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7-3


 逆光気味の視界の中。カズアキの背後から手首の逆を取り涼しい顔で動きを封じた彼女の救世主が誰かを知って、千夏が声を上げた。


「柊先輩!?」


 その名を聴いて、苦痛に悶える男の足掻きがぴたりと止まった。


「じょ、『女王』……?」


 一体自分は下級生たちの間でどう思われているのだろう。男の震えた声と肩越しに振り向く怯えた顔につばさは天を仰ぎたくなったが、そこは自制して微笑みを見せるにとどめた。


「ごめんなさい。ここ、通ってもいいかしら? 図書委員の仕事でちょっと急いでるの」


 一呼吸置いてもう一度「ごめんなさいね」と付け加えてから、つばさはカズアキの手首を解放した。二、三歩前に泳いだカズアキは、すぐに振り返ると何度かつばさと千夏の間で目線を往復させていたが、


「お、おう」


 とだけ言い残して、あとは後ろも見ずにそそくさと去って行った。


「……覚えてろ、とか言わなかっただけまだマシかしらね」

「え? ……あ、はい」


 何とか返事をした千夏の前をつばさが横切った。


「溝口さん、怪我は?」

「無いです。多分、全然」

「そう。良かった」


 つばさはひとつ頷いて身をかがめると、いつの間にか壁際まで追いやられていた千夏の携帯を拾い上げた。騒ぎの最後にカズアキが蹴飛ばしたのだろう。本体とクマさんストラップについた土ぼこりを軽く払ってあげてから、立ちあがったばかりの千夏に差し出した。


「はい」

「あっ……」


 受け取ろうと伸ばした千夏の手が、途中で不自然に止まった。

 つばさの手は、携帯とストラップをまとめて下から包むように持っている。このまま千夏が受け取ろうとすれば、つばさの手に触れてしまうことはまず避けられない。

 つばさの頭の中に、数分前の『彼』の言葉が甦った。


──ただのトラウマって線は無いのかね?


 その線ならいいんだけどね、と胸中で呟いてから、


「はい」


 つばさはくるりと持ち手を反転させ、ストラップを指でつまんでぶら下げた。ブラブラと揺れる携帯が、今度こそ無事に持ち主の手のひらに着地する。


「ありがとうございます」


 お礼とともに安堵の息を吐いた千夏が、受け取った物を大事そうに胸元で握りしめた。携帯ではなくクマさんストラップの方を。ふと、つばさは自分のつけている髪留めを意識した。


「大切なものなの?」


 千夏は手の中のクマさんを指で撫でながら、素直に頷いた。


「昔、親友がくれたプレゼントなんです。その子だけは子供の頃からずっと友達で……あたしの宝物ですね」

「親友って、豊橋さんのこと?」


 千夏はびっくりして顔を上げたものの、目の前の先輩が親友と同じ図書委員だと思い出したらしい。すぐに笑顔になった。


「舞子、しっかりやってます? あの子ってば結構そそっかしいから」

「頑張ってくれてるわ。今も図書館で本の仕分けの真っ最中のはずよ」


 と言ってから、つばさは置きっぱなしの台車を一度振り返った。その顔を戻すと、立てた人差し指を自分に向けて、


「押しつけてサボってるわけじゃないのよ?」

「わかってますよ~」


 くすくすと笑った千夏は、しかしその笑いが収まると、うって変わって翳りのある表情を見せた。


「さっきの話、聞こえちゃった……ですよね」

「そうね。最後の方だけはね」

「……軽蔑、しました?」

「何を?」


 と訊き返した途端に千夏が驚いた顔を向けてきて、むしろつばさの方が驚いた。


「だって、あの、あたし、高代先輩と! 柊先輩にも、周りの人にだっていろいろと……。なのにカズアキがあんなっ……それで、そのっ。あたし……」


 言葉が出てこないのかまとまらないのか。支離滅裂のままフェードアウトしてしまった千夏の後を引き継ぐように、


「軽蔑ねえ。その発想は無かったかな」


 つばさは思ったことをそのまま口にした。

 なるほど、置かれた状況が違えば、つばさの立場からはそういう発想も出てきたかもしれないと思う。しかし、今の千夏に対しては他の感心事が強すぎてそれどころではない、というのが正直なところだった。


「ただ、そうね。豊橋さんは心配してたわ。あなたが──」


 つばさはそこで言葉を切った。慎重に言葉を選び直してから、改めて声に乗せる。


「最近、無理してるんじゃないかって」


 千夏の反応をつばさはいくつか予想して、それらは全て外れた。二、三回まばたきをした千夏は、やがて微笑みを浮かべたのだ。つばさが思わずどきりとしてしまうような、そんな柔らかい笑みを。


「先輩は、優しいんですね」

「? 私が?」

「はい、とっても」


 千夏は笑顔のままで頷いた。


「あたし、舞子にはちょっと怒られたんです。千夏は好き勝手しすぎてるって。楽しむんだー楽しまなきゃーって自分のことばっかで周りを振り回して、そのせいで柊先輩も高代先輩も迷惑してるはずだって」


