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7-4


「よーし、十分休憩ー。今日は暑いからちゃんと水分摂っておけよー」


 うぇーい、はーい先生ー、と男女入り混じった声が上がる中、豊橋舞子は両手で抱え上げたばかりの本の束を再び屋上の床に下ろした。

 委員たちの多くが図書館の中に降りていくのを横目で見ながら、壁際に置いた持参の水筒を取って蓋を開ける。

 屋上での作業にあたって水筒を持ち込んでおいたのは大正解だったが、一方で先輩たちのように体操着に着替えておかなかったのは失敗だったかもしれない。そんなことを考えながら、舞子は軽く浮いた額の汗を手の甲で拭った。


「ホント、捨てる本はあとで一階に下ろすのに、どうしてわざわざ屋上に集めるのかなあ」


 毎年の蔵書整理で多くの委員たちがこぼしてきた伝統ある愚痴を舞子も口にして、屋上の端へと歩み寄る。図書館は天井が高いため屋上は四階建ての校舎よりも上にあるが、下を見ても足がすくむほどでは無い。

 ちょうど吹いてくれた爽やかな風を頬に感じながら、しかし舞子はおよそ爽やかとは言えない重いため息をついた。


 おとといの図書館でやらかしてしまったことを思うと、どうにも気が晴れない。

 無二の親友と、尊敬する委員の先輩。その間での板挟み。このところずっと気を揉んでいた一大テーマとはいえ、それをよりにもよってあんな最悪な形で先輩にぶつけてしまうとは。


「先輩にも千夏にも、しばらくちゃんと顔合わせらんないよ~」


 目の前の手すりに手をかけて、舞子はさっきよりも深くため息をついた。あの時の柊先輩、つばさは最後に、


「あなたのせいでも溝口さんのせいでもないわ。気にしないで」


 と微笑んで話を終わらせてくれたが、顔面蒼白になるほどショックを受けた先輩──取り乱した後輩がいきなり『私のせいで親友が死にかけたんです!』などとカミングアウトしてきたらそれはショックを受けるだろう──の言葉を、はいそうですかと受け止めるわけにはいかない。

 加えて、千夏に断りもなく先輩にあんな話をしたこと自体がまずかったとも思う。あの事故は二人だけの秘密ではないが、好き好んで言いふらすことでもない。結果として親友の陰口をたたいてしまったという事実は、舞子の心を一層重くしていた。


「でもでも。千夏だって悪いんだからねっ、もう」


 そもそも別れたばかりの高代先輩に千夏が熱烈アタックなんか仕掛けるから、こんなことになったのだ。昔の千夏はもっと大人しくて気弱なぐらい奥手な子だったのに。でも、千夏を今のように変えてしまったのは、少なくともそのきっかけを作ったのは、やっぱり私なのかもしれない。だとすれば──と、思考の堂々巡りにハマりかけている自分に気付いて、舞子はぶるぶると首を振った。

 お茶でも飲んで気分を変えようと水筒を持ち上げた舞子は、右手を手すりから離した時に微かな違和感を覚えた。音なのか感触なのかはっきりしないそれが意識の中で具体的な形を取る前に、舞子は図書館に向けて裏庭を駆ける見知った少女の姿に気を取られた。


「千夏?」


 屋上からだと表情までははっきり見えないが、何かを捜して周りをきょろきょろと見渡しているのは間違いなく千夏だった。最初は高代先輩を捜しているのだろうと思ったが、それにしては何やら切羽詰まっているような様子だし、目を凝らせば表情にも必死さが浮かんでいる。

