9-2
午後六時五十七分。
朧がかった月の光に背を押されながらつばさが再び金網の扉をくぐると、一足先に待っていた彼女は、区画内に一本だけ設置された外灯から身体を離した。
「こんばんは、先輩」
これだけは初めて会った時から変わらない笑顔をつばさに向けて、千夏は前に歩み出た。
「今夜は月が明るくて良かったですね。ここ、明かり一つしかないのが心配だったんですよー」
歩きながらくるっとターンすると、首から下げたシルバーのアクセが跳ねてきらりと光った。派手では無いが明るい色調で揃えた千夏の私服姿は、制服に学校指定のカーディガンを羽織っただけのつばさとは対照的だった。
「ただ、変なギャラリーがいっぱいいるのは勘弁ですけどねー」
ここだけは嫌悪感を隠そうともせず、千夏は顔を巡らせてこの場を囲む観客たちを見渡した。
「いつもこんな感じよ」
落ち着いた声で千夏に応じながら彼らを見据えるつばさの視線も、やはり不快と軽蔑に満ちていた。
周囲の植え込み、土塀の上、図書館の屋上。ご丁寧に自分たちの手が届かないところに漂うネノクニの住人たちは、直接人に死をもたらす存在ではない。しかし印象としては舞子を殺しかけた死神そのものだし、陰気に過ぎる見た目だけでも生理的に受け付けられるものではなかった。
「手を出してはこないから、無視すればいいのよ。あなたたちが先に片づけてくれるなら、それも大歓迎だけどね」
「嫌ですよぉ。こっちだけ手の内バレバレになるじゃないですか」
口を尖らせた千夏はしばらく不機嫌そうな顔のままでいたが、不意につばさを見て相好を崩した。
「先輩ってば思ったより平気そうですねー。ちょっと拍子抜けしちゃいました」
「何の話?」
「あれ? まさか見てないとかないですよね、あたしからのメール」
「見たわよ。ああいうのもセクハラっていうんじゃないの?」
つばさは微笑みすらたたえて肩をすくめた。その顔が一変する。
「悪趣味ね、あなた」
ネノクニの住人に向けたものより遥かに軽蔑と嫌悪を帯びた視線に晒されても、千夏は満面の笑みを崩さなかった。
「シンリテキドーヨーを狙ってみようかなーって。でも、さっすが女王様はメンタル強いですね~」
「そんなことのために彼を巻き込んだの?」
「まっさかあ。それはさすがに失礼ってもんですよー、柊先輩?」
挑発の色を隠さない口調でおどけた千夏は、しかし一息つくと、一転して真剣そのものの眼差しでつばさを見つめた。
「あたしね、先輩。高代──晃輝先輩のことは、本当に本気なんです。本気であの人が欲しい。あたしの隣にいて欲しい。あたしのものになって欲しい。あれはただあたしがそう願った結果なんですよ」
千夏は一度言葉を切った。つばさが何も言わないの知って、再び口を開く。
「写真はまあ、イキオイ過ぎたかもですね。でも、今日までに晃輝先輩をオトさなきゃって条件は、いいモチベになりましたっ。やっぱりそういうの大切ですよね~」
軽い口調に戻って笑った千夏は、やがてその顔を頭上に振り向けた。図書館の屋上や宙に蠢く長衣の影たちではなく、ただ中天にぽっかりと浮かぶ月を見上げる。
「あたしがオトしたんじゃなくて、オトされてくれたのかな、とは思います。晃輝先輩ってば、ホントに優しいですもんね」
今日の月は十五夜ではないが、空で霞む朧月は満月とも見紛う佇まいで、優しく二人を照らしていた。
「でも、だからこそあたしは本気なんです。本気で晃輝先輩と一緒にこれからも生きていきたいって、そう思ってるんです。どこかの元カノさんとは違うんですよ、先輩」
再び自分に向けられた視線の前で、つばさは無言を貫いている。
