夏(その2)
「アイヴィーさん。ちょっと、いいですか。」
後ろから声をかけてきたのは30代くらいの男だった。
特徴のない顔立ちで唇が薄い。中肉中背で黒に銀のスカジャンにブラックジーンズ、青のスニーカーを履き、ハンチングを後ろ向きにかぶっている。やけに大きいキャンバスバッグが妙に目立った。
「あ、この人。さっきアルバムとデモ、全部買ってくれたんだよ。」
ゴンちゃんが言った。
「松下さん、初めまして。僕、赤坂にあるレコード会社の者です。」
男が差し出した名刺には「㈱エクストリーム・ワークス チーフ・マネージャー 加藤 健」とあった。
「1人でカトケンなんですよ。カトケンって呼んでください。」
男はそう言って笑った。
「へえ。マネージャーさんなの。偉いですねえ。」
「エクストリームって…インディーズ・レーベルだよね。」
アイヴィーは名刺を見つめながら、誰にともなくつぶやいた。
「松下さん。例の新聞、拝見させて頂きました。写真、素晴らしかったです。」
そう言って加藤はアイヴィーに向き直った。
「アイヴィーさん。松下さんの写真を観て、どうにも気になってね。音の方はどうなんだろうって思ったら、いても立ってもいられなくて。今日、ライヴにお邪魔させて貰ったんだ。」
「そりゃ、どうも。」
「さっき最後に民謡みたいなの歌ってたでしょ。歌唱力、すごいね。正直びっくりしたよ。」
「そりゃ、どうも。」
「ライヴもパワフルで熱いね。よく動くし表情もいい。ぶっちゃけルックスもいいし、存在感もある。格好良かったよ。」
アイヴィーは黙って聞いていた。周りのメンバーも固唾を飲んで見守っている。
「いま、どこかのレーベルに所属とか契約、してますか?」
「いや。アタシら自主で立ち上げたレーベルはあるけど。」
「そう。良かったら連絡先、教えて貰えないかな?後で連絡させて貰うかもしれません。」
「ゴン、名刺渡して。」
アイヴィーは加藤から目を離さずに言った。加藤は物腰も柔らかで愛想も良かったが、目が笑っていなかった。
「あなたがリーダー?どうもありがとう。あと、アイヴィーさんの電話番号も一応、教えてください。」
アイヴィーは真顔だった。小さな声で自分の携帯の番号を伝えた。加藤はゴンちゃんの名刺の裏に丸っこい筆跡でそれを書き留めた。
「まあ、まだちょっと興味を持っただけなので、上と相談する必要もあるし期待しすぎないでください。今夜はいいライヴ見せて貰いました。じゃあ松下さん、今後の活躍を期待しています。どうも失礼します。」
加藤はそう言い残すと、さっと身をひるがえして足早にギヤの階段を上って行った。
「ちょっと、ちょっとちょっと。何よ、これ。ヤバいんでないの?ヤバいんでないの?」
「…マジかよ。」
ジャッキーとショージは浮き足立っていた。ゴンちゃんはアイヴィーを心配そうに見つめていた。
アイヴィーはずっと黙ったままだ。
松下のおばちゃんはゴンちゃんを隅に引っ張って行った。
「あの人、何が言いたかったの?」
「ああ。『エクストリーム・ワークス』って、大手じゃないけど結構名前の通ったレーベル…レコード会社なんだ。パンクバンドもそれなりに所属してるよ。そこの担当者が俺たちに興味を持ってるってことだな。」
「それって、すごいことなんじゃないの?」
「うん、まあな。興味を持ってるのは『俺たち』じゃないかもしれないけど。」
最後の一言は松下のおばちゃんにも意味深に聞こえた。
「で、アイヴィーちゃんは何であんなに困ってるの?」
「困ってるように見えるか?」
「困ってるというか、悩んでるというか。いつものアイヴィーちゃんじゃないわよ。」
「そうだな。」
遠巻きに一件を見ていた他の出演者たちが話しかけてきた。本当に時たま、仲間内でもいわゆる「出世」をしていくバンドが出てくる。その瞬間に立ち会ったかもしれない。
ショージは勢い込んで今後の展望を色々語っていた。
「でもまあ、俺たちは何者にも染まるつもりはねえよ。」
平手が2~3発、ショージの頭をはたく。
アイヴィーが顔を上げ、大きい声で言った。
「撤収するよ。疲れたからアタシは今夜は打ち上げパス。」
出演者たちは撤収作業のためにステージへ戻った。
「おばちゃん、一緒に帰ろう。待ってて。」
アイヴィーもそう言い残して、物販の片付けに戻った。
