6-1
つばさは夢を見ていた。
より正確に言えば、今の自分が夢の中の存在であり、自分を取り囲む全てのものもまた夢であると理解していた。
『明晰夢』という単語が頭に浮かぶ。しかし、それが現状を表わす正しい言葉かどうかもわからないまま、つばさの意識は目の前の光景に奪われていった。
銀光、そして銀閃。
それらが煌めく度に、幾度も飛び散り舞い落ちる青白い火花たち。
長く鋭く弧を空中に描くのは、太刀を振るう『彼』だろうか。
対して、短い軌跡を次々と繰り出すのは、小太刀を駆使する相手だろうか。
見守るつばさからはかろうじて二人の輪郭がなぞれる薄闇の中、絶え間なく奏でられていく無音の剣戟。
──無音?
つばさが意識した途端、周囲は音を取り戻した。
鋼同士が触れ合う、あるいは真っ向から打ち合う音を中心に、対峙した二人の男の激しい気合いと息遣い、さらには闘いの最中でも饒舌に軽口を叩く『彼』の声が、つばさの鼓膜を震わせる。
「やーれやれ。同化タイプって奴ぁやりづらいねえ、俺としちゃあさ!」
脳裏に響くのではなく実際に耳にすると新鮮に感じられる、張りのある肉声。
対する相手は無言。言葉の代わりはこれだとでも言うかのように、鋭い剣尖を激しく繰り出していく。
つい先日に現実世界で目にした場面が忠実に再現されていることに、つばさは気付いていた。その時の自分と同じく、つばさは二人の戦いを目の端に捉えながら周囲に意識を移した。
建物やフェンスや木々といった物体は存在せず、ただ闇だけが広がっているのはあの日の場景と異なっていたが、自分たちを遠巻きに見守る十体近くの不気味な影たちの方は、忠実に再現されていた。
ネノクニ──根の堅州国の住人たち。『彼』曰く人の死の予兆に物凄く鼻が効くというその連中は、フードで顔も見えない灰色の長衣姿を闇に溶け込ませて、何をするでもなくただゆらゆらと佇んでいる。
彼らに嫌悪と侮蔑の視線をふんだんに浴びせておいて、再び意識を目前の死闘に戻したつばさは、いつの間にか場面が変化していたことを知った。太刀を振るう『彼』の姿はそのままに、相手のシルエットは二回りも大きくなり、その手が走らせる光刃も『彼』と相似の長い刀になっている。
ああ、とつばさはすぐに理解した。
これは初めての時の場景だ。つい先日の二回目の闘いから、つばさが初めてその身を置いた数ヶ月前の闘いへと、夢が舞台を移したのだ。
その時の展開と結末を思い出して、つばさは右手を腰の後ろへと回した。これが数か月前の再現であれば持っているはずの物、念のためにと父のコレクションから無断で持ちだした物を手探りで探し、何も無いと判って愕然とする。
どうしよう。いえ、落ち着いて。私なら、あれが無くてもきっとあの子を──
その後に続く言葉を意識した瞬間、轟音とともに激しい衝撃がつばさの身体を吹き飛ばした。宙を飛ぶ感覚を覚える間も無く、背中が何か固い物に激突する。
かはっ、と口が肺の空気を残らず吐き出す音が妙にはっきりと意識に届いた。続いて全身を襲う激痛──かどうかもわからない痺れの中で、つばさはいつの間にか閉じていたまぶたをうっすらと開けた。
一面の闇は変わらず。しかし闘う男たちの代わりに現れた、そこかしこで上がる紅蓮の炎と電気の火花が、この夢が三たび場面を変えたことをつばさに教えてくれた。
これをもう一度体験させるなんてまさに悪夢だわ、とつばさは思った。さらに、こちらは消えずに残ったネノクニの住人たちを見て、これは間違いね、と独りごちた。この時の私はまだ彼らが見えなかったんだもの、と考えた途端、不気味な長衣姿は闇に溶けるように消え、入れ替わりに正しい過去の再現が始まった。
「…………か?」
脳裏に響く『彼』の声。夢の中のつばさは目を閉じる。これこそ夢か現か、まぶたの裏には男のおぼろげな影法師と、その影が差し出すこれだけは鮮明な右手の姿が、闇の中に浮かんで見えた。
「────たいか?」
つばさは覚えていた。この時の自分が晃輝のことを思い浮かべたことを。他の何よりも、ただ彼にもう一度会いたいと強く願ったことを。
だから、つばさは迷うことなく、思うように動いてくれない手を必死に伸ばして、『彼』が差し出すその手を──
「あのー。すみませーん」
遠慮がちにかけられた少女の声に、つばさの意識は覚醒した。
机に頬杖をついて読みかけの本を見下ろしていた顔を上げると、夕暮れの陽射しが照らす広い作業机を挟んだ空っぽの貸出しカウンターの前で、困ったように辺りを見回す生徒の姿が目に入った。
