春(その4)
フロアの照明が、落ちた。
アイヴィーが大好きな映画のサントラが流れてくる。S.E(ライヴの始まりの曲)だ。
無数の拳がフロアから突き上がる。
ゴンちゃん、ジャッキー、ショージが登場し、それぞれ楽器を構える。
みんな、いい顔をしている。
いつものように飛び出してくるのではなく、ゆっくりとステージにアイヴィーが現れた。
革ジャンは見慣れた赤ではなく、まっさらな白だ。
そして、赤い髪は、今夜は立っていなかった。そういえば、さっきアイヴィーはベレー帽だったっけ。
いつもなら半分はバキバキに固めてあるのが、軽いウェーブのかかった長い髪が、歩くたびにふわふわと揺れる。
唇を噛みしめて、少し怒っているようにも見えた。
ギュウギュウ詰めになったフロアを見渡す。
最前列でカメラを構える、松下のおばちゃんと目が合った。
ずいぶん長い間、二人は見つめ合っていた。
“ゼンブ、ハキダセ!”
アイヴィーの感情が、声となって発射された。
ライヴは壮絶を極めた。
のっけからダイブの嵐で頭の上を人が行き交う。
最前列にしがみついていれば意外と被害を受けないものなのだが、今夜は何度、宙を舞うブーツが髪の毛をかすめたか知れなかった。
少し気を抜くと鉄柵から弾き飛ばされそうになる。
それでも右へ左へポジションを移しつつ、最前列をキープして松下のおばちゃんは写真を撮り続けた。
アイヴィーは歌い始めてからは周りが目に入らないようだった。
いつものようにステージを縦横無尽に動き回り、叫び吠える。しかし、目は真っすぐを向いている。
動くたびに踊りつづける赤い髪の毛がとてもきれいで、松下のおばちゃんはそれを一生懸命に追った。
アイヴィーに引っ張られるように、他の三人も頭から汗をしたたらせながら暴れまくる。
MCをまったく挟まず、矢つぎばやにステージが進んでいった。
最初に気づいたのは松下のおばちゃんだった。
すぐ後ろでシンが誰かと喋っている。
よく聞こえないが、シンが威嚇するときの音が聞こえた。
アイヴィーや「ズギューン!」のメンバー、周りの客は全く気付いていないようだ。
松下のおばちゃんは、つかの間カメラを下ろしてシンの方を向いた。
シンが顔を近づけて睨み合っているのは見慣れない男だった。
金髪の坊主、大柄で目つきが悪く、現場帰りらしい作業着を着ている。仕事上がりに寄ったのだろうか。
そばにもう一人、仲間らしい痩せた男がついている。
“止めないと、せっかくのライヴがダメになっちゃう”
松下のおばちゃんはシンの肩に手をかけようとした。
と、突然シンが大柄な男を両手で突き飛ばした。
松下のおばちゃんの手が空振りし、勢い余って前につんのめる。
大柄な男がシンの胸板を殴りつけた。
シンが後ろに吹っ飛び、松下のおばちゃんを巻き込んで鉄柵に激突する。
瞬間、松下のおばちゃんに「メリッ」とか「ミシッ」という感触とともに、刺すような痛みが右のわき腹辺りに走った。
息が詰まって動けない。
松下のおばちゃんは、わき腹を押さえてうずくまった。
シンが転んだまま、こっちを向いた。
誰にぶつかったのか分かったようだ。
「ああ、おばちゃん、悪い。」
目が合った瞬間、シンの表情が変わった。
これは、ただごとではない。
「おばちゃん、怪我した?」
殴ってきた男も何かが起きたと分かったのか、すぐには手出しをしてこない。
「ううん、大丈夫。」
起きようとして力を入れると、わき腹に激痛が走る。
またもへたりこんでしまった。
「おばちゃん、やべえって。病院行こう。」
シンが泣きそうな顔になっている。
誰かの手が伸びてきて助け起こされる形になった。みたび痛みが襲う。
「あたたたた、ちょっと待って、ちょっと。」
片方の手を弱々しく振りながら、松下のおばちゃんは誰かの手にそっと掴まって、力が入らないようにゆっくり起き上った。
何とか起きることができたようだ。
「おばちゃん、大丈夫?」
起こしてくれたのはミッチだった。
「少し痛いけど、大丈夫。」
痛みは今やズキンズキンとわき腹で脈打っている。ただの打ち身ではないことは明らかだ。
ステージ上はものすごい勢いで動いている。
今の一件は、ごく一部の客以外には気づかれていないようだ。
「なあ、病院行こうぜ。絶対折れたって、あばら。」
再びシンが言った。酔いは醒めているようだ。
「おばちゃん、そうだよ病院行こう。」
ミッチも促す。
松下のおばちゃんはカメラを持ちあげた。痛みに耐えかねて腰が落ちるが、フーッと息を吐いてゆっくり構え直す。
「もうちょっと写真を撮りたいのよ。」
「おばちゃん!」
シンは松下のおばちゃんに触っていいのかどうかも分からず、うろたえていた。
「もうちょっとで撮れそうなのよ。アイヴィーちゃんの最高の一枚。」
ステージ上のアイヴィーが、まぶしく輝いている。どうしてもそちらに目が行ってしまう。
小さな声でないと息を吸うたびに痛みが走る。
「痛めちゃったのは間違いないから、ぶつかられると多分無理だわ。だからシンちゃんお願い、守ってくれる?」
松下のおばちゃんに見つめられたシンは、その視線に耐えきれないように目をそらした。
そして何秒か後に、目を合わさないまま言った。
「分かったよ。」
「シン!おばちゃん!無理だって!」
ミッチが詰め寄る。
「ああ。だけど、俺のせいでおばちゃん怪我したんだから、おばちゃんが写真撮りたいなら、俺がガードするよ。他に、どうしていいか分かんねえ。」
そういって、シンは松下のおばちゃんを最前列の鉄柵に再び導いた。さっき怪我をさせた鉄柵の前に。
ミッチももう何も言わなかった。
二人は誰も松下のおばちゃんにぶつかってこないよう両脇を固めた。
既にライヴは最高潮で、フロアでは客がゴムボールのようにぶつかり合い、雪崩のようにあっちへ寄れたりこっちへ押したりしている。
直接ぶつかることはないものの、シンやミッチを通しての振動がくるたび、鋭い痛みは襲ってくる。気が抜けない。
上から降ってくるダイバーの数も、さっきよりずっと多い。
シンの前に、さっきの殴ってきた男たちが再びやってきたようだった。
「後で相手してやる」というような言葉をシンが吐き出すのが聞こえた。
アイヴィーはステージの中央で、マイクスタンドを構えながら目を閉じて歌っていた。
もう彼女の周りには何も存在しない。
歌だけが彼女を包み込んでいる。
松下のおばちゃんは、痛みもあってシャッターを切らずにファインダー越しにアイヴィーを見つめていた。
いつまでもいつまでも、ファインダーの中にアイヴィーが写っていた。
と、アイヴィーがきっと目を開け、頭を大きく後ろに振った。
太陽みたいに赤い髪が、太陽のように一面に大きく広がる。
その瞬間を、松下のおばちゃんのフラッシュが切り取った。
永遠に感じる一秒を、切り取った。