9-1
約束の日の当日。約束の時まではあと数時間を残すのみという中で、
──いよいよ今夜か。
「そうね」
と返事をしたつばさが顔をしかめたのは、押し開いた簡素な金網製のドアが立てた耳障りな金属音のせいだった。図書館裏は立入禁止とされてはいるものの、申し訳程度の金網フェンスがあるだけでドアには施錠もされていないため、誰でもこうして簡単に入ることができる。
──あれから二週間で、またここに来るたぁ思わなかったな。
「そうね」
ちょうど二週間前の日曜日。あの日の夜は蒸し暑く、この場所に立っているだけで汗が出るほどだったことをつばさは覚えている。それ以外にも覚えていることは多いが、それらはどれも、好んで思い出したくはない記憶だった。
せめてもの救いは、昼間の今は雰囲気が全く異なることと、その時の痕跡は何も見当たらないことだった。そこかしこに足跡らしきものは残っているが、それが二週間前の自分たちがつけたものなのか、昨日まで屋上の検査と修繕に入っていた業者のものなのかは判別しようがない。
──罠とかそういうのは無さそうだな。
「そうね」
つばさが数時間も早くここに来た目的は会場の下見だった。場所を指定したのはつばさだが、日取りを決めたのが千夏の方である以上、罠の可能性はあるというのがつばさの見解だ。
あの千夏が深夜に忍びこんで穴を掘ったりワイヤーを張ったりするとは正直考えにくいが、文字通りバックについた戦国の謀将や忍者が策を献じる可能性はあるし、何より同じ立場にいる者として、命懸けになった女子高生の発想と行動力をつばさは一切軽んじてはいなかった。
──しかしまあ、この一週間はどうなることかと思ったけどよ。お前さんもあの嬢ちゃんも、まるでいつも通りだったなあ。
「……そうでもないでしょ」
つばさはこれまでとは違う答えを返した。別に何かのゲームをしていたわけでもない。
「私はともかく、溝口さんは少し変わったんじゃないかしら。おかげで騒ぎが落ち着いてきたもの」
──けど、あの嬢ちゃんも諦めたわけじゃねえんだろ? お前さんの彼氏のことはよ。
「元・彼氏よ。残念ながらね」
誰にとって残念なんだろう、などと考えながら、つばさはすぐ傍にそびえる図書館を見上げた。例の事故現場は屋上の反対側だが、今はこちらの面にもシートが敷かれ金属パイプの枠も組まれている。修繕工事は再来週までかかると、この前の委員会で先生が言っていた。
「あの事故もあったし、周りもさすがに飽きたようだし、溝口さんも前ほど大っぴらに晃輝とベタベタしてないし。沈静化も当然だけどね」
ただし、大っぴらではないだけで、晃輝へのアプローチを千夏がやめたのではないこともまた確かだった。千夏の動向と晃輝の反応はどうしても気になってしまう身として、つばさもそれとなく──心情的には熱心に──情報を追ってはいたが、沈静化どころか二人の仲はむしろ親密になってきているという疑惑すらあった。
──今夜の戦いに二人揃って来たらどうするよ? あたしたち付き合うことになりましたー、って。
「……喧嘩売ってる?」
──いや。今のは俺が悪かった。
はあ、とわざとらしいため息をその場に残して、つばさは回れ右をした。入ってきた扉をくぐってフェンスの外へ出ると、肩にかけたスポーツバッグから小さな封筒を取り出した。
──ん? 持ってきてたのかい、それ。
「図書館のシュレッダーにかけとこうと思って。念のため証拠隠滅ね」
指先に挟んでひらひら振ってみせた淡い緑色の封筒の中身は、舞子経由でつばさに渡された千夏からのメッセージカードだった。
週が明けて無事に登校してきた舞子から『私と千夏からのお礼です』ともらった菓子折りには、二通の小さな封筒が添えられていた。舞子の方は普通のお礼状だったが、千夏の方には今日の午後七時を指定する果たし状とも言えるカードが入っていたのだ。
──あの嬢ちゃんも、さすがに面と向かっては伝えにくかったのかねえ。
「そうね」
簡素な相槌を復活させたつばさは、千夏ではなく舞子のことを思い出していた。菓子折りを渡してくれた時、『ありがとうございました』と頭を下げてくれた時の、あの感謝と尊敬に輝く笑顔を。
今夜の決着がどういう形になっても、あの笑顔はもう二度と見られないかもしれないわね──というつばさの感慨は、ポケットから伝わる小刻みな振動によって打ち切られた。
ベルトの後ろに付けたある物を少し邪魔に感じつつ、バイブ三回でメールの着信を告げたスマホを取り出すと、つばさの眉がいぶかしげに寄った。そのままの表情できょろきょろと辺りを見回す。
──どした……って、ミゾグチチナツからのメールかい? あの嬢ちゃん、なんつータイミングで送ってくるんだよ。
「ええ。こっそりこっちを見てるのかと思ったわ」
つばさの指が動くと、届いたばかりのメールが表示された。差出人は間違いなく千夏で、タイトルは無し。添付の画像があるらしく、そのダウンロードに少し待たされる。
「メールは足がつくって言ったのに。あの子ったら何を考えて……」
──急ぎの用かねえ。もしくは風邪でもひいたか急に怖くなったか──って、おい?
いぶかしげな声がかかっても、つばさは固まったままだった。
──おい。こりゃあ……。
つばさと同じものを見たのか、頭の中の声も言葉を失った。それを合図としたかのように、つばさの身体がぐらりと大きく揺れた。傍のフェンスにぶつかって、それでも身体を支えきれずにずり落ちる。
──つばさ!?
「大丈夫よ……大丈夫」
大丈夫とは思えない声でそれだけを告げると、つばさは大きく息を吐いた。それでは足りずに、何度か深い呼吸を繰り返す。蒼白と化した顔には次第に生気が戻ってきたが、身体を起こす気力はまだ無いのだろう。つばさはフェンスに体重を預けたままで唇を皮肉げに歪めた。
「ちょっと驚いただけ。予想外だったからね」
いつの間にか手から滑り落ちていたスマホ。その画面から目を背けるかのように顔を上げると、つばさは震える声を喉から絞り出した。
「やってくれるじゃないの。溝口千夏……!」
地面から彼女を見上げる液晶画面。そこに映し出されているのは、『先輩もこっちは未経験ですよね』というメッセージ。
そして、どこかのホテルらしい部屋のベッドで筋肉質な身体をシーツにくるみ、無防備な寝顔を見せる裸の青年──高代晃輝の写真だった。