 訊いてみようかと口を開きかけて、舞子は一度ためらった。今は声を掛けづらい。でもどうしよう、と逡巡したのも束の間、千夏の方がこちらに顔を上げた。二人の目が合う。


「ちな──」

「舞子、逃げて!」


 遠慮がちな舞子の声は、親友の大声でかき消された。


「早くそこから、そいつらから!」

「え?」


 叫ぶ千夏に戸惑いながらも、舞子は急いで後ろを振り返った。舞子と同じく屋上に残った何人かの図書委員がくつろいでいるだけで、逃げるようなものは何も見当たらない。


「そいつらって誰? 何もいないよー?」


 向き直った舞子は、地上からこちらを見上げる千夏に向けて声を張ると、手すりに掛かる手にほんのわずかだけ力を込めた。

 ほんのわずか。そのはずなのに、手すりはグラリと大きく傾いた。


「え?」


 人の体重ぐらい軽く支えてくれるはずの手すりが、何の抵抗も見せずに向こう側へと倒れていく。舞子の身体とともに。


「え?」


 何が起きているのか理解できないまま呟いた舞子の視界に、十数メートル下の地面がゆっくりとパノラマのように広がっていく。

 その中心で、千夏が叫んでいた。


「舞子ーーーーっ!!」



 悲痛な叫び声を耳にした瞬間。つばさはここまで律儀に連れ添った台車を捨てて、図書館へ向かう最後の角を単身で駆け抜けた。

 まず目に入ったのは、屋上を見上げて走る千夏の背中。続いて、彼女の視線の先で屋上から垂れ下がる無惨に捻じ曲がった手すり。そこにかろうじて片手で掴まった宙に揺れる舞子の姿。そして、屋上やその上空に居並んで全てを見下ろしている灰色の長衣の影たち。


「くっ!」


 一瞬で全てを把握すると、つばさはスピードを上げて千夏の背を追った。


「なんとかしてよ! 出てきてよ! 舞子を助けてっ!!」


 誰に向けてか、泣き喚く千夏の懇願が響く中でも、つばさの思考は冷静だった。

 ぶら下がる舞子はあと何秒ももたないだろう。人の死に群がるというネノクニの住人たちがこれだけ集まっている以上、このまま落ちれば、舞子を待つ運命は死のみに違いない。しかし、千夏と自分の二人で受け止めれば、彼女を助けることぐらいはできるはずだ。あのひったくり事件の時、おそらくは犯人の包丁に刺されるはずだったお婆さんの運命を自分と晃輝の二人で変えられたように、今回だってきっと──


『無理無理、あんなの無理。落ちてきた人を軽々受け止めるとか、現実にはできっこないって!』


 つばさの脳裏に、不意に晃輝の笑顔が甦った。


『あの感動シーンであれをやっちゃ駄目だよなあ。ハリウッドやアニメじゃないんだからさ』


 あれは去年の冬、確か三回目のデートの時だった。

 外は寒いからと予定を変更して映画館に入ったものの、目ぼしい映画は特に無く、試しにと海外の恋愛ものを観てみた後、喫茶店で晃輝がいきなりクライマックスシーンのダメ出しを始めたのだ。

 意に沿わぬ結婚式から逃亡し、教会の屋根から飛び降りた花嫁衣装のヒロインを、迎えに来た主人公が見事に抱き止めたシーン。大げさのきらいはあってもハッピーエンドの演出としては悪くない、というのがつばさの感想だったが、晃輝に言わせれば『あそこでファンタジーを出してきちゃいかん』という話になるらしい。


『物理の授業でやっただろ? 高さ五メートルもあれば、子供だって何トンって重さに化けるんだよ。まして大人が教会の屋根からダイブしてきたら、あんなひょろひょろ男は間違いなく潰れて天国行きだ。この俺だって両腕骨折じゃすまないね』


 妙なプライドを最後に見せた晃輝に、自分がくすっと笑ったことをつばさは覚えている。

 結局その話は、


『晃輝は、私がウェディングドレスで飛び降りても受け止めてくれないのね?』


と拗ねてみたつばさに晃輝がしどろもどろになって終わったのだが、それでも彼は最後まで降参しなかった。


『とにかく! つばさはあんな高いとこから飛ぶのも受け止めるのも禁止っ。やるならハリウッドやアニメの世界でやるように。わかったな!』




「嫌ぁぁっ!!」


 千夏の絶叫も虚しく、力尽きた舞子の手がついに手すりから離れた。

 つばさは覚悟を決めた。

 ここはハリウッド映画でもアニメの中でもない。千夏と二人で舞子を受け止めたとしても、良くて大怪我、悪ければ三人全員が助からない結果になるだろう。

 しかし、つばさは舞子を無事に助けられる可能性を一つだけ知っていた。

 それを信じて、つばさは走る。

 舞子の落下点に。落ちてくる親友という名の死を受け止めようと両手を広げる、千夏の元に。


「お願いっ!」


 つばさは懸命に手を伸ばした。狭まる視界と圧縮される時間の中で、突き飛ばすという結果を生むためではなく、ただ千夏の身体に触れることを目的として。

 触れれば互いに『わかって』しまう。そして『変わって』しまう。

 それでもつばさはためらわない。彼女はもう覚悟を決めたから。

 指の先が触れた瞬間、身体を電流が駆け巡った。全身の毛が逆立つ感覚に身を震わせながら、つばさは叫んだ。


「お願い、ノリツネェ!!」


 真っ白にスパークした神経が、唐突に焼き切れて暗転した。かろうじて残った平衡感覚が、自分の身体が地面に向かって倒れる運命を伝えてきて──寸前、逞しい男の腕に受け止められた。


