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9-3


 着地後、さらに飛び退って槍の間合いを充分に外してから、ようやく青年は息をついた。


「やばいね、こりゃ。下手すりゃ今ので終わってたぜ」


 左の指先で頬を拭うと、赤い欠片が薄闇に飛んだ。舌でその指を舐めながら、


「病院でチラ見してなきゃどうなってたか。嬢ちゃんには感謝しないとな」

「どういたしましてですよー、鎧のイケメンさん」


 にっこり笑った千夏の姿は、槍を構えて微動だにしない武士の身体と同じ姿勢で重なっていた。体格は二回りも武士の方が大きいため千夏の身体はほぼ埋もれるはずが、不思議なことにつばさたちからは二人の姿がどちらも透けて見えるのだ。少なくとも武士の方は完全に実体化しているし、後ろの闇も光も透けてはいないから半透明というわけでもない。ある意味で、物理法則を超越した状態だと言えた。


「先輩たちは完全に二人が分かれてるんですねー。こっちは顔ぐらいしか自由が利かないし、ゲームみたいに自分をちょっと後ろから眺めてるしで、何かおかしな感じですよ」

「うちの姫さんは、分離タイプと同化タイプなんて呼んでるな」


 右手の刀で構えは取らず、ただ油断の無い眼を千夏たちに向けて、青年は言った。


「正直、同化タイプはやりにくいんだよ。女の子に斬りかかるのは趣味じゃないんでね」

「あ、そうなんですかー? それじゃあこっちは」


 千夏の口元がそれまでとは別の笑みに吊り上がった。流れ出る声の調子もがらりと変わる。


「命令よ、泥舟。チャンスがあったら彼じゃなく先輩の方を狙いなさい。どっちを斬っても勝てるんだから、こっちが断然有利──」

「──高橋泥舟。天保六年誕生、明治三十六年死去。享年六十九歳」


 割り込んできた静かな声に千夏は愕然とした。

 守護者たる青年の後方、いつの間にか広場の端まで下がったつばさは、ほんのりと光るスマホの画面で調べたばかりの情報を、淡々と読み上げていく。


「勝海舟、山岡鉄舟と並ぶ『幕末三舟』の一人。その武芸と謹厳実直な人柄で徳川将軍・慶喜の信も篤かったという。槍一筋で伊勢守になったと称される自得院流の槍はまさに天下無双。その技は神に入ると言われた──と。最後のくだりはテンプレよね」

「ま、ちょいと腕が立つと、すぐ無双だの天下一だの呼ばれちまうからなあ」


 背中でつばさの声を聴く青年の顔に苦笑が浮かんだ。対象には自分自身も含まれているのかもしれない。


「だがよ、このおっさんはマジモンだ。天下無双の槍……。折りがいがあるねえ」

「期待してるわ」


 つばさはスマホの画面を消して顔を上げた。千夏と目が合うと、お返しとばかりにわざとらしく口元を吊り上げてみせる。


「将軍様にも頼られた誠実なおじさまに女の子を殺せだなんて、とっても立派なご主人様よね?」

「なっ……!」


 千夏の顔に朱が上った。思わず身じろぎするが、構えの形を取った身体は動かない。せめて言い返そうと口を開きかけたところで、


「沈着が肝要ですぞ。我が主よ」


 錆を含んだ声が、この日初めて夕闇に流れた。


「心配なさらずとも、この泥舟、必要とあれば泥をかぶるも婦女子を斬るも厭わぬ所存にござる。無論、必要とあればですがな」

「でもっ。あいつら、アンタの情報まで……!」


 自分の胸元辺りから訴える声に、泥舟は動ぜずゆっくりと首を振った。


「あの程度、いかほどの価値がありましょうや。よしんばあるとしても、こちらの不利とは言えますまい。違いますかな、能登殿?」


 おっ、と目を見張った青年とつばさに向けて、朗々とした声が微かな夜風を連れて流れてきた。


「赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧着て、厳物(いかもの)作りの太刀を佩き──」


 眼前に立つ『能登殿』、即ち平能登守教経を描いた物語の一節をそらんじる泥舟の声は、淡々とした中にも確かな感情の色を帯びていた。親愛と敬意、そして憧憬の色を。


「──多くの者共、討たれけり」


 しみじみと言い切った泥舟は、自分に集まる三対の視線に気が付いた。


「源平の読み本は、幼少より我が家にあったでござればな」


 小さく咳払いをした泥舟の顔をつばさは目を凝らして見てみたが、武骨な男の頬が赤くなっているかどうか、この暗闇ではわからなかった。


「水島、六ヶ度、壇ノ浦。能登殿の荒武者ぶりは、いずれも心躍るものでござった。その御仁とよもや刃を交えることになろうとは、まさに僥倖。武人の本懐、恐悦至極にござる」


 感極まって語った泥舟は、しかし最後にぼそっと付け加えた。


「……我が心象に比べ、いささか重厚さを欠くきらいはあれど」

「うっ」


 と呻くと、軽薄さを指摘された青年──平家の誇る猛将・平教経は、なぜか肩越しにつばさを振り返った。つばさがその困った顔からなんとなく目を逸らしていると、教経は観念した様子で泥舟の方に向き直った。


「いやその、なんだ。平家物語だっけか。俺も姫さんと一緒に読んだけどな、あれはさすがに美化しすぎっつーかな」


 きまりが悪そうに言うと、教経は空いた左手で頬を掻いた。


「なんつーか、わりぃね。ただ……」


 泥舟の構える槍の穂先がぴくりと動いた。いくら間合いの外とはいえ、まさか教経が右手の太刀を腰の鞘に納めてしまうとは。


「戦働きの方なら、多分あんたの想像を裏切らないと思うぜ?」


 にやりと笑った教経の左手と背に、朧げな光の粒が集まりだした。見る間に増した輝き とともに実体に転じたそれを、教経は力任せに引き絞った。


切斑(きりふ)の矢に重藤の弓……これはっ」


 感歎の声を漏らした泥舟に、教経は半身の姿勢で片目を瞑ってみせた。


「俺はこっちもイケる口でね。本にも書いてあったろ? えーと、確か『およそ能登守教経の』……」

「『矢先に回る者こそなかりけれ』……!」


 継いだ言葉を、迅雷と化した矢が撃ち抜いた。



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