春(その5)
実際にはその一枚で終わったわけでもなく、怪我をする前よりは枚数はかなり少ないものの、最後の曲が終わるまでシャッターを切り続けた。
アンコールは続き、松下のおばちゃんはいい加減気を失いそうになった。
胸の痛みは最初よりもどんどん強くなってきている。
三度目のアンコールが終わって、やっと客電がついた。
松下のおばちゃんは、シンとミッチに両脇を抱えられるようにしてギヤの出口へと向かった。
周りのみんなが一様に驚いていた。すぐ噂になるに違いない。
「どうする?タロウに車、出してもらうか?」
「そんな時間ねえ。タクシーで行こう。」
いつもの慣れた階段を上るのも、今の松下のおばちゃんにはひと苦労だった。
土曜の夜だ。救急外来に行くしかない。タクシーの運転手に任せるつもりだった。雨はかなり激しくなっている。
「アタシんとこのオジサン、この辺で流してたら驚くわね。」
「おばちゃんの旦那さん、タクシー運転手だもんな。」
「けっこう余裕あるじゃねえか、おばちゃん。」
しかし、松下のおばちゃんの顔は真っ青だった。
雨がばらつく中を大通りまで出てきた。タクシーはすぐ捕まるはずだ。
「じゃ、ミッチ、後は頼むわ。」
シンが向こうを見ながら言った。
「はあ?お前、何言ってんだ。」
「話、つけなきゃいけねえ奴らがいてよ。」
いま通ってきた道から、先ほどの二人組がこっちへ向かってきた。
「おばちゃん、あとミッチに任せるから。」
ちょうど止まったタクシーに、シンはやや乱暴に松下のおばちゃんを押し込んだ。
松下のおばちゃんは何か言おうとしたが、痛みが勝ってシートにうずくまった。
ミッチも無言で後に続いた。最後にちらりとシンを見ると、タクシーは滑るように走り出した。
シンはもう、ずぶ濡れになっていた。
週末で酔っ払いや急患が多い中、割とすんなり順番が回ってきた。
救急外来の担当医はあいにく整形外科ではなく外科医のようだが、手際は良い。
「ああ、折れてるね。」
目の下にクマのある小太りの外科医は、レントゲン写真を見ながらこともなげに言った。
「骨折、ですか?」
「そう、だけどヒビだけだし、じっとしていれば治るよ。胸のコルセットと痛み止め出しますから、三週間して治らなかったら近所の整形外科に行って下さい。」
外科医は明らかに別の病室に残してきた急患の方が気になるようだった。
「おばちゃん良かったな、大したことなくて。」
付き添ったミッチもホッとしているようだ。
「息子さん?ずいぶん派手だね。」
「あ、いや、違います。」
外科医はミッチのスパイクヘアと革ジャンをジロジロ眺めまわした。
「ずいぶん酒臭いし、何かトラブルですか?一応、原因をカルテに書いて、何かあれば警察にも連絡しなきゃならないので。」
「いや、そうじゃないんですよ。ちょっと複雑な話なんですけど。」
ミッチは言いにくそうだった。気まずい沈黙が流れた。
「アタシがライヴハウスで写真を撮ってて、鉄の柵にぶつかったのよ。単なる事故です。」
松下のおばちゃんが、こともなげに言った。
「いやいや奥さん、冗談でしょ。事情があるのかもしれないけど、嘘はダメですよ。一応、救急外来ですから。」
外科医は不安そうな顔をしていた。トラブルはゴメンということか。
「嘘じゃないわよ、ほら見て下さい。これ、アタシが撮ったのよ。」
そう言って松下のおばちゃんはカメラを取り出した。モニターに映る写真を解説しながら外科医に見せている。
外科医はタジタジだった。あの調子ならもう大丈夫だろう。ミッチはふっと息をついた。
「そのまま家まで送る」というミッチの反対を押し切って、タクシーでギヤに戻ってきた頃には日付が変わっていた。
ギヤの雑居ビルの前で、ゴンちゃんとアイヴィーが待っていた。
「おばちゃん!」