「ったく。無茶しすぎなんだよ、お前さんは」


 つばさは思った。

 いい声よね、と。

 頭の中では飽きるほど聴いている声なのに、こうして直接耳にした時は、いつも決まって同じ感想を抱いてしまうのが不思議だった。


「間に合った、の?」

「何とかな」


 つばさがいつの間にか閉じていたまぶたを開いて光を取り戻すと、片膝をついて屋上に鋭い眼差しを向けた精悍な若武者の横顔と、その右腕が胸に抱える舞子の姿が見えた。ぐったりしてはいるが、おそらくは気を失っているだけなのだろう。屋上にも目を向けてそこにいたネノクニの連中が全て姿を消していることも確かめたつばさは、もう安心ね、と胸中で呟いた。自然と笑みがこぼれおちる。


「どうした?」

「……カラアヤオドシ、だっけ。学校にその鎧姿はやっぱりミスマッチだなーって」

「わーるかったな」

「きゃっ」


 身体を支えてくれていた若武者の左腕がいきなり外れ、つばさは慌てて地面に両手をついた。大した高さでは無かったが、抗議の意味を込めて両手首をさする。


「痛ーい。ひどいわねー」

「ひどいのはお前さんの方だっての」


 意識の無い舞子をこちらはそっと地面に下ろすと、武者姿の青年は鎧が擦れ合う金属音とともに腰を上げ、無造作に頭を掻いた。籠手は着けているが兜は被っていない。


「相談も無くあんな賭けに出やがって。下手すりゃ俺が出てこれずに全員お陀仏で、ネノクニの奴らが大喜びだったんだぞ」


 見上げた屋上にあの長衣姿は一つも残っていない。いくつか見える人影は、崩れた手すりやこちらを見て騒いでいる図書委員たちのものだ。

 彼らが千年も昔の鎧武者を目にすれば別の大騒ぎが巻き起こるのは間違いないが、実体化してもなお『彼』が普通の人の目に映らないことは、今のつばさの知識の内だった。


「勝算はあったわ」


 つばさは青年と目を合わせた。もはや『普通の人』ではない自分の目を。


「実際、賭けには勝ったわけだし」

「もらえる副賞の方が問題だがな」


 『彼』の目線がちらっと横に流れる。つばさはそれを追わなかった。そこにもう一人の少女が横たわっていることは承知の上で、今は彼女を見るわけにはいかない理由がつばさにはあった。


「どうすんだ?」

「……何をよ」

「決まってんだろ。変な呼ばれ方した俺はもう引っこまなきゃなんねえが、カタをつける時間ぐらいはまだ残ってるぜ。──襲っちまうか?」


 重さの全く感じられない口調で訊かれて、つばさは一瞬驚いた後に真顔で考え込んだ。しかし、すぐに苦笑を浮かべて首を振る。


「やめとく。気分じゃないわ」

「そっか。ま、そうだと思ったよ」

「悪いわね」

「いいさ。それじゃ気をつけてな」


 こちらも頬に苦笑を刻んだ『彼』は、何気ない足取りで前に出た。ぽんっとつばさの頭に軽く手を乗せると、そのまま彼女の横を通り抜ける。

 つばさが振り返った時には、鎧姿は跡形も無く消え去っていた。


「──ありがと」


 短いが万感の想いを込めた言葉は、『彼』の耳に届いたのだろうか。それを確かめるよりも先に、つばさにはやらなければならないことがあった。


「豊橋さん」


 横たえられた舞子に呼び掛けてから軽く肩を揺すると、反応はすぐにあった。小さな呻き声とともにまぶたがゆっくりと上がっていくのを見て、つばさの口から安堵の息が漏れる。


「大丈夫そうね」

「……先輩? あたし……」

「身体、動かせる? 痛いところとか無い?」

「はい、大丈夫です。……手がちょっと痛いですけど」


 上体を起こした舞子の手を取ると、右の手のひらに擦り傷が出来ていた。手すりにしがみついていた時に作った赤い傷は痛々しかったが、今回はこの程度で済んだことを感謝すべきケースだろう。