「貸出しですね。ちょっとお待ち下さーい」
席を立ちつつとりあえず声を掛けたつばさは、口元にさっと当てた指でよだれなどが無いことを確認すると、受付係の後輩の姿を求めて周囲を見渡した。
あそこね、とすぐに目を止めたのは、広い図書館の反対側で別の生徒と話しているショートカットの後ろ姿だった。
書架を指さしたりしているのを見ると利用者対応のお仕事中ではあるようだが、席を外す場合はカウンター内で待機する監督係の先輩、つまりはつばさに了解を取るのが図書委員のルールだ。失念したのか、すぐ終わるだろうと油断したのか、あるいは午睡中の先輩に遠慮したのかはわからないが、遠く離れた後輩を大声で呼びつけるのも気が引けて、つばさは仕方なく自らカウンターへと向かった。
「──では、二冊とも二週間以内に返却をお願いします。それと、明後日から週末までは蔵書整理で休館になりますのでお気をつけください」
手際よく一連の貸出手続きを済ませて本を渡すと、借りた側の少女は軽く頭を下げた後、逃げるように図書館を出て行った。
──なんか、お前さんの顔見てから急にそわそわしだしたよな。あの嬢ちゃん。
「もう慣れたわ」
と返してから、つばさは元の席には戻らず、受付用の席に腰を下ろした。後輩が戻ってくるまでは自分が代わりを務める必要がある──とはいえ、今日は利用客もまばらで仕事もすぐには無さそうなので、つばさは貸出台帳に目を通す振りをしながら、小声で『彼』との話を続ける。
「腫れ物扱いもここまで来るといっそ気持ちいいわね。さすがにそろそろ落ち着いてほしいのに、また変に話題になっちゃってるし」
──それはあれかい? あのミゾグチチナツって子のせいかい?
「まあ……そうでしょうね」
つばさはそっと吐息をもらした。
先週末につばさと話して、『お墨付きをもらえた』とでも思ったのかどうか。週が明けてからというもの、溝口千夏はまさに人目もはばからない熱心かつ猛烈かつ露骨な晃輝へのアピールを繰り広げて、校内の話題になっていたのだ。
待ち伏せ登下校、弁当持参のお昼のお誘い、部活の応援プラス練習後の汗拭きタオルサービス、といった定番どころを網羅した千夏のあからさまなアタックは、この話題から離れかけていた多くの生徒たちに新たなネタをもたらすことになった。当初のようにSNSで祭りにこそなっていないものの、ゴシップ好きの野次馬と傍観者に徹し切れない一言居士による賛否両論や、隠れも含めれば相当数いるとされる晃輝とつばさのファンによる愛憎色とりどりなご意見・ご感想の数々は、噂には徹底して我関せずを決め込んだつばさの耳にも否応なしに届いている。
──ま、つくづく平和な時代で何よりだよ。善哉善哉。
からからと笑ってから、声は一言付け加えた。
──お前さんにとっちゃ、とんだ災難だろうけどな。
「お気遣いありがと」
さらっと気の無いお礼を返したつばさは、
「溝口さんにも困ったものだけど、問題は晃輝の方なのよ」
と不機嫌を隠さない声で言った。
「結局、彼が鼻の下伸ばしてはっきりノーを言わないからこんなことになるんだわ。寂しいところに可愛い後輩が慕ってくれればまんざらじゃないのは理解するけど、貴方はその程度で流されたり気持ちを変えたりしない人のはずでしょうに、一体何をやってるんだか 」
──おいおい?
「断らないのが優しさだ? そんなのよくある男の勘違いだし、もし仮に万が一いえ億が一にもオッケーするにしたって、こうも騒がれてるんだからずるずる引き延ばすのは私にも周りにも迷惑だわ。大体そもそも、あれから私に何も言って来ないのはどういうことなのよっ」
──……お前さんが気にしてるのはそこなわけね。
「私がどんな想いで覚悟を決めて貴方にああ言ったと思ってるのよっ。なのに晃輝があれじゃ、周りの騒ぎも収まらないし、いつまでも腫れ物だし、友達も気を遣って話しかけてもくれないしっ」
──お前さん、友達いたのかい?
「失礼ねっ」
ようやく声に反応を返したつばさは、それで我に返ったのかバツの悪そうな顔を見せた。──が、しばらくすると結局またぶつぶつと呟き始める。
「……それはまあ、晃輝と付き合い始めてから、ちょっと他の子とは疎遠しちゃってたかもだけど……。変なのに取り憑かれてからは尚更だし……」
──変なのってね、お前さん。
「何よ」
と返したところで、つばさは急に立ち上がった。