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春(その3)

ライヴハウスが地下にあるとはいっても、そりゃイヴェントがある日は晴れた方が良いに決まっている。

「ズギューン!」レコ発の日はあいにくの曇り空だった。夕方からひと雨来るらしい。

「お客さん、沢山入るといいけどねえ。」

松下のおばちゃんはせっせと漬け物を切りながら誰にともなくつぶやいた。

寸胴なべの中には昨日から仕込んであった大量のカレー。

アイヴィーのリクエストで、今夜はカレーを差し入れることにした。

「お前、そんな大鍋でいったいどうやって持っていくつもりだよ。」

源造のぼやきも松下のおばちゃんは意に介さない。

「バグ・ウォールのタロウちゃんとユカリちゃんが機材車を出してくれるのよ。楽器やアンプがいっぱい入るから、寸胴鍋ひとつくらい全然大丈夫だって。」

「しかしなあ、ライヴハウスにカレーってお前…。」

「アンタの分はそっちの小鍋に入ってますからね。帰りは遅いですから、勝手にやって下さい。」

もはや何を言っても無駄だ。源造はかぶりを振った。


雨さえ降らなきゃ何だっていいんだが。

アイヴィーは鏡に向かってドライヤーで髪を乾かしながら、ちらりと窓の外を見た。化粧はすでにバッチリ済んでいる。

ねっとりとした厚い雲は、こっちをあざ笑うかのようにどこまでも黒く重い。

二人で住むにはまったく窮屈すぎる8畳のワンルームには、ベッドがひとつ。

アイヴィーが「これだけは」と譲らなかった鏡台がひとつ。

あとは衣装とギターと、CDやレコードでいっぱい。

それでも「足の踏み場もない」という状態にしないのは、ショップ店員(雑貨屋だが)のアイヴィーの意地だ。

安物のコンポから、完成したばかりの「ズギューン!」のアルバムがエンドレスで流れている。

シンはベッドでゴロゴロしながら携帯をいじっていた。

「仕事、休み?」

何気なく聞いたつもりだった。レコ発の日は休みにしてくれているはずだ。

「あ~…休み…っていうか辞めた。」

ドライヤーを握っていた手が思わず止まった。

「はぁ?」

「辞めたっていうか、クビっていうか。」

「なによ、それ。」

よりによってこんな日に、よりによってこんな気分にさせないでくれ。

「突っかけてきたのは向こうだからな。ノルマがどうだとか配るときの態度が悪いだとか、うるせえことガタガタ言い始めたから、ちょっと胸ぐら掴んだら『警察呼ばれたくなきゃ出て行け』だってよ。」

上から注意されたきっかけは、“今日はレコ発だから休ませろ”だったが、そんなことは何だかアイヴィーには言いたくない。

「アンタさあ、そうやって辞めるの、何度目よ?生活費、どうすんのよ?」

「あ~あ~分かった分かった、その話は後でいいだろ。レコ発なんだからよ。辞めたおかげで今夜は俺も行けるし。週明けには仕事探すからよ。怒るならライヴの後にしろよ。」

シンは再び携帯いじりに意識を戻した。

アイヴィーは深呼吸をひとつして、鏡台に向かいなおした。

でも、もうどうやってもヘアメイクは上手くいきそうになかった。

“どうして、シンはこういう生き方しかできないの?”


PAL商店街には屋根があるので、駅から一分くらい歩けば傘をささずに済む。自転車だとずぶ濡れだ。

ポツポツだった雨は、松下のおばちゃんが到着する頃にはまとまった降りになっていた。

「今日は車で助かったわ。」

バグ・ウォールの二人は駐車場に機材車を停めに行った。

ドラマや漫画でライヴハウスに行列ができるようなシーンがあるが、よっぽど大きな会場でもない限りそんなことは滅多にない。

それでも雨にも負けず、今夜のギヤは最初から客がよく入っていた。中の空気が少し薄い。

「おばちゃん。」

アイヴィーが目ざとく近づいてきた。

「アイヴィーちゃん。凄いわね、いっぱいじゃない。」

いつもよりもごった返すギヤのバー・スペースを見渡して、松下のおばちゃんは賛辞を送った。

「あ~、まあ、ね。」

ライヴ前だというのに、アイヴィーは浮かない顔だ。

「アイヴィーちゃん、どうしたの?」

「ちょっと、またシンと喧嘩しちゃって。っていうかアタシが一方的に怒ってるだけなんだけど…。」

アイヴィーは、しかめっ面で顔をかいた。

「でもさ、それは抜きにしてもね。『いっぱいだ』って言っても、所詮100人来れば超満員なハコだからね。いま商店街を歩いてる人より少ないくらいのもんだし。」

「まあ、それはそうだけど。」

「アルバムだってそうだよ。今回も1000枚刷ったけど、仲間うちと関係者に渡して、いつもの連中が買ってくれて、ツアーでちょこちょこ売れて、後はもう在庫だもん、在庫。部屋が狭くなってしょうがないよ。」