少し前かがみながらしっかりした足取りで歩いてくる松下のおばちゃんを見て、アイヴィーはライヴでも出さないような大声を上げた。
駆け寄って抱きつこうとしたが、思い直してそっと手を取る。
「大丈夫?怪我、したって聞いたけど。」
「鉄柵に押されて肋骨にヒビが入ったんだ。医者は大丈夫だって。」
ミッチが説明する。
「大丈夫?痛む?」
「ちょっとだけね。笑ったり咳をすると痛むのよ。じっとしてれば大丈夫。」
アイヴィーはホッとしたらしく、べそをかいたような顔ではにかんだ。
「シンのばか!アイツが原因だって聞いたけど?」
「シンちゃん、どこにいるの?」
「そこ。何にも喋らねえんだ。」
ゴンちゃんが顎をしゃくった先には、電柱に寄りかかったシンがいた。顔がずいぶん腫れている。しこたま殴られたようだ。
「シンちゃん、ひどい顔。」
松下のおばちゃんはシンに近づいた。シンは横を向いたままだ。
向こうでは、ミッチがアイヴィーとゴンちゃんに事情を説明している。
「守ってくれてありがとうね、シンちゃん。」
「ああ。」
「痛むでしょ?」
「ああ。」
シンは冷静さを取り戻しているが、ふてくされているようでもあった。
「シン!」
アイヴィーが近づいてきた。髪の色が怒気を含んでさらに赤く見える。
「今度はおばちゃん巻き込んで!もう、いい加減にしなよ!何なんだよ!」
「アイヴィーちゃん、いいのよ。」
松下のおばちゃんがなだめにかかるが、アイヴィーは引かなかった。喋るたびに語尾がかすれて涙がにじんだ。
「松下のおばちゃん、大怪我だったらどうするつもりだったのよ!おまけに、おばちゃん病院に連れて行かずにまた喧嘩して!ふざけんじゃないよ!」
「アイヴィー、そりゃ違うぜ。」
黙っていたミッチが口を挟んだ。
「シンは喧嘩しに行ったんじゃねえよ。コイツ、殴られただけだ。」
「えっ?」
「拳、腫れてもいねえし、擦り剥けてもいねえし。だいたい、シンがこんなボコボコに殴られるわけがねえ。」
確かに喧嘩をしたにしてはシンの拳はきれいだった。
「コイツ、バカだから他にどうしていいか分かんなくて、殴られてみそぎするつもりだったんだよ。」
「アイヴィー、もういいじゃんよ。おばちゃんも軽傷だったし。もう止めようぜ。」
ゴンちゃんもシンの肩を持った。松下のおばちゃんは黙っている。
「分かった。シン!おばちゃんに謝りなさいよ。そうしたら手打ちで納得する。」
今はアイヴィーも母を取り合ってだだをこねる子供みたいだ。感情が押さえきれない。
「うるせえな。」
「シン!」
カッとなるアイヴィーに、松下のおばちゃんが手をかけた。
「アイヴィーちゃん。」
2人がまた見つめ合った。今夜、何度目だろうか。
ひと呼吸おいて、松下のおばちゃんが言った。
「カレー、食べない?」
その場にいた全員が、きょとんとして一瞬ののち、大笑いになった。シンも苦笑いを隠せない。
松下のおばちゃんだけが、笑顔からすぐに顔をしかめてわき腹を押さえた。
「ああもう、イヤになっちゃった。お腹、空いたよ。」
目の端から涙をぬぐいながら、アイヴィーがつぶやいた。
「そうだそうだ、カレー食って落ち着こうぜ。」
「さすがおばちゃん、解決法が斬新だわ。」
「行こうぜ、みんな心配してるよ。ほとんどギヤに残ってるから。」
「そうなの?カレー、足りるかしらねえ。」
柔らかな笑いを残しながら、みんなはギヤのある雑居ビルに向かいだした。
松下のおばちゃんには、アイヴィーが手を貸す。
やや遅れて、シンがよろよろ追いかけてきた。ゴンちゃんは手を差し伸べようとしたが、思い直して肩をすくめ、先に歩きだした。
いつの間にか雨は上がっていた。
「アイヴィーちゃん。」
「何、おばちゃん?」
さっきより階段の下りは辛くなかった。痛み止めが効いたのかしら。
「いい写真、撮れたと思うよ。」