ギヤの受付には松下のおばちゃんとタダシだけが残った。
「タダシちゃん、聞いてた?」
「聞いてました。『ズギューン!』すごいですね。」
「これ、良いことなのかしら?」
「道は開けたんじゃないですか。それをどうするかはあいつら次第で。」
「そうね。」
タダシは大きくうなずいた。
「松下さんとアイヴィー。お互いを高め合ってますね。正直、羨ましいです。」
「えっ?」
「だってアイヴィーの成人式の写真を撮らなかったら、松下さんはここに来なかった。アイヴィーのあの写真を撮ったから、松下さんは写真展に入賞できた。そしてあの写真をレーベルの人が見なかったら、こんなスカウトの話は出なかった。」
言われてみればその通りだ。
「タダシちゃん、よく見てるわね。」
「毎日ライヴハウスにいると色々なものを見ます。辞めていくやつもいれば、もっと広い世界に飛び出していくやつもいます。ごくたまにメジャーの世界に行くやつもいます。でも、こんなに縁が繋がっていくのは初めてです。すごく羨ましいです。」
「タダシちゃんもメジャーに行きたい?」
「あんまり興味ありません。誘われてもいないし、俺たちが目指す方向とは違うから。でも松下さんと『ズギューン!』…アイヴィーの縁で色々な可能性が開けるのは素晴らしいと思うし、俺たちもそういう関係を築きたい。」
真摯なタダシの言葉に、松下のおばちゃんは身が引き締まった。
「タダシちゃん。ここにいるバンドのみんな、みんな大事なアタシの息子や娘だから。それが色々な可能性に繋がっていけるよう、アタシはみんなを応援してるわよ。だって、そんなみんなの写真を撮りたいんだもの。」
「松下さん、ありがとうございます。」
松下のおばちゃんは自転車だ。一緒に帰るならアイヴィーは歩かなければならない。
「荷物をかごに入れていいわよ」という松下のおばちゃんの言葉を、アイヴィーはやんわり辞退した。
「ズギューン!」の機材車はジャッキーの車で、楽器や物販を片付けてしまえばアイヴィーの荷物は小さいトートバッグひとつだけだ。
差し入れのタッパーはそのまま置いてきた。後で取りに行けばいい。
環七沿いを二人はぶらぶらと歩いていた。
長い間、どちらも無言だった。
「シンちゃん、今夜、来なかったわね。」
松下のおばちゃんが口を開いた。
肋骨の件があったレコ発の日以来、シンは松下のおばちゃんを避けているようだった。自分のバンドは活動しているが、ギヤには寄りついていない。
時々、街でティッシュ配りをしているシンを見かける。松下のおばちゃんは声をかけようとするのだが、そのたびにシンは忙しそうにしたり、プイとどこかへ移動してしまう。
「おばちゃんに負い目を感じてるんだよ。そんな必要ないのにね。面倒くさいやつ。」
「今夜のこと、話すの?」
「ううん。巡り巡って話は行くだろうけど…アイツは面白くないと思うだろうから。」
「そうかしら?応援してくれるんじゃないの?」
「シンは金の匂いがする話は凄く嫌うの。だいたい、バンドマン以外の人間とバンドの話をするのが凄く嫌いだし。」
汗に濡れたTシャツが肌にへばりついて、初夏とはいえ寒さを感じる。
「あの話は、お金に関わる話なの?」
アイヴィーはトートバッグをグルグルと縦に回していた。
環七をすごい音を立ててダンプが通り過ぎていった。
「アタシもさ、もう東京に出てきてバンドを始めて二年も三年も経って、時々は仲間内でもレコード会社とか契約とかメジャーとか、そういう話は出て来るんだよ。だから噂は色々伝わってくる。」
グルグルと勢いついたバッグが腕をピタッと止めると遠心力で回転し、真上から落っこちて来る。
「『エクストリーム・ワークス』はメジャーでもインディーズでもないよ。メジャーは大手の大会社だし、インディーズっていうのはアタシらと同じ、気持ちのあるやつらが気持ちで運営してる。あそこはその間を取り持って、『売り飛ばし』をやる会社なんだ。」
「売り飛ばし?」
「そう。ちょうどアタシらみたいなライヴハウスの底辺にいて芽が出そうなバンドを探して、モノになるように仕上げて大手メジャーに売り込んで、移籍金って形で金をせしめるの。別に悪党じゃないよ。悪いことじゃない。でも、アタシたちとは違う。」
