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柊つばさは、高代晃輝のことをよく知っていた。
つき合い始めてまだ一年にも満たないけれど、きっと彼のことなら他の誰よりも理解しているとまで思っていた。
だから。
その言葉をつばさに告げられた彼が、一瞬ぽかんとしたことも。
目をしばたたかせながら、数秒かかってようやく意味を理解したことも。
その後で、ほんの少しだけ左右不揃いな眉を寄せると、冗談か本気かの確認フェーズはすっとばして、
「どういうことだよ」
と冷静に、ただし苛立ちを隠しきれていない声で問い返してきたことも。
すべてが、彼女にとっては想定の範囲内だった。
ただ一つだけ彼女が予想できなかったのは、いざ実際にそんな彼を目の当たりにした自分自身の胸に沸き起こった感情、あまりに激しく制御しきれそうにない、そのうねりの大きさだった。
それでも。
「どうって、言った通りよ」
やっとの思いで絞り出した自分の声は、意外なほど震えてはいなかった。その事実が、つばさに事前のシミュレーション通りのやりとりを続ける勇気をくれる。うつむき加減の顔を少し上げて、彼と目を合わせる──ことこそできなかったが、目を閉じて逃げることだけはすまいと決めて、口を開く。
覚悟なら、とうに決めてきたはずなのだから。
「私たち、もう別れましょう。──この言葉の意味がわからないなんて、いくらなんでも言わないわよね?」
見かけ上は平然と言い切ったつばさの背で、制服をもたせかけた校舎裏のフェンスが軋んだ。腰の後ろで網目状の針金を握る手は、彼女の声の代わりに細かく震えている。
「……わからねえよ」
正面からつばさを見つめる目はそのままに、高代晃輝はゆっくりと首を横に振った。
まさに青天の霹靂なタイミングで別れを切り出した恋人を前に、何とか気持ちを落ち着かせようとしたのか。これもゆっくりと息を吐いて、
「そんな話、わかるわけねえだろ!」
果たせず激昂した晃輝は、大声を上げた。
「いきなり何言ってんだよ、つばさ! 日曜の映画と水族館、お前も楽しみにしてたじゃねえか! 今度の大会だって遠いけど応援に行くって! だから俺も頑張らなきゃって、いいとこ見せなきゃって、それで……なのに何でだよ!? どうしていきなりこうなるんだよ? 意味わかんねえだろ、つばさ!」
「いきなり……か」
つばさは背に回していた左手をフェンスから解放し、お気に入りの髪留めに指先で触れた。
「まあそうよね。あなたにとっては、いきなりで意味わかんないことなんだよね。何でこういうことになったのか、理由も検討つかないんだよね」
指をしばらく髪留めのところで遊ばせながら独り言のようにそう言うと、さらりと黒髪を撫でつけた。指先に残った数本の髪は、手を一振りして払いのける。
「理解してほしいわね。あなたのそんなお気楽さが、まさに理由の一つだって」
つばさの口元を苦笑がかすめた。
演技ではない。我ながらなんとまあ無茶苦茶で強引で筋が通らない言い分だろう、と呆れてしまったのだ。これが、常々口癖のように「物事は筋を通さないとダメよ」と晃輝に口うるさくしていた人間のセリフだろうか。
それでも、今の苦笑が『理解の悪い彼氏に対する憐憫と軽蔑の冷笑』に見えてくれれば良いと思い、取り繕うような真似はせずにつばさは言葉を続けた。
「私の話は終わりよ。あとは一人でよく考え──」
「つばさ!!」
フェンスから離した両肩を、いきなり掴まれた。
身体に染みついた反応で思わず撥ねのけようとした手を、つばさは意志の力で押し止めた。つばさの目の前では、これまで見たことのない色を帯びた晃輝の瞳が揺れている。
「俺は……つばさ、俺は……」
「……離して。痛いわ」
つばさが目を逸らすと、すぐに晃輝の手は離れた。
それでも鈍い痛みは残った。肩ではなく、胸の奥に。
「わかったわ。これは言うつもりなかったけど、教えてあげる」
先ほどのように左手で髪留めを触ると、つばさは目を閉じた。これ以上言いたくもない言葉を続けるには、もうそうするしかなかった。
「私、あなたに飽きたの。冷めちゃったのよ。あなたを好きだって感じてたのは一過性の熱病みたいなもので、最近はもう惰性だったって気付いちゃったの。そしたら、あなたのいろんなところが鼻につくようになって、我慢できなくなったってわけ。それだけよ」
「嘘だ」
間髪を入れない晃輝の反応に、つばさは一瞬息を止めた。それから、苦笑した。今度は心の中だけで。
ええ、嘘よ。嘘に決まってるじゃない。
私がそんなことで、あなたから離れられるわけないでしょう?
