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7/24


 季節というものは、時にちょっとした悪戯を仕掛けてくる。

 その週末は少し肌寒い秋の朝で始まったはずなのに、あらゆる予報データを裏切って突如舞い戻った夏が土曜の夕方から一泊二日で居座ったため、日曜は多くの人たちが予定外の発汗を強いられる羽目になった。


「ただいまー」


 暗い夜道から帰って玄関の引き戸を開けたつばさも、道中で暑さの被害を存分に受けてきたのだろう。疲れ切った様子の顔にはいくつもの汗の珠が浮かんでいる。


「お帰りなさい。今日は暑かったわねえ」


 リビングから母親が顔を出した。帰りが遅くなることは言ってあるので、その点を怒られる心配は無い。


「うん、暑かったー。ジムでシャワー浴びたのに、帰り道でまた汗かいちゃって……」


 靴を脱いだつばさがそのまま廊下の上がり口にペタンと座り込んだのを見て、あら珍しい、と母親は驚いた。万事きびきびと動くこの一人娘は、ジム帰りでも何でもすぐさま自室やお風呂に直行するのが常なのだ。


「今日の練習、そんなに大変だったの?」


 廊下に出てきた母親に、つばさはかぶりを振った。


「ううん、むしろその前。委員の仕事でハマっちゃってたの」

「あらあら、そっちも肉体労働? 図書館の蔵書整理は来週じゃなかった?」

「そうよ。だから今日はただの気疲れなんだけど、おかげでジムのメニューもほとんどこなせなくて……」


 腰を上げたところで軽い立ちくらみにでも襲われたのか、つばさは力なく壁に手をついた。これもつばさには珍しい。


「大丈夫なの? そういえば顔色も良くないわよ。熱とか寒気とか、あったりしない?」

「大丈夫。でも今日はご飯食べたらもう寝ちゃうと思う」

「そう。なら先にお風呂入っちゃいなさい。すぐ追い焚きしておくから」

「そうするー。……父さんは?」

「言ったでしょ、今日はお弟子さんたちとの寄り合いで遅くなるって。そうそう、お父さんたら、つばさもたまには道場にも顔を出しなさいってぼやいてたわよ」

「んー」


 生返事の見本のような一言を残して、つばさはひとまず荷物を置いてこようと、二階への階段を重い足取りで上がっていった。




 洗濯物を出して入浴と夕食を済ませたつばさが部屋に戻ったのは、月曜日の訪れまであと一時間半を切った頃だった。

 いつもなら机に向かうかスマホやノートパソコンをいじるか寝転がって読書にいそしむところだが、今日のつばさは見るからに眠そうな表情そのままに、入室するなりうつぶせの姿勢でベッドに身を投げ出した。


「ふに~」


 およそ『女王』らしくはない可愛い声が口から漏れたところで、


──ほい、お疲れさん。


 例の声が頭の中に響いた。布団に密着していたつばさの顔が、もぞもぞと柔らかな布地を離れる。


「そっちこそお疲れさま。私は言うほど疲れてないわよ。今日は見守ってるだけで済んだものね」


 つばさは囁くような小声でそう言った。階下の母親を気にしてのことか、本当はやはり疲れているせいかはわからない。


「だから、私が今ここにいられのは全面的にあなたのおかげ。本当にお疲れさまでした」

──いやいや、俺も全然疲れなかったというか楽勝というか余裕というか。ま、あれが本来の俺の実力ってやつですか?


 ドヤ顔が想像できる声に、つばさは苦笑した。が、すぐに表情を戻して、


「そこまで余裕じゃなかったでしょ。見てるこっちはハラハラしたんだから。肩の傷なんてかなり深そうだったけど、大丈夫なの?」

──そこは心配ご無用。引っこんでりゃ治っちまうみたいでな、明日の朝には全快してるだろ。そこんとこは便利なもんさ。

「本当ね」


 つばさは首の角度だけを変えて、布団の上に投げ出した右腕を見つめた。今はもう綺麗なものだが、忘れもしない初めての戦いで手首に負ってしまった傷は、目立たなくなるまで一ヵ月以上かかったことを思い出す。

 それでも、自分は恵まれているのだとつばさは思う。生きてさえいれば、生きているからこそ、受けた傷もいつかは癒えるのだから。


「……私、やっぱりおかしいのかな」

──何だよ、急に。

「今日をね、この日を迎えるまでってね、普通なら、もっと悩んだり怖がったり取り乱したりするんだろうなーって思うの。普通の女の子なら……ね」


 話し相手よりも自分自身に言い聞かせるように、つばさはゆっくりと言葉を紡いだ。


「こういう結果になることだって、前からわかってた。ううん。ひょっとしたら、私がもうこの世界のどこにも存在しない、そんな未来になってたかもしれない。それなのに、私はずっといつも通りに生活できてたの。自分でも不思議なくらい、いつも通りに」


 謎めいた告白が静かな部屋の中を流れていく。その内容をおそらくはこの世でただ一人理解しているだろう存在は、つばさの頭の中で沈黙を守っていた。


「今だってそう。私ね、後悔も何もしてないんだよ。信じられないでしょ?」


 壁際にある棚の上には、背の低いトロフィーや写真立てと並んで小さな鏡が置かれている。そこに映った自分の顔が微かに歪むのをつばさは見た。


「ついさっき、あんなことがあったのに。あんなことしたのに。一人で後片付けして、ジムにも寄って、お風呂入ってご飯食べて、あー疲れたーってふかふかのベッドに転がってるの。おかしいよね? やっぱり私……」

──それが、あいつと別れた理由なのかい?

「えっ?」


 脳裏に響いた呟きは聴き取れないほど小さくて、でもつばさはそれがとても真剣な質問だった気がして問い返した。しかし、


──いや、ワリぃ。


 声はいつもの軽い調子に戻ると、さっきとは別の言葉を続けた。


──お前さんはさ、今日までしっかり覚悟を決めてきた。だから後悔なんてあるわけねえ。ついでに、お前さんは他のジョシコーセーに比べりゃ日頃から戦いってのに慣れてんだ。だからいつも通りに暮らせてる。それだけのこったろ? おかしくなんてねえんだよ。

「そうかな」

──そうだよ。


 即座に言い切った声に、つばさは微笑みで応えた。眠気が程よく浸透してきたのか少しトロンとなってきた瞳が、棚に飾られた写真立てに緩い焦点を合わせる。スマホの電話番号もメールも消してしまったけれど、これだけは残してある、晃輝と自分の笑顔の写真に。


「そうだ、晃輝に電話しなきゃ……今度のデートの……」


 もぞもぞと動いた手がパジャマのポケットを探った。つばさのスマホは帰ってきた時からずっと机の上に置かれている。


──疲れてるんだよ、お前さんは。今日はもう休むといいさ。


 優しく諭すような声に、つばさは目を閉じつつもかぶりを振った。


「疲れてないって言ったでしょ。あなたが頑張ってくれたんだもの。私のは、ただの気疲れで……」

──……つばさ?


 なあに、とつばさは返したつもりだったが、声の元に届いたのは、スー、スーという規則正しい寝息だけだった。


──おやすみ。


 これも優しく言ってから、最後に声は自嘲気味に付け加えた。


──女好きのシゲヒラあたりなら、こういう時は髪でも撫でてやるとこなんだろうがなあ……。


 その声が脳の記憶領域に届くよりもわずかに早く、つばさの意識は深い眠りの霧の中に閉ざされていった。



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