振り回したトートバッグが勢い余ってアイヴィーの頭にぶつかった。アイヴィーは顔をしかめたが、それでも振り回すのを止めなかった。
「そう、アタシたちとは違うよ。おばちゃんも知ってるでしょ?みんな金は無いけど、貧乏しても好きな音楽を作れたら、それでいいんだ。いいライヴが出来たら、それだけでいいんだ。金なんか関係ないよ。」
「アイヴィーちゃんも、ずっとそうしていきたい?」
アイヴィーは唇を噛んで下を向いていた。
「アタシも、お金は問題じゃない。金が欲しくてやってるわけじゃない。ただ、アタシにはこれしか無いんだ。アタシがやってるこの音楽、これしかない。音楽を取ったら何もない、ホントただの能無し女だよ。だから、このアタシの音楽を、アタシは1人でも多くの人に聴いて貰いたい。」
「その目標はとっても大事よ。その目標にとって、この話が良いか悪いか、よね。」
アイヴィーは黙っていた。
長いこと、黙っていた。
やがて小刻みに肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。
松下のおばちゃんは自転車を押す手を止めた。
「それが分からないから、困ってるのね。」
アイヴィーはしゃくり上げながら頷いて、松下のおばちゃんにすがりついた。松下のおばちゃんは優しくアイヴィーの肩を抱いた。
「自転車、倒れちゃう。そこに公園があるから、ベンチで話しましょう。」
夜中の小さな公園には誰もいなかった。
松下のおばちゃんは自動販売機でお茶とコーヒーを買ってきた。
「はい、飲みなさい。」
「ありがとう。」
アイヴィーは古ぼけたベンチに腰掛けていた。まだ時々しゃくり上げているが、少しは落ち着いたようだ。
「ハンカチ、使って。」
「ありがとう。アタシ、ハンカチなんか何年も持ったことないや。ああやだやだ、化粧がグチャグチャなんだろうな。」
松下のおばちゃんは白いレースのついたハンカチを渡した。
「あげるわよ。」
「ありがとう。でもレースのハンカチ持ってたら、ショージに何を言われるか分かんない。洗って返すね。」
そう言ってアイヴィーはほほ笑んだ。目はまだ濡れていた。
正直、松下のおばちゃんは少し戸惑っていた。
アイヴィーの気持ちは伝わったが、いきなり感情が振り切れたこと、そしてその理由が完全には分かりかねたからだ。
「おばちゃん、ごめんね。遅くなっちゃうね。」
「なに言ってるのよ。ライヴハウスから帰って来て、もうこんな時間で遅いもへったくれもないじゃない。近所では不良婆さんで通ってるんだから。」
松下のおばちゃんはアイヴィーの隣に腰を下ろした。
お茶が冷たい。常温が良かったな。
「メジャーとかインディーズとか、お金とか売り飛ばしとか、本当はそういうの、どうでもいいんだ。」
アイヴィーは切り出した。
「ただ、アタシは今よりもっともっと大勢の人に、アタシたちの歌を聴いて貰いたい。それは心からの思いだよ。さっきの話が、そのチャンスだってことは間違いないよ。」
「そうね。」
「でもさ。向こうは『金になる』と思ったからアタシたちに目を付けたんだ。その考えにアタシたちが流されないで、自分たちのやりたいことをやって、そのまま広い世界に出ることができるか。正直、闘い切れるか…自信ない。」
「アイヴィーちゃん。」
「広い世界で自分をしっかり保てるなら、悪い話じゃないと思うよ。でも同じ境遇で自分たちを保てずに潰れていった話、嫌というほど聞いてる。アタシにはバンドしかなくて、そのバンドで攻めていきたいのに、攻めのチャンスが来たら今度は守らなきゃならない。はあ…強くなりたいよ。」
松下のおばちゃんには段々とアイヴィーの葛藤が分かってきた気がした。
無理に元気づける必要は無い。ただ素直な言葉を返してあげたかった。
「あなたがアタシも含めてこれだけたくさんの人を引きつけたのは、あなた自身の力よ。あなたには強さがある。どこへ行っても大丈夫。だってアタシの娘だもの。」
最後のひと言は余計だったかな、と思ったが、アイヴィーはにっこりとした。
「アタシ、実はお母さんいないんだ。」
「そうなの。」
「うん。小さい頃、出て行っちゃったみたい。家は地元じゃ有名な家柄でさ。お金もたくさんあったし、お父さんは一人で頑張って育ててくれたけど…忙しくてあんまり家にいないし。妹のほうが成績も良くて要領が良くて、アタシは何やってもダメで。」
