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「職務質問!? お巡りさんにっ?」


 若干裏返ってしまった声は、その声を発したつばさよりも、裏門への道を並んで歩く晃輝の顔を赤くさせた。


「いやまあ。ああいうのも補導って言うのかな。早く来すぎたんで門の向かいでぼーっとしてたら、怪しい人に見えたらしくてさ。生徒ですって言っても、なんでか信用されなくて……」

「それで、お巡りさん殴り倒して校内に逃げてきたの?」

「逃げてねーよ! ちゃんと解放されたよ! うんざりしたから中で待つことにしただけだよ!」

「だからって、わざわざ図書館まで来なくても」


 学外から図書館に辿り着くには、一番近い職員駐車場の出口からでも約三分。生徒がこっそり出入りしやすい裏門からだとその倍かかる。用が無い限り、気軽に立ち寄る距離ではないはずだった。


「いや、屋上が崩れた話とか気になってたし、最近あんまり来てなかったし。……昔はちょくちょく来た場所だしな」


 昔、という言葉がちくりとつばさの胸に刺さった。まだひと月と経っていない『昔』、部活帰りと委員会帰りの二人で、よく一緒にこの道を帰っていたことを思い出す。


「──出ないの? 溝口さん」

「ん? ああ。ずっと『電波の届かない所』メッセージだよ。電源切ってんのかな」


 晃輝は、つばさとの会話中も何度か掛け直していたスマホを耳元から離した。


 戦いを終えた後、つばさは父から習った柔術の活法、つまりは気付けの技で目を覚まさせた晃輝に、「溝口さんは怒って帰っちゃったわよ」と告げていた。理由を訊かれても、「よくわからないわ」「私が知るわけないでしょ」と突っぱね、むしろ「二人で大事な話してたのに、あなた溝口さんに何したのよ」と非難の目を向けることで、強引かつうやむやに当座を凌いだのだった。


「にしても、溝口さんに一発KOされるなんてねえ」


 つばさは右手の指先で額を押さえて、いかにもわざとらしく首を振った。おちゃらけても見えるその陰では、歩き始めてからポケットに押し込んだままの左手が、再び彼女の髪で光る髪留めを無意識に触らないようにと、ずっとクマのストラップを握りしめている。

 これからしばらくの間、つばさは嘘をつき続けなければならないのだ。


「空手部のエースが、何やってるのよ」

「そこは俺も、何が何だか」


 電話は諦めてメールかSNSをいじっていたらしい指の動きを一旦止めて、晃輝はうーっと喉奥で唸った。


「千夏くんが走ってきたーと思ったらいきなり目の前真っ暗になってさ。腹に一発もらった気もするけど、記憶も痛みも無いんだよな」

「実は彼女、暗殺拳の使い手とか?」

「そんな話は無い……と思う」


 晃輝はスマホに落としていた視線を傍らのつばさに移した。暗殺拳でこそないが格闘技を嗜む、元・彼女に。


「何?」

「あ、別に」

「……ナントカ波とか撃てないわよ、私」

「知ってるよ」

「だといいけど」


 微妙に絡んだ視線は、どちらからともなくほぐれた。

 それからしばらくは、ひたひたと二人が並んで歩く音だけが夜の学校に響いていたが、通路の先に裏門が見えてきたところで、晃輝が口を開いた。


「千夏くんさ、ここんとこちょっと変だったんだ」

「変?」

「ああ。妙に焦ってるっていうのかな。今日のにあんま関係無いとは思うけど」

「焦ってるって、何に?」


 あなたをオトすことに?


「わかんね。でも、生き急いでるっていうのかな。何かそんな感じがしてさ」


 生き急ぐ。

 高校生の身に相応しい言葉とは思えないが、つばさは笑わなかった。晃輝の顔も真剣だ。


「ねえ、晃輝」


 不意に立ち止ったつばさに少し遅れて、晃輝は足を止めて振り返った。目が合う。


「どうした?」

「だから、あの子と寝たの?」


 ──とは訊けなかった。代わりに、


「この裏切り者」


 と言ってやろうとも思ったが、つばさは自分を押しとどめた。

 この場に裏切り者がいるとしたら、それは晃輝では無いのだから。


「溝口さんとは、最近どんな感じ?」


 結局は無難に逃げたつばさの質問に、しかし晃輝はあからさまにうろたえた。


「ど、どんなってっ?」

「相変わらずなの?」

「あ、ああ。まあ、そんな感じ」


 何かを探すかのように目を泳がせてから、その何かを不意に見つけたのか、急に晃輝は明るい声を出した。


「そうだっ。聴いたよ、つばさ。この前さ、図書委員の子の命を救ったんだって?」


 びくっとつばさの身体が震えたが、良い話題を見つけたと笑顔で言葉を続ける晃輝は気付かない。


「例の屋上の事故。あれで落ちかけた子を助けたんだよな。落ちた子をつばさが一人で受け止めた、なーんて噂は尾ひれが付き過ぎとしても、つばさはやっぱすげえよ。ひったくりの時といい、また人の命を助けたんだもんな!」


 最初は話を逸らすためだったとしても、話しているうちに本気になってきたのだろう。感じ入った様子で熱弁をふるった晃輝は、つばさの表情を見て首を傾げた。


「どうしたんだよ、びみょーな顔して」

「……いーえ。どうせ他にもいろいろと尾ひれが付きまくってるんだろうなって。大体、豊橋さんを助けたのは私よりむしろ溝口さんのお手柄よ?」

「そうなのか? その千夏くんが言ってたんだぞ。舞子を救ってくれたのは柊先輩だ、みんなあの人のおかげだ、って。柊先輩はすごいです、かなわないです、とかメチャメチャ持ち上げて感謝もしてて──だからさ、どうしてそんな顔してんだよ?」