そう言ってアイヴィーは鼻で笑った。

「アタシは音楽とか分からないけど、アイヴィーちゃんは歌も上手いし存在感もあるから売れると思うわよ。」

「知名度がなさ過ぎるもん。ライヴハウスやロック雑誌に少し顔が出たって、世間に届くわけじゃないもんね。アタシが有名なのは、この場所でだけの話だよ。」

「じゃあ、もっと大きいところでライヴして、もっとたくさんアルバムが売れたらいいのかしらね。」

「う~ん。分かんない。」

純粋な松下のおばちゃんの問いに、アイヴィーは答えようがなかった。

「別にメジャー(メジャー・デビュー=この場合は大手レコード会社と契約して、プロとして活動することを指す)になりたいとか売れたいとか思ってないし。でも、このままで良いのかも分からないし。分からないから、答えを探すために演り続けてるのかな。」

考え込むアイヴィーに、松下のおばちゃんは笑いかけた。

「とにかく、今日は『ズギューン!』の最高の写真撮るからね。」

アイヴィーも笑顔になった。

「うん、そうだね。おばちゃんの納得を引き出せるように頑張るわ。」

お喋りをしながら二人はフロアの物販ブースまで来た。ゴンちゃんがブースの番をしている。

フロアの奥ではシンがウロウロしていた。

まだ開演前だというのに既にそうとう飲んでいるらしく、目が据わっている。

シンの方を見ないようにしながら、アイヴィーは物販ブースに平積みされた出来立てのアルバムを一枚、松下のおばちゃんに渡した。

「はい、これ。」

ジャケットには、あの初めて撮影をした写真が輝いている。

「お金、払うわよ。」

「いらないよ。ギャラだよ、撮影のギャラ。ゴン、アタシ電話してくるから。」

そう言ってアイヴィーは外へ出て行った。シンのことは一瞥もしなかった。

「嬉しいわあ。こうやって形になると、格別ねえ。」

「ちゃんと中に、『撮影:松下侑子』って書いてあるぜ。サンクスリスト(協力者の名前を載せる欄)にも載せてあるからよ。」

「本当に?後で見てみるわ。」

松下のおばちゃんは、大切そうにアルバムをカメラバッグにしまった。

「俺、次の連休に実家に帰ることにした。」

唐突なゴンちゃんの物言いに、松下のおばちゃんはきょとんとした。

「え…ああ、帰省するってこと?」

「うん。ちょうどレコ発ツアーも終わるころだからさ。骨休めにいいかなって。」

「親御さんに電話したの?」

「ああ、ライヴよりビビったぜ。お袋も驚いてたけど、とにかく早く帰って来いって。親父とはまだ話してないけど。」

「良かったわねえ。」

「いいかどうか分かんないけどな。でも、おばちゃんに言われたとおりアルバムと写真を持っていくよ。土産になるもの、それしかないし。」

ゴンちゃんの目は、いつも以上に優しかった。

「じゃあアンタのとびきりの写真、おばちゃんがパネルにしてあげるわよ。」

「そんなこと出来んのかよ?」

「任せなさいよ。電車で持って行けるくらいの大きさだけどね。ご両親にアタシがプレゼントするわ。」

「おばちゃん、ありがとうな。何か、色々…。」

ゴンちゃんの目がウルウルし始めた。危ない危ない。

「ほらほら、アンタこれからレコ発でしょう?いい男が台無しだから、顔を洗ってらっしゃい。」

「そうだな、よし今夜は気合い入れていく!おばちゃんのおかげで、バッチリ気合い入ったよ。」

いい夜になりそうだった。


今夜の出演バンドの気迫も凄いものだった。

メインの「ズギューン!」の出番を盛り上げたい、という気持ちがヒシヒシと伝わった。

レコ発が進むにつれステージとフロアの熱気は相乗効果に増し続け、客もどんどん増えて行った。

明らかに松下のおばちゃんがギヤに来てから一番の入りだ。

ただその分、顔見知り以外の客も多く、雰囲気が悪かったり、荒っぽい感じのパンクスもちらほら見受けられた。

今のところ揉めごとは起きていなかったが、何かの拍子に簡単に着火しそうな空気が気になる。

シンはフロアで腕を振り回しているか、バー・スペースで飲み続けているかのどちらかだった。

誰彼かまわず話しかけているが、いつもの仲間さえもウンザリしているくらいの泥酔いだ。

松下のおばちゃんはバンドの写真を撮影しながら、ついシンの動きが気になってしまう。

アイヴィーはそんなシンのことをつとめて無視していた。

何ごとも起きなければいいが。


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