「まずは保健室。それから病院ね」

「あたし……どうなったんです? あそこから落ちて、もうダメだって思ったのに……」


 意識とともに記憶と恐怖も甦ってきたのか。無惨に捻じ曲がった手すりを、血の気の引いた顔で見上げる舞子の声は震えていた。


「先輩が……助けてくれたんですか?」

「私だけじゃないけどね」


 舞子の手をさすりながらつばさは優しく微笑んだ。そこに苦笑が混ざってしまうのは誰がどうやって助けたのかをごまかすしかないからだが、その曖昧さは、舞子につばさとは別の人間の名を思い起こさせた。


「そうだ、千夏は? 先輩、あの子は……。千夏!?」


 舞子は弾かれたように立ち上がった。つばさを押しのけるようにして、もつれる足で横たわる親友の傍へと駆け寄っていく。つばさはそれを見なかった。見なければ、この胸に芽生えたばかりの感情も衝動も、全て消えてくれるかもしれない。そんな根拠の無い想いが、つばさの動きを止めていた。


「千夏、しっかりして! 千夏!?」

「溝口さんなら大丈夫。じきに目が醒めるわ」

「千夏、千夏ってば!」


 どこか虚ろなつばさの声など聞こえずに、舞子はひたすら親友の名を呼び続ける。そして、つばさが恐れていた瞬間が訪れた。


「……んっ……まい、こ?」

「千夏!」


 歓喜に彩られた舞子の声が届いた時。

 ああ、とつばさは空に向かって長い息を吐いた。

 見なくても駄目だった。声だけで、胸の中で渦を巻くこの呪われた想いは形を成してしまったのだ。


「舞子……落ちて、無事だったの? 何ともないの?」

「うん。ちょっとすりむいたけど、全然平気。先輩と千夏が助けてくれたんでしょ? ありがとう、千夏!」

「あたしは、何も……。だって、あの時は先輩が……先輩? ……せんぱい。柊、先輩……柊先輩!」

「私はここよ」

「!!」


 向けられた千夏の眼差しを、つばさは柔和な微笑みで受け止めていた。


 つばさは、これを自分たちに新しく刻まれた本能だと理解していた。

 例えれば、それは食事や睡眠と同じようなものかもしれない。人は四六時中それらを意識したり欲したりはしないが、食べ物や眠りの摂取が自らにとって命に関わるレベルで必要だということは、誰から教えられるでもなく文字通り本能的に知っている。

 そして、欠乏など何らかの要因でスイッチが入り、ひとたびそれらに対する飢えや欲求を意識してしまえば、人はその衝動と欲望から逃れることも抗うことも許されないのだ。それこそ、本能であるが故に。


「──目が醒めたのね、 溝口さん」


 つばさは、先ほどまでの動揺を欠片も感じさせない声で言った。

 もう目は逸らさない。逸らしたいとも思わなかった。

 それは千夏も同じなのか、じっとつばさの目を見つめたまま、出会った日にも見せたあの無邪気な笑みをつばさに向けて浮かべていた。


「ええ。あたし、目が醒めました。先輩のおかげですね」

「そう。それは良かったわ」


 つばさは作った笑顔をそのままに、視線をわずかに動かした。千夏の傍らでは、舞子がこちらは正真正銘の笑顔をたたえて千夏とつばさを見つめている。

 彼女の命を救えただけでも自分の選択は間違っていなかった。今さらながらにつばさはそう思う。せめてそれだけでも信じていたかった。


「大きな怪我は無さそうだけど、豊橋さんは病院で診てもらわなきゃね。私たちのことはその後でいいかしら」

「──そうですね。わかりました」


 千夏は立ち上がった。制服についたほこりを軽くはたくと、隣で見つめる舞子に笑いかけた。それからもう一度、つばさの方に向き直る。


「じゃあ、今はひとつだけ」



 互いに触れることで、彼女たちは理解する。自分たちが『同類』だということを。

 同時に彼女たちは変化する。新しく刻まれた本能が生み出す、それまでの感情など全て塗り潰してしまう衝動に否応なく従わなければならない存在へと。

 だから、今のつばさは思うのだ。狂おしいほどに思うのだ。自分の『同類』を、目の前の相手を、生きるために殺さなければならないということを。

 いや──違う。


「舞子を助けてくれて、ありがとうございました! 先輩!」


 ぺこりと頭を下げた千夏を前に、つばさは笑顔の中でただ一つのことを思っていた。


 ただどうしようもなく、彼女を『殺したい』──と。



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