「嘘って、うぬぼれてるのね」
「違う。うぬぼれとかじゃない。お前はそんな事を言うやつじゃないって言ってんだ。──なあ、何があったんだよ。何を無理してんだよ。何か事情があるなら俺だって力になるから、だから教えてくれよ、つばさ!」
「……やっぱり、うぬぼれてるわね。がっかりよ、晃輝」
つばさは芝居がかった様子で肩をすくめてみせた。
演劇部に入るほどではないが、もともと演じることは嫌いではない。一年前、二人でクラスの演劇に出た時は互いの大根役者っぷりに口喧嘩を繰り返したものだが、今回の演技はあの時ほどひどくはないはずだ。
それでも、滑稽な芝居を熱演する自分をどこか冷めた目で見つめるもう一人の自分が、このままではばれてしまうと警告を発してくる。いや、いっそばれてしまえばいい、そうなってくれればいい、と半ばやけになりつつ、つばさは改めてフェンスから身を起こした。
「いいお友達でいましょう、なんて言わないわ。軽蔑してもらってもかまわない。私もあなたのことはもう考えたくないしね」
「つばさ!」
再びこちらに伸びた晃輝の手を、今度は触れさせもせずに半身で躱す。フェンスに手をついた晃輝の傍をすり抜けると、つばさはそのままスタスタと歩き出した。
「つばさっ……」
「情けない声出さないで。そうね、私はずっと──」
足を止めたつばさは、肩越しに一度だけ振り返った。
「あなたのそういう女々しくてしつこいところは、大嫌いだったの」
いいえ、むしろ好きだったわ。どんなことでも自分が納得するまで引きさがったり諦めたりしない、あなたのひたむきなところがね。
そして何より──いつも生意気で偉そうであなたを困らせてばかりの嫌な子で、最後にはこんな酷いことまでする私を、好きだって言ってくれたところが大好きだったの。
「さよなら」
ごめんね、こんなことしか言えない私で。
ありがとう、こんな私を好きになってくれて。
自分の言葉と相反する心。つばさは身を引き裂かれそうになりながら、逃げるような早足でその場から立ち去った。
スカーレット・オハラのようには、いかないわね。
図書委員になった頃に読んだ本の主人公と自分を重ねて、つばさは胸の中で独りごちた。
傍目には颯爽と歩いているように見えるその足は、実は情けないぐらいに震え、思うように力が入らない。それでもただひたすらに目的も無く歩き続けていると、
──なあ。いいのかよ?
突然、つばさの脳裏に声が響いた。
先ほどまでの心の声ではない。つばさの頭の中に直接聴こえてくる他人の声だ。
──なあ?
黙ってて、と念じてから、それでは相手に届かないと今さらのように気が付く。
「口を出さないで。そう言ったでしょ?」
つばさは小声を出して頭の中の声に応えた。
思ったことが全部筒抜けになるよりはマシにしても、向こうは直接頭に響くのにどうしてこっちはしゃべらなきゃいけないのよ、という想いは何度繰り返しても消えない。何より少し軽い感じがするその声は、今のつばさの癇に障った。
──だってよ、こんなのあんまりすぎじゃねーか。あのタカシロコーキも、お前さん自身もよ。
「…………」
無視を決め込むついでに歩くスピードを上げてみるが、頭の中の声は振り切られてくれない。
──戦さ場に男と女の話は持ち込まねえ。その考えは嫌いじゃないぜ。俺も昔は文句言った口だしな。けど、今はそんな時代でもねえんだろ?
「……黙ってて」
お願いだから。今は一人にしておいて。
──いやぁ、今度ばかりは黙ってらんねえな。こちとら、好き合った男と女が最後は幸せに暮らしましたーで終わる話を楽しみにしてたんだ。それがこんな展開とくりゃ、口の一つも挟みたくなるってもんさ。
「あなたに私の──私たちの何がわかるっていうのよ」
──わかるさ。どっちも未練たらたらなんだろ? 大体、お前さんが俺の呼びかけに応えたのだって、何よりあいつの──
「うるさいっ!!」
いつの間にか、つばさの足は止まっていた。
校舎裏から中庭に差し掛かった花壇の傍。少し離れた連絡通路からは、何人かの女生徒が驚いた顔をこちらに向けている。
スマホを出して電話の振りをしようかと頭をよぎったのも一瞬、馬鹿馬鹿しいと自分で一笑に付して、つばさは再び歩き始めた。幸か不幸か、あの声はもう彼女に語りかけてはこなかった。
情けないわね、柊つばさ。覚悟を決めたって言ったくせに。
どうしようもないじゃない。引き返すことは、それだけはもうできないんだから。
諸行無常──そんな言葉が脳裏に浮かんで、消えた。
ふと、つばさは右手の指を頬に添えた。
そこに雨を感じた気がしたのだが、見上げた校舎の上に広がっているのは、一片の白も混ざらない、抜けるような九月末の青空だけだった。