僕の望み
夢を見た。
――……は、一端!
母の怒鳴り声に、僕は目を覚ますのだ。
――早く起きなさい。もう■■■■■起きてるよ。
不機嫌そうな母の声。一部聞き取れなかったが、何故かとても懐かしく感じた。
――……わかったよ。
母の出ていった部屋で一人僕は返事をし、のそのそと動き出した。
――僕は僕なんだから、
誰に言うでもなく。
夢の中の僕は呟いた。
――他人と比べたりするなよな。
***
久しぶりに起きても夢の内容を覚えていた。驚くほど鮮明に。
あれは一体なんだったのか。
(あれが、僕の日常だ)
僕は何故かそんな気がした。
……そうだ。
僕は母の怒鳴り声に起こされて、起きて早々文句を聞く。
「『少しはお姉ちゃんを見習いなさい』……」
自然とそんな言葉が口から零れた。記憶にはないけれど、どこか聞き覚えのある台詞。
(お姉ちゃん?)
なんとなく思い出せそうなのだが、霧がかかってしまってはっきりと思い出せない。
「そうだ、あの写真!」
僕はこの前見つけたアルバムを開いた。僕はこの時、あることに気づいた。
(このアルバム、父さんが写っている写真が一枚もない)
写真の中の僕よりも少し背の高い、輪郭が曖昧な人影。その人影の輪郭が、前よりも少しだけはっきりしているように感じた。
(見覚えがある……この人は、僕の姉だ)
そう思った時、意識がふっと消えた。
***
気が付いたら、僕は其処に居た。
何もなく、とても曖昧な空間。
しかし。
(僕は此処を知っている)
僕の意識ははっきりしていた。此処へは、夢で何度も来たことがある。
「ようやく思い出した? よかったね、お兄ちゃん。もう少し遅ければ、私は此処を離れるつもりだった」
ふと声のした方を振り向くと、一人の女性が立っていた。緑色の髪をばさばさに二つに縛り、右側の前髪を上げている。瞳は透き通るような銀で、温かさを感じられない。
「貴女とは、何度か会ったことがあります」
彼女は例の不思議ちゃんだ。しかし、前会った時のような子供ではなく、今の彼女は大人になっていた。
「そう。私は貴方と幾度も会っているよ。貴方の願いを聞いてあげたの」
「僕の願い?」
彼女は表情一つ変えずにつづける。
「そう、貴方の願い。自分でいたいという願い。それを叶えるために、貴方のお姉さんには消えてもらった。そして貴方の願いは叶ったんだよ。比べられる相手が消えて、貴方は貴方として認められるようになった」
家で母が起こしに来なくなったこと。学校で百塚君たちと過ごす時間が多くなったこと。
それらはすべて僕が望んでいたことで、僕の姉が消えたことによって叶えられたことだというのか。
彼女は続けた。
「でも貴方は、嬉しいと思ってない。大嫌いだったあなたのお姉さんは消えて、貴方は貴方になれたのに。比べられることもなくなって、友達もできて……以前の貴方が望んでいたことが叶っているんだよ? それなのに何故、嬉しくないの?」
何故嬉しくないかって?
それは、あれが僕の日常ではないからだ。
どこかで常に違和感を抱いていた。常に自分の記憶に自信が持てなかった。頭の中に靄がかかったまま。そんな風で、自分の満足のいく生活なんてできるわけがないじゃないか。
「それなら、以前の生活に戻りたい?」
反論を口に出していないのに、彼女は僕にそう訊いてきた。まるで僕の考えていたことをすべて把握しているかのようだ。
「以前のあの、他人と比べられる日々に戻りたい? クラスで周りと馴染めずにいた過去に戻りたい? 貴方の今の望みは何?」
「僕の、望み……」
「そう、貴方の望み。貴方が何を『本当』にしたいのか。現実に何を求むのか。私は貴方にもう言ってある。『大切なもの、返してほしければ、私に言って』と。貴方は私になんて言う? 大切なものを返してほしい? それとも新たなものを望むのかしら。……さあ、答えて!」
休む間もなくつらつらと並べられる言葉の数々。僕は言葉を聞き取るのに精一杯で、彼女の言葉の半分も理解できなかった。しかし、なんとなく彼女の言っていることは理解できた。
そして、考える必要もない問いだった。
僕の答えはもう既に決まっているのだから。
「僕の日常を……僕の姉を返してください」
僕が覚えているのはそこまでだ。
***
「……っ! 一端!!」
目が覚めると、姉の声が聞こえた。
「あれ、姉ちゃん……」
姉はなぜか涙をいっぱい流しながら僕のことを見ている。
「ちょっと待ってて、今母さんと先生を呼んでくるから」
(先生?)
僕は状況をつかめずにいた。とりあえず起き上がろうとしたが、その前に、自分がいるのが見覚えのない部屋だということに気が付いた。自分の着ているものも自分の寝巻ではない。
辺りを見回し、理解した。どうやらここは病院らしい。
(ああ、僕は……交通事故に遭ったんだっけ)
そこで僕は徐々に記憶を取り戻し始めた。
ある日の下校中、僕は車に撥ねられた。この先の情報は後々聞いた話だが、その後僕はすぐにこの病院へ運ばれたらしい。大したけがは無く、問題なく処置されたらしいのだが、僕は暫く目を覚まさなかったそうだ。確かに、記憶のある日から一週間ほど経っていた。
「本当に心配したんだから……」
病室に入って僕が起きているところを見るなり、母は泣いて崩れ落ちた。それほどまで心配をかけてしまい、申し訳なく思った。
「母さん、心配かけてごめんね」
そう言うと、「全くだよ」と力なく言いながら僕のことを強く抱きしめた。
数日後、僕は無事退院した。学校へ行くと何人かのクラスメートが心配して話しかけてきてくれたが、数日もしないうちに僕の日常が帰ってきた。
「あ、ねえ。そう言えば、不思議ちゃんの噂って聞いたことある?」
少ししてから、どうしても気になったので訊いてみることにした。
「えー、何それ? 俺は別に知らねえけど。……なあ、誰か『不思議ちゃんの噂』って聞いたことある?」
訊いた相手は後藤君だった。特に接点があるわけではないが、誰にでもフレンドリーに対応してくれるのでなんとなく話しかけやすかったのだ。周りのクラスメートも似たような反応だった。
(実際にあった話ではなかったのか)
「それにしても、お前がそんな風に話しかけてくんの珍しいな。何それ、都市伝説? お前そういうの興味あんの?」
「そう言う訳じゃないけど……」
あの少女のことを口にしたのは、あの日が最初で最後だった。
その後、あの少女へ会うことは無かった。彼女が一体何者だったのか、それを知ることは無かった。
しかしあれ以来僕は、姉を誇りにするのをやめた。そして、姉を誇りにするのではなく姉を目標とすればいいのだと、そう思うようにした。
僕は僕なりに頑張ればいい。
姉は姉だ。
僕は僕だ。
とても無理やり終わらせた感がありますが、このちぐはぐな感じもこの話の良さ……! ということで。
こんな話を最後まで読んで下さった方々、ありがとうございました。