 千夏は目線を手元に落とした。握ったままのクマさんの頭を、親指の腹で軽く撫でる。


「舞子の言うとおり、ですよね」

「……私のことは、気にしなくていいけど」


 つばさはふと気が付いた。無意識のうちに髪留めに触れようと上がりかけていた左手を止めて、念のため右手を添えて押さえつけておく。


「高代くんはどうなのかしら。彼に迷惑かけてるならちょっと……とは私も思うけどね」

「高代先輩も、優しいですから」


 千夏の笑顔が少し変わった。どう変わったかと訊かれるとつばさも困ってしまうような、ほんの少しだけの変化。


「最初はイケメンだからとか、そんな軽い気持ちだったんです。でも、アタックしてるうちに、いつの間にかどんどん好きになってくのが自分でもわかって。迷惑なはずなのにあたしのことちゃんと相手してくれて。あたしも、迷惑だってわかってても、舞子に怒られても、それでも気持ちが抑えられなくて。……抑えたくなくて。それで──」

「嫌いじゃないわよ、そういうの」


 翳った笑顔から驚きに戻った千夏の顔に、つばさは軽く肩をすくめた。


「あなたのこともね。まあ、いきなり彼に抱きついた時は何よこの子って思ったし、もうちょっと空気読んでくれないかなーって思わなくもないし、私の周りがなかなか落ち着いてくれないのもあなたのせいじゃないかって、そんな気もするわけだけど」


 その上、実は元じゃなくて現役の恋敵だし、ひょっとしたら不倶戴天の『同類』かもしれないし──という点は口に出せなかったが、それでも。


「それでも、あなたを嫌いにはなれないの。困ったことにね」


 つばさの右手は、もう左手を押さえてはいなかった。


「……かなわないなぁ」


 ぽつりと漏らした千夏の言葉を聴きとれず、つばさが問い直そうかと迷った時、


「あたしも先輩のこと、嫌いじゃないですよ」


 千夏の顔が、三たび笑顔になった。


「最近、ちょっとずつ高代先輩とお話できるようになって、あたしわかったんです。高代先輩、まだ柊先輩のことが大好きで忘れられないんですよ」

「そうでしょうね。──って、うぬぼれてるかしら?」

「いえ」


 迷いなく首を振った千夏は、


「でも、だからあたしにはわからないんです。高代先輩と話しても、こうして柊先輩とお話してても」


 千夏は、つばさの目と合わせていた視線を、ほんのわずかだけ上にずらした。そこにあるつばさの髪留めについて、晃輝から何かの話を教えてもらっているのかもしれない。


「柊先輩。先輩は、どうして高代先輩のことを──」


 奇妙な間が空いた。

 質問の答えを待つのでも、気をもたせるためでもない、駐車場の時とも似て非なる沈黙が流れること、数秒。


「あの、先輩っ」

「ええ」

「えっと、今日はホントにいろいろとありがとうございました。また話せたら嬉しいなって思いますけど、あたし、今日はこれで失礼しますね」

「そうね。それじゃ」

「はい。それじゃ、またっ」


 彼女の癖なのか、最初に会った時と同じくぺこりと深くお辞儀すると、千夏はいきなり慌ただしく駆け出した。教室方面でも晃輝がいる運動部の部室棟方面でもなく、裏庭に繋がる校舎裏方面へと。そこからつばさの目指す図書館へも行けるルートだが、少し遠回りになるのでその目的で使う生徒はあまりいない。

 校舎沿いに走っていく千夏の姿を、つばさはしばらくその場で見送っていたが、


「んっ」


 千夏の影が校舎の角に消えた瞬間、身を翻して台車の元に駆け戻ると、すぐさま全力で押して走り始めた。


「見たわね?」


 つばさが疑問形の独り言をぶつける相手は一人しかいない。返事はすぐにあった。


──ああ、見たよ。

「今回はマズいパターンね?」

──だろーな。ったく、さっきの夢が予知夢になるたぁ思わなかったぜ。


 つい先ほど視界の先を通り過ぎて行った、何体もの忌まわしい長衣姿を思い出したのか。『彼』は嫌悪感もあらわに毒づいた。


──ひったくりの時と同じだよ。ネノクニの奴らがまとめてお急ぎときてやがる。放っときゃじきにそこで誰かが──

「死ぬのね」


 校舎を抜けて駐車場に踏み込んだ台車が手元で暴れ、つばさの顔をしかめさせた。ここのアスファルトは状態があまりよろしくない。


──しかし、お前さんもご立派だよなあ。


 からかうような物言いとは裏腹に、『彼』の口調には真剣味と気遣いが溢れていた。


──こんなのはお前さんの義務でもお役目でもねえ。お前さん言うところの新しい本能とも違うはずだ。なのに無関係を決め込まねえんだから、頭が下がるよ。


「他人のを見るのも嫌ってだけよ、経験者としては」


 つばさは足を緩めずに駐車場の中を右に曲がった。半ばドリフトのような動きで台車が直角コーナーをクリアする。


「それに裏庭は図書館もある。無関係とは限らないわ」

──まあな。


 と首肯したところで『彼』は一旦口をつぐんだが、すぐにまた、なあ、という呼び掛けがつばさに届いた。


「なに?」

──さっきのミゾグチチナツ。あの子が走ってったのもお前さんと同じ理由かね?

「…………」


 つばさは答えない。

 小石にでも乗りあげたのか、つばさの押す台車がアスファルトの上で激しく揺れた。



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