6-2
──おっ?
訝しがる声はスルーして、つばさはもといた席に戻った。その視界の端に映る後輩の少女、ようやく厄介な案内対応を終えたらしい受付係の姿に『彼』も気付いたのか、へえ、という声がする。
──なーるほど。お前さんが受付にいたら、あの子が仕事サボってたことになっちまうもんな。優しい先輩だねえ。
「何も出ないわよ」
つばさは椅子に座ると読みかけの本に目を落とした。あとは後輩が受付に戻ってくれば全て世はこともなし。のはずだったが、
「あの、柊先輩……」
すぐ近くからの声に顔を上げたつばさの目の前で、受付より先にここに来たらしい後輩が細い肩を縮こまらせていた。
「どうしたの? 豊橋さん」
「えっと、ありがとうございます。受付代わってもらっちゃって。私、あんなに時間かかると思ってなくて、だからその……」
おずおずと話す後輩を見上げたつばさの頭の中で、くっくっ、と笑うような声がした。
──しっかり気付かれてたみてーだな。
うるさいわね、と口には出せず、つばさは内心で『彼』に毒づいた。
聞こえたらどうなると思ってるのよ。委員のみんなは一通り触って確かめてあるけど、だからって万が一ってこともあるでしょうに──と、そんな気持ちが表情にも出てしまったのか、
「す、すみませんっ。私、次からはちゃんとしますからっ。先輩方に迷惑かけないようにちゃんと……だから、あの……」
「ちょ、ちょっと待ってっ。大丈夫よ? 迷惑なんて全然かかってないから、謝らなくていいんだからね?」
声が震えて涙目にまでなってきた後輩に慌ててフォローを入れたつばさは、わざとらしいかなと自分で思うぐらいの笑みを作った。
「謝るのはむしろ私の方だわ。実はさっき少しウトウトしちゃってて、豊橋さんが席を立ったのに気付かなかったの。ごめんなさいね」
「そんな。先輩は何も──」
「だから」
すっと立てた人差し指を唇の前に持ってくると、つばさはおどけるように片目をつむった。
「ここはお互いさまってことにしましょう。ね?」
「はい!」
ようやく笑った後輩──豊橋舞子の頷きにこちらも頷きを返したつばさは、
──いやあ、本当に優しい先輩だよなあ。
という『彼』の声を今度こそ完全に無視した。
「……ところで、あの、先輩」
「ええ」
「先輩はそういう本がお好きなんですか?」
「…………。そういうわけでも、ないんだけどね」
つばさは肩をすくめた。
机に積んだ戦国武将だの幕末の志士だのを浅く広く紹介した本については、歴史上の人物に惹かれた女子高生なら──つばさはその枠に当てはまらないのだが──読むこともあるだろう。しかし、今開いている日本古来の剣技・剣術の解説書となれば、目を通すのは間違った方向に研究熱心な剣道部員か、あるいは中二病をこじらせた男子生徒ぐらいで、そもそも学校図書館に置いてあるのが不思議なくらいの本なのだ。舞子が首を傾げるのももっともなことではある。
「ちょっと調べ物。うちの家は昔から古流武術の道場やってるの。その絡みでね」
実は全く絡みは無いのだが、こう言えば大抵はなんとなく納得してくれることをつばさは知っていた。舞子も例外ではないようで、
「コリュウ? そうなんですか」
と、なんとなく頷いてくれた。
「そういえば先輩は、前に古典の分厚い本も読んでましたよね」
「平家物語のこと? あれはまあ、古文の勉強にもなるしね。読み応えはあったかな」
「私も授業で少しだけやりました。祇園精舎の鐘の声、でしたっけ」
「そうそう。諸行無常の響きあり、ね」
つばさがそう返したところで自然に会話が途切れた。ちょうどいいタイミングだ。舞子も自分の仕事に戻るだろう。──というつばさの予想に反して、彼女はどこか神妙な面持ちで会話を続けてきた。
「……先輩。やっぱり私、先輩に謝らなきゃいけないんです」
「謝るって、だからそんなこと何も」
「あの子が、千夏が先輩に迷惑かけてるの、私が悪いんですっ。私のせいなんです!」
意外な告白に、つばさは目を見開いた。その間にも舞子の口からは、せき止めていた言葉が次々と吐き出されていく。
「千夏は私の親友で、私と佳奈が先輩たちの、先輩と高代先輩のこと、千夏に教えちゃったんですっ。そしたらあの子、高代先輩に一目惚れしたとか言って、それでこんな騒ぎを起こして先輩にも迷惑かけて……。おかしいんですっ、千夏ってばこんなことする子じゃなかったのに……!」
ぽかんとしていたつばさだが、舞子が一旦言葉を切ると、すぐに相好を崩した。喉まで出かかった「なーんだ」という言葉は抑えて、
「そのことなら、やっぱり豊橋さんは何も悪くないじゃない。溝口さんとは私も少し話したけど、あの子も悪気があってやってるわけじゃないし。ただ晃輝が好きだっていうそれだけの──」
「違うんですっ。あの子、変わっちゃったんです。千夏が変わっちゃったの、私のせいなんです!」
「変わっちゃったって……」
大げさね、と思いながら、思いつめた様子の後輩をどうなだめようかとつばさが考えを巡らせ始めたところで、
「あの時なんです、千夏が変わったのっ。私が無理に誘ったから、私のせいで千夏は死にかけたんです! それであの子、人が変わったみたいになって──」
椅子と床が耳障りな音を立てた。
しかし、舞子が続く言葉を失ったのはその音のせいではない。不意に立ち上がったつばさの、それこそ人が変わったかのような蒼白い顔色を見てしまったせいだった。
「ひいらぎ……せん、ぱい?」
「溝口さんが……死にかけた? それって本当なの? 豊橋さん、何があったの?」
「…………」
「お願い、教えて」
むしろ穏やかな声なのに、何故だか逆らえないものを感じて、舞子は口を開いた。
「……夏休みのことです。あの子、泳げなくて。すごく嫌がったのに、私が無理やり海に誘って、波にさらわれちゃって。……助けられた時、千夏はもう息してなくて冷たくて、私どうしようって……」
「でも、生き返った。いいえ、助かったのね?」
「はい。急に息を吹き返して、何も無かったみたいにすぐ元気になったんです。けど、それから千夏は人が変わっちゃって。大人しい子だったのに、人生楽しまなきゃとか言って、どんどん派手に、無茶なこともするようになっちゃって」
「独り言」
「え?」
「増えたりしてない? その事故の後で」
「千夏の独り言ですか? そういうのはあまり……。あ、ただ──」
それから舞子が口にしたのは、付き合いの長い親友でなければ気付かないだろう千夏の変化だった。舞子自身も今の今まで忘れていたほどの、取るに足らない変化。
それなのに。
「先輩……?」
声をかけた舞子が蒼ざめて息を呑んでしまうほど、つばさの顔は先ほどの舞子よりもさらに酷く思いつめた表情をしていた。