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9-6


「~~~~~~!!!」


 声無き絶叫は男女どちらの喉から迸ったのか。

 見えない圧力に跳ね飛ばされて後ろに下がったつばさは、全くバランスを保てず尻もちをついた。

 間違いなく千夏の左胸をめがけたつもりのナイフは、()()()()大きく狙いを外して千夏の襟元に突き立っていた。それでもそこに泥舟の心臓が位置する以上、これから起きることに違いは無いはずだった。


「あ! あっ! ……あがっ!」


 白目を剥いてびくびくと身体を震わせる千夏の両手が向かった先は、自分の胸でも突き立つナイフでもなく、大きく仰け反る白い喉元だった。


「そっか。海で溺れたんだったわね、あなたは……」


 奇妙な共存関係は既にその効力を失ったのか。周囲に空気が無いかのように苦しげに喉を押さえる千夏とは異なり、泥舟の姿は絶叫があがった瞬間のまま不自然な体勢で固まっていた。

 ナイフの傷から滲み出る血の色だけがじわじわと紅く周囲を浸食していく中、千夏の肉体が次第に実在感を取り戻していくのと入れ替わりに、泥舟の身体はみるみるうちにその色を失い、夜の闇に同化しようとしていた。


「……すまねぇな」


 謝罪の相手は千夏なのか。泥舟なのか。それとも。

 ぽつり漏らした教経の言葉に気を取られ、一瞬だけ外した視線をつばさが戻した時にはもう、泥舟の姿もその槍も、血の海に横たわる千夏と力無く落ちたナイフだけを残して、この世から消え去っていた。

 あの隆々たる槍捌きも夢だったのかと疑ってしまうほどあっけない、現代に甦った幕末の大剣人の最期。しかしこれこそが待ちわびた極上の宴とでも言うのかのように、いつしか頭上では数多の長衣姿が醜悪なワルツを踊っていた。

 月と外灯の明かりと、それらが地上に落とす忌まわしいネノクニの住人たちの影を浴びながら、今や一人で横たわる千夏は、文字通り息も絶え絶えに喘ぐ中で必死の形相を上げて、この残酷な結末を自分にもたらした張本人──柊つばさを睨みつけた。


「この……人、殺し……」

「……そうね。その通りよ」


 できれば二度と見たくはないと十人が十人思うだろう瞳を前に、つばさは最後まで目を逸らすことなく言った。


「あなたをそうさせなかったことだけは、感謝してほしいわね」

「なっ、に……あがっ……がっ!」


 ごぼっ、という音が千夏の喉から溢れた。


「……!? ……っ!!」


 どれだけもがいても、どれだけ空気を求めても、彼女の肺には水しか入ってくれない。まるで海の底にいるかのように、声も吐息も全ては水に吸い取られ、苦痛と絶望に呑み込まれていく。千夏が死んだ、あの夏の海と同じように。


 なんでよ。どうしてこうなるのよ。

 あたしは生きたいのに。生きたいって答えたのに。なのに。


 千夏の瞳から光るものが次々と零れ落ちる。それが涙なのか、もはや身体のどこにも入らずに溢れてしまったただの水なのかは、もう誰にもわからなかった。


 やだよ。助けてよ。舞子。助けてよ。晃輝先輩。

 あたしは生まれ変わったんだから。これからみんなと楽しく生きるんだから。


 粘る水を引きながら、千夏の右手が持ち上がった。誰かが差し出した手を取ろうとする かのように、あるいはすぐ近くにいる誰かの救いを求めるかのように動いた腕は、しかし何も掴むことなく、ただ虚しく宙を彷徨った。


 あたしは──


 びちゃっ、と濡れそぼった物が地面に落ちる音がした。

 それが、溝口千夏という少女が、この世界に遺した最期の音だった。




 ──それからの変化は、急速だった。


 横たわる千夏の身体が、不意に形を崩した。そう認識する間もなく、彼女の肉体は纏った衣服ごと砂のように崩れていき、まばたきを一つする間に全ては塵と化した。そして次のまばたきで、その塵さえも風に吹かれたかのごとく、薄闇の中に消え去った。

