」
「あの子は前からそういうところ、あるでしょ。」
「うん。でも最近は特に…お酒の量も増えてるし。昔も凄かったんだけど、アタシと付き合ってからかなり減ったんだよ。ここ半年くらいで、また元通りだもんね。」
「シンちゃんのバンドはどうなってるの?」
「知らないけど、『リハ行ってくる』とか『ライヴ行ってくる』とかは言うから、活動してるはずだよ。ギヤに来てないの?」
「最近ずっとギヤでも他のライヴハウスでも見かけなかったわ。けど今週、久々にギヤで出るみたいよ。」
「へえ。時間あればアタシも観に行こうっと。ついでにタダシに平日ブッキングでもいいからライヴ入れて貰わなきゃ。たまにはお里の空気を吸わないとね。」