千夏がくすっと笑った。
「先輩は怖いんでしょう? 先輩の中の人が負けることが。もう一回死ぬことが。大好きな人を哀しませることが。だから先輩は身を引いた。愛してるのに。──愛されてるのに。綺麗ですねー。立派ですねー。優しいですねー。そして……臆病者ですね」
千夏の口元は、挑発を超えて嘲りの形を取っていた。その前で、ようやくつばさの口が開く。
長い沈黙を解いた声は、この夜にふさわしい静謐さを備えていた。
「私が晃輝と別れた理由はね、私が覚悟を決めたから。それだけよ」
「……はあ?」
数秒後に声を上げた千夏は、説明を求めて両手を広げた。
「何ですか、それ? 覚悟? 何の覚悟ですか?」
「言う必要は無いわ」
すげなく返した後で、つばさは一つだけ付け加えた。
「ただ、そうね。あなたは持っていない覚悟でしょうね」
つばさの声に挑発や嘲りは感じられなかった。だからこそ、千夏の声は荒くなったのかもしれない。
「覚悟くらい、あたしだって持ってますっ。先輩や他の人たちを殺してでも生きる、最後まで生き延びて舞子や晃輝先輩と楽しく暮らす。それがあたしの覚悟ですっ」
「そうね。それも覚悟だわ」
短いつばさの言葉に、これまでに無い感情が入りこんだのを千夏は気付いただろうか。それは、羨望かもしれなかった。
「そう言い切れるあなたなら、違う未来があったかもしれない。だけど残念ね。あなたは最初に私と会ってしまった。だからもう、その未来は永遠に訪れない」
千夏の身に緊張が走った。そして、次のつばさの言葉で激昂した。
「だって、あなたはここで死ぬんだから」
「ふざけないでくれますか? ──処女のくせに!!」
千夏はポケットから携帯を引っぱり出した。大きく揺れたクマのぬいぐるみ、舞子からもらった宝物だというストラップを、空いた左手で握りしめる。
つばさは黙然と髪の毛に触れた。無機質な音とともに髪留めが外れ、長い髪が夜気にさらされて衣擦れのような音を立てた 。
もはや是非も無し。
急速に凝縮されていく殺気の中、二人は呼吸を計ったかのように同時に後ろに下がった。
つばさは髪留めを胸元で握りしめる。
千夏はストラップを前方に突き出した。
最後に生き残るのは──ただ一人。
「コール! お出でなさい、平教経!」
「主として命じる。あたしの敵を殺しなさい! 高橋泥舟!」
ほぼ同時に発せられた声が終わると、少女たちの身体は靄のような光に包まれた。
まばたき一つほどの時間で、その光は凝縮して人の形を取った。つばさの前方に顕れたのは、あの日に舞子を救った武者鎧の青年。対して千夏の身体を内に取りこむように重なって具現したのは、長槍を担ぎ腰に両刀を佩いた三十過ぎぐらいに見える袴姿の武士だった。
完全に実体化したのはほぼ同時。あるいはわずかに早かったのか、
「行くぜぇ!」
闘いへの意気と歓びに満ちた声で、青年が先手を取った。
鎧の重さを全く感じさせない速度で十メートル近い距離を詰めたのが一瞬なら、その抜刀はまさに刹那。鞘走るや否や唸りを上げて袴姿の頭上を襲った白刃は、しかし軌跡の半ばで激しい音とともに動きを止められた。
艶やかな赤鍔の豪刀を受け止めたのは、簡素な拵えの黒い長槍。その槍が間髪をいれずに風を巻いた。
「おおっと!」
槍を持つ無表情な袴姿の眉根がわずかに寄ったのは、青年が上げた声の軽さのせいか、それとも必中を期した三連の槍撃がことごとく空を切ったせいか。
最後に刀と槍が交わる鋭い音が再び大気を震わせたところで、二人の戦士はどちらからともなく後方へ飛んで、間合いを広げた。