 つばさの手や身体、顔にも散った、夜目にもわかる紅い花びらたちもまた、同じく。


「……返り血も何も残らないところだけは、助かるわね」


 つばさは夜空を見上げた。気付けば微かに虫の声が聞こえる中、つい今しがたまで狂ったように空を舞っていたネノクニの住人たちも、いつの間にかその不気味な姿を消失させていた。


「ホント、逃げ足速えよな。あの連中」


 軽口に目を向けると、刀を鞘に納めた教経が右手を伸ばして千夏たちが消えた場所に遺された二つの物を拾い上げていた。脇腹の傷は深いはずだが、思いのほか普通に動いている。


「大丈夫なの?」

「ああ。今すぐ死なねえ程度にはな」


 さすがに疲れの色が濃い顔に何とか笑みを刻んだ教経は、地面にへたりこんだつばさの元へと歩み寄った。


「お前さんこそ、大丈夫かい?」

「何が?」

「……それを口に出して訊けってか?」


 肩をすくめた教経の手には、つばさが自ら泥舟に突き立てた細いナイフの刃が握られている。


「大丈夫だってば。心配性ねえ」


 からかうような明るい声は、いつも通りのつばさのものに聴こえた。


「今回は怪我してないし。手だって震えてないでしょ?」


 ほらほら、と両の手のひらを広げて見せたつばさに、教経は黙って右手を差し出した。 つばさが手のひらで受け皿を作ると、ナイフではなく指先でつまんでいたもう一つの方がつばさの手に渡った。

 クマのストラップ。

 泡のように消えた千夏がこの場に遺した、ただ一つの品。


「そっか……」


 何かが胸につかえたような声で、つばさが言った。


「私たちが勝った──生き残った、のね」

「だな」

「ごめんね。水を差しちゃって」

「あん?」


 眉をひそめる教経に、今度はつばさが空いた右手を差し出した。左手は受け取ったストラップを胸元に握っている。


「男と男の勝負。だったんでしょ」

「あー。んなもん、犬に食わせとくさ」


 ナイフの柄をつばさの右手に置くと、教経は大きくため息をついた。その顔がしかめられているのは、脇腹の傷が原因ではなさそうだ。


「あのままじゃ、良くて相討ち。結局お前さんに助けられたんだ。俺にどうこう言う資格はねーよ」

「素手の女の子だったから……かな」

「ん?」

「タックルした瞬間ね、あの人の手はもう腰の刀にかかってたの。あれを抜かれてたら、きっと今頃は……」

「……それも武士道かねえ」


 今度は小さなため息とともに、教経は頭上を振り仰いだ。釣られてつばさも夜空を見上げる。


「それで死んじまったら──死なせちまったら、世話ねえのにな」

「そうね」


 地上の明かりのせいか薄雲のせいか、夜空に星の姿は見えない。二人はしばらく月だけを眺めていたが、


「んじゃ、そろそろ戻るわ」


 と、教経の方が切り出した。

 飽きたから帰る程度のノリにも聴こえる軽さとは裏腹に、教経の肉体がそろそろ限界に近いことはつばさにもわかっている。


「うん。お疲れさま。それと、お大事にね」

「そっちの旦那は、お前さん一人で大丈夫かい?」


 教経が視線と親指で示した先には、失神して横たわったままの晃輝の姿があった。今に至るまでつばさが彼の元に向かわない点は、不思議と言えなくもない。


「あなたがいると、むしろややこしくなると思うわ」

「そうかい? 一歩下がった冷静な意見ってのも大事だろ?」

「はいはい」


 つばさは後ろ手でナイフを腰の革鞘に納めた。次にスカートの上に一時避難させておいたストラップを取り上げ、どうしようかとこちらは少し迷ってから、ひとまず左のポケットに押し込んだ。

 それから、ようやく立とうと身体に力を込めて──


「ね、戻る前にもう一個だけお願い」


 と言われて、教経は戸惑った。つばさが差し出してきた右手に渡せる物はもう何も無かったからだが、


「引っ張ってくれる?」


 憮然としているような、あるいは微笑んでいるような。そんな不可思議な表情で、つばさは言った。


「腰、抜けちゃってるの」



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