「だって……そんなこと……」


 ありえない。そのタイミングなら千夏はもう知っていたはずだ。自分とつばさが敵同士だということを。だからあんな挑発的なメールまで送ってきたのに。それなのに。


「冗談、でしょ?」

「違うって。こんなことで冗談言う趣味無いぞ、俺」

「あの子、実は演技の天才だったりしない?」

「暗殺拳の次は天才女優かよっ。むしろ当たり前だろ? 親友の命の恩人なんだからさ」

「それは、そうだけど……」


 ただの敵同士ですらないのだ。互いに殺し合わなければならない、いや、妬みも憎しみも欲望も何の理由も無く、ただ純粋に殺したくて仕方がないと思えてしまう相手。それが二人の関係だったはずだ。──()()()()()()()


「……その理由が、欲しかった?」

「えっ? おかしなこと言うなあ。さっきから変だぜ、つば──」


 さ、と言うよりも早く、晃輝の横を早足のつばさが通り抜けた。


「ちょ、おい?」


 呼び掛けても止まらず、やむなく自分も早足で追いかける。追いついたらどうするかを悩む間も無く、裏門に着いたところでつばさが足を止めた。


「ここにも居ないわね、溝口さん」


 晃輝は内心で胸を撫で下ろしたかもしれない。つばさの声も振り向いた表情も、いつもの彼女のものだった。


「ああ。元の待ち合わせ時間も過ぎてるからなあ。やっぱり帰っちまったか」

「ご愁傷さま」


 はは、と空笑いする晃輝を尻目に、つばさは閉じた裏門に肩を当て、体重を掛けて押した。かんぬきがかかっていても人一人が通れるぐらいの隙間が開いてしまうこの門のギミックは、学校に遅くまで残る生徒たちによって脈々と伝承されてきた公然の秘密だ。


「あのさ、つばさ」

「?」


 肩の埃を右手ではたきつつ目だけで返事をしたつばさの前で、晃輝はどこか居心地悪そうに頭を掻いた。


「千夏くんが今日、お前を呼び出して、あんなとこで話してたのってさ。その……ひょっとして、俺についてのこと、とか……?」

「却下。教えない。ノーコメント」


 ぴしゃりと遮る即答には、細めた目が送る冷たい視線、いわゆるジト目が付随していた。


「その手の詮索は歓迎しないわ。大事な話だったとは言っておくけど、それ以上は乙女の秘密よ」

「……乙女の秘密ねえ」

「引っかかる言い方ね。そんなに知りたいなら、明日にでも溝口さんから教えてもらいなさいな」


 そう言うと、つばさは裏門に開いた隙間に後ろ向きのまま背中を差し入れた。

 とん、とひと跨ぎで境界線を越えると、そこはもう学校の外だ。


「どうする? 私はジムに寄って帰るけど」

「そうだな……」


 辿ってきたばかりの道を振り返って考え込み、しばらくして戻った晃輝の顔は、つばさがよく知る優しい笑顔になっていた。


「もうちょっとだけ、ここで待ってみるよ。千夏くんが戻ってくるかもしれないしな」

「そっか」


 軽く頷くと、つばさも門の向こうの晃輝に笑顔を見せた。


「お巡りさんや守衛さんに見つからないようにね」

「つばさこそ、暗いから気をつけろよ。送ってやれなくてごめんな」

「いいわよ、そんなの。それじゃあね」

「ああ。じゃあな」


 またね、も、さよなら、も無いまま二人は別れた。

 自分で三十歩を数えたところで、つばさは振り返る。晃輝はまだ門の向こうに立っていた。

 門柱に背を預けて朧に霞む月を見上げ、スマホを耳に当てている──が、やはり相手につながらなかったのだろう。やがてスマホを下ろして小さく首を振るのが見えた。

 ずきん、とつばさはどこかに痛みを感じた気がしたが、それはすぐに消えた。

 ずっとポケットに入れっぱなしだった左手を抜くと、汗ばんだ手の熱を、涼やかな風が奪って通り過ぎていった。夏の面影をすっかり拭い去られた今日の夜は、秋と言うよりもまるで春の日のような雰囲気を漂わせている。


「ただ春の夜の夢の如し……」


 ふと口をついて出た一節。

 それがどこで読んだものなのかは思い出せないまま、淡い月光に背を向ける。つばさはそれきり振り返ることなく、ただ一人悄然と足を踏み出した。




 ──高橋泥舟。


 江戸時代末期の幕臣。泥舟は自称の号で、名は精一郎。

 家伝の忍心流を工夫し自得院流を名乗ったその槍は天賦の妙法、天授の神技と謳われるが、その実は寝食も摂らず一心に打ち込んだ稽古の賜物だったという。講武所師範、新徴組責任者、遊撃隊頭取、といった幕府直轄の要職を歴任し、将軍・慶喜の側近として江戸城の無血開城にも尽力した。

 勝海舟、山岡鉄舟と並ぶ『幕末の三舟』の一人。



 ──平教経。


 平安末期、源平時代の武将。旧名は国盛。能登守を務めたことから能登殿と称された。

 平清盛の甥にあたり、数々の合戦で源軍を最後まで苦しめた平家随一の猛将。

 『平家物語』では、敗色濃厚な平家において鬼神の如く奮戦。単騎で敵の総大将・源義経を後一歩まで追い詰めるも果たせず、最期は敵兵三人を道連れに壇ノ浦の海へ身を投げて、二十数年の短い生涯に幕を閉じたという。



次で終わります

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