「家に居づらかったのね。」
「なんか一人だけ違う国の人みたいで。ゴンちゃんは親と喧嘩して出てきたけど、アタシは最後までいい顔して、ある日逃げるように出てきたんだ。まだ高校も卒業してなかった。」
環七を通る車の音だけが、ひっきりなしに響いていた。
「高円寺だけなんだ、素のアタシを受け入れてくれたの。バンドもそう、シンもそう。」
「シンちゃんに出会えて、良かったわね。」
「うん。シンとは東京に出てきて、すぐに知り合ったんだ。勿論ギヤでね。みんなシンのこと恐がってたけど、アタシにはシンの弱さと寂しさと、優しさがすぐ理解できた。」
「自然に引き合うようになってるのね。」
「うん。あの振り袖だって、シンが頑張ってバイトして、レンタルしてくれたんだ。成人式だって帰るつもりなんかサラサラ無かったけど、『着物くらいは着ろ』って。『買ってやれねえけど、ごめんな』って。アイツ、みんな狂犬みたいに扱ってるけど、ホント優しいんだよ。」
「知ってるわよ。シンちゃん、アタシのことも本気で心配してくれたもの。」
「松下のおばちゃんだって、そうだよ。初めておばちゃんの家に行った時、自分の家みたいな感じがしたもん。実家だってそんな風に感じたこと、なかったのに。」
「娘だもの、当たり前じゃない。オジサンだってそう思ってるわよ。自慢の娘だって。」
「おばちゃん、ありがとう。」
アイヴィーに笑顔が戻ってきた。
「アタシさ、本当の名前『佑』ってんだ。」
「ゆう、ちゃん?」
「うん。おばちゃんも『ゆうこ』、でしょう?それ、すごく嬉しいんだよ。ひとつでも、おばちゃんと繋がっている気がしたんだ。」
松下のおばちゃんは、そんなアイヴィーを愛おしげに見つめていた。娘がいたらこんな感じなのだろうか。
「おばちゃん、ひとつお願いがあるんだ。」
「なあに?」
「いつになるか分からないけど、アタシの晴れ舞台はやっぱり音楽しかないんだ。今回の件がどう転ぶか分かんないけど、いつかアタシは大勢の人の前で、堂々とアタシの音楽をやるよ。だからその時は、何があってもおばちゃんが写真を撮ってね。約束だからね。」
松下のおばちゃんは優しく頷いた。言葉はいらなかった。
「アタシの音楽…じゃないな。アタシたちの、だ。そう、それも迷ってた理由なんだ。」
アイヴィーの口調がこわばった。
「あの加藤ってやつ、『ズギューン!』のことは何も話さなかった。ずっとアタシのことしか言ってなかった。やつらが本当に欲しいのは、4人組のパンクバンドじゃないんだ。」
松下のおばちゃんは思い出した。ゴンちゃんも言ってたんだ、「興味を持ってるのは『俺たち』じゃないかも」と。
「アタシも馬鹿じゃない。正直、自分の能力に自信は持ってるよ。バンドよりもピンで歌えるロックな女のヴォーカルの方が、世の中に受けやすいのも分かる。でもね、アタシは『ズギューン!』で勝負したいんだ。」
アイヴィーは決意のように続けた。
「ゴンちゃんとアタシがメロディを作って、詞を書いて、みんなで頭ひねりながらアレンジして、ライヴで磨いて磨いて、それがアタシらの音楽なんだ。」
アイヴィーが語りかけているのは自分自身に、だった。
「小汚いライヴハウスで煙草とお酒と汗にまみれて、耳から血が噴き出すようなアドレナリンでさ。飯も食えなくて、ひもじくてひざ抱えてさ。そんな思いをしながらここまで来たんだ。」
アイヴィーの言葉は止まらない。思いのすべてを吐き出すように喋り続けた。
「スタイリストが選んだロックな格好して、誰かに作ってもらった曲で『これがロックだ、パンクだ』って、アタシはそんなのご免だよ。アタシたちが積み上げてきた『ズギューン!』でやるんだ。4人でやるんだ。」
アイヴィーは自分のために泣いていたのでは、無いのだ。
切り捨てられそうになった仲間を思っての、怒りの涙。
松下のおばちゃんは胸の底が熱くなった。
「このまんまのアタシたち、『ズギューン!』で、広い世界を見たいんだよ。このまんまでね。」
松下のおばちゃんは、ひと言だけ言った。
「右を向いても左を向いても、アイヴィーちゃんが見ているまっすぐが、まっすぐよ。」
アイヴィーはちょっと真意を測りかねる顔をした。
ややあって、彼女の顔が引き締まった。
闘う準備が出来たようだ。