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7-2


 右斜め後方、そんなに離れてない──と判断して振り向いた目に映ったのは、校舎脇に積まれた短いブロック塀だった。その向こう側、昔は焼却炉があったらしい一角が声の出どころだと当たりをつける。裏付けはすぐに取れた。


「放課後も週末も、ここんとこずっとアイツにべったりじゃねーか! つきあってもねえ奴に何やってんだよお前!」


 怒りと苛立ちで作られた声が終わると、少しの間を置いて、口喧嘩の相手らしい不機嫌な声が聞こえてきた。


「だからー。カズアキには関係無いって言ってるじゃん」


 溝口千夏の、声だ。

 一週間前に初めて会った、元気で明るくてどこかとらえどころの無い下級生。

 図書委員の豊橋舞子とは親友で、この夏に海で溺れて以来、性格が変わってしまったという少女。

 つばさとは晃輝を巡る恋敵で、そして『同類』かもしれない相手。

 最初の大声が聞こえた時から予想はしていて、その予想通りの相手だったにも関わらず、つばさはその場で硬直した。

 千夏の声はさらに続く。『負けませんからね!』と笑ったあの時と同じ、しかし感情面では正反対と言ってもいい、千夏の声が。


「あたしはあたしが楽しいことをやってるの。今は高代先輩に好きになってもらえるよう頑張ることが楽しいの。あたし、カズアキにだってちゃんと話したよね。どうしてわかんないかなー?」

「少しは俺のことも考えろつってんだ! ずっと放置で、やっと話せりゃアイツのことばっかって、俺を何だと思ってんだよ!」

「ちょっとちょっとー。あたしをフタマタみたいに言わないでくれる? あたしたちは付き合ってないって、楽しく遊ぼうコンビだって、そこはカズアキもわかってるって言ったよねー?」


 カズアキ、というのが相手の男なのだろう。つばさは軽い自己嫌悪を覚えながらも、痴話喧嘩の現場方面へと台車を残して忍び寄った。

 千夏が高代晃輝に言い寄るのを何とか止めたいらしいカズアキと、あくまで関係無いと突っぱねる千夏との話は、しばらくそのまま平行線を辿っていたが、


「あーもう! 全っ然、楽しくない!!」


 業を煮やした千夏は、激しく身を震わせて、ニキビ痕が目立つ男の顔を睨みつけた。


「ケンジくんや佳奈はあたしを応援してくれてるし、舞子だって──舞子は、ちょっとそうじゃないとこあるかもだけど、それでも見守ってくれてるし! なのにどうしてカズアキだけこうなっちゃうわけ? おかしいじゃん!」

「な、なんだよそれ。俺が悪いのかよ!?」

「今はカンケー無い人たちからも睨まれたりイヤミ言われたりで大変なのにさ、カズアキまでそっち側だなんて悪いに決まってんじゃんっ。もうゲンメツなんですけどー?」

「ゲンメツ……そりゃ俺の台詞だろーが! 俺の方こそ幻滅だよ!」

「ふーん。じゃ、しょーがないよね」


 千夏はむしろ嬉しそうに、ポンッと胸の前で手を叩いた。


「楽しく遊ぼうコンビがどっちもゲンメツじゃ、コンビ解消待ったなしだよねー。ホントーに短い間だったけど、お世話になりましたっ♪」

「なっ……!?」


 目を剥いたカズアキがそれでも何か言おうと口を開きかけた時、タイミングが良いのか悪いのか、千夏の携帯が小気味良い着信音を響かせた。


「高代先輩!?」


 喜色満面、いそいそと大きなストラップ付きの携帯を取り出した千夏だったが、


「なーんだ、迷惑系かあ」


 と口を尖らせたところで、表示されている時刻に気が付いた。


「えーっ、もうこんな時間!?  先輩の部活終わっちゃうじゃん! とゆーわけだから、バイバイ、カズアキ~」

「待ちやがれ!」


 憤った男の声には腕の動きがついてきた。小さな悲鳴に続いて、肩を掴まれた千夏の手から携帯が滑り落ち、コンクリートの上で乾いた音を立てた。


「ちょっ、何するの!? 離してよ!」

「うっせえ! 馬鹿にしてんじゃねえぞ、二学期デビューしただけの根暗なオドオド女が!」


 千夏の動きが止まった。

 自分を見上げる少女の表情に、してやったりとでも思ったのか。次に流れたカズアキの声はすっかり余裕を取り戻していた。


「おいおい。まさか俺が知らなかったとでも思ってんのか? こっちはよーく覚えてんだぜ。一学期に廊下で俺にぶつかって、こけて派手にプリント撒き散らしてたドジで地味な女のことをよ」


 別に秘密ではない以上、以前の千夏のことも彼女の二学期デビューも、誰が知っていても不思議ではない。しかし、前に佳奈が言っていたように『今の千夏がしっくりきてる』せいか、学校中の口に彼女の名前が上るようになった今も、殊更にそれを取り上げたりあげつらったりする声は、千夏の耳に届いていなかった。

 ましてや、この一ヶ月間、楽しく遊ぶ仲だった相手が、昔の千夏を知っていると口にするとは──


「ま、俺を覚えてなくても無理ねえか。ちょっと睨んだだけで目ぇ逸らして、泣きそうな顔で謝るだけだったもんな、お前」


 千夏は何も答えない。その分、カズアキの舌は滑らかに回った。


「あの根暗なオドオド女が、よく化けたもんだよなあ。何なら俺があの先輩に、お前の華麗なイメチェンビフォーアフターを説明しといてやろうか? ま、んなことしなくたって、あの先輩は学校イチの有名人だ。とっくに思ってるだろうさ。イタイ女が迷惑かけんな、身の程わきまえろ、ってな」


 そのドジで根暗でオドオドした二学期デビューのイタイ女に、自ら言い寄って熱を上げまくったのは誰なのか。自分のことを完全に棚に上げたカズアキの薄ら笑いを前に、千夏は目を伏せて黙りこんでいたが、


「……生まれ変わったんだ。あたしは……」

「あぁ?」


 小声の呟きが聴きとれずに、カズアキが眉をひそめた直後、千夏の顔が上がった。毅然とした瞳が男の目と正面からぶつかり、圧倒した。


「化けたとかイメチェンとかじゃない! あたしは生まれ変わったの! もう昔みたいな、アンタを見返すこともできない情けないあたしじゃない! 高代先輩だって、アンタとは違うんだから! フラれたからってネチネチ相手のことディスるような男とは、もう全っ然違うんだからねっ!」

「て、テメェ!」


 逆上したカズアキが、両手で千夏を押さえつけようとする。千夏もそれに抵抗した。

 揉み合う中で、千夏の靴が自分の携帯に当たった。思わず下がった分だけカズアキの足が前に出て、携帯のすぐ横で横たわるストラップを踏んだ。小さなぬいぐるみのクマが、無残にも踏み潰される。

 千夏の顔色が一変した。


「なにすんのよ、バカ!!」


 悲鳴に近い千夏の叫び声とともに、激しく頬を張られたカズアキがよろめいた。その身体を押しのけるようにして地面の携帯に手を伸ばした千夏に、


「ざけんな!!」


 激昂とともに振られた腕は肩をかすめただけだが、小柄な少女のバランスを崩して尻もちをつかせるには充分だった。さらに頭上で振り上げられた拳の影に、思わず目を閉じた千夏が身をこわばらせた時、


「はい、そこまで」

「痛えぇっっ!!」


 突然響いた、澄んだ声と苦痛の叫びのハーモニー。千夏は驚いて目を開いた。



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