1.記憶を失った女
ナツ様主催「共通プロローグ企画」参加作品です。
連載になりましたが、多分そう長くはならないかと……。楽しんで頂けたら嬉しいです。
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
女が目覚めたのは、火の気のない冷たい部屋の寝台だった。
「気が付いた?」
掛けられた声の方を向くと、不機嫌そうな若い男が寝台に寄せた椅子に座っている。
「まったく無茶をする。あのまま雪に埋もれたら、体調は良くなっても雪解けまで発見できないぞ」
寒いのだろう、鼻を赤くして叱る彼を、女は恐る恐る見上げた。
「あの……?」
「異論があるのか?」
「な、ないです……」
「なんだよ、その他人行儀」
さらに不機嫌そうに顔をしかめるが、彼のその秀麗な顔に見覚えがなかった。
のみならず、自分の事も覚えていないことに気付き、彼女は息を呑んだ。
「どうした?」
掛けられた声は気遣いが滲んでいて、彼女は泣きたくなる。
「判らないの……」
「何が?」
「あなたは誰……?」
その一言で彼が固まったのが判ったが、彼女は言い募る。
「私の事、知っているのよね? 私は誰なの?」
「リサ」
「カイエン?」
呼ばれて振り返ると、彼がテラスに出て来るところだった。
「やっぱりここにいた」
「やっぱり?」
「前からここの眺めが気に入っていたからね」
「そうなの?」
キンと音を立てて凍りつきそうな青空のもと、木々が粉雪を静かに零す。僅かに溶けてまた凍ったのだろう、キラキラと眩しいくらいに光る森がとてもきれいで。
「どうせまだここで見ているつもりなんだろう? せめてこれを」
差し出されたのは、温かそうなショール。
改めて自分が薄着だと気づいた彼女は、それでも寒くないことに首を傾げる。
「君が平気なのは判っているけど、見ているこっちの方が寒くなるから」
もどかしげに彼はショールで彼女をくるむ。
フカフカで肌触りのいいショールは彼のぬくもりが残っていて、ツキンと胸が痛んだ。
「カイエン?」
「何?」
僅かに首を傾げてこちらを見る彼。覚えてはいないけれど、彼の名前はとても口になじむのだ。きっと沢山呼んだことがあるのだろうと彼女は思う。
「私はどうすればいいと思う?」
尋ねると、彼は困った顔をして溜め息をついた。
「覚えてないんだから、仕方がない。好きにしていていいよ。何も強要しないし……させない」
言い切る語調の強さに、彼女は少し驚くが。
「ああ、でも」
額に降ってきた触れるだけのキス。
「忘れられた夫が可哀想だから、これくらいは大目に見て」
そう言って笑う彼に、彼女は真っ赤になってしまうのだった。
リサとカイエンは幼馴染で、最近結婚したのだという。
この家はカイエンの実家の別邸で、リサはこの別邸に住み込みで働いていた家令夫婦の娘なのだと。二人とも既に亡くなっているが、その後も彼女自身ここで働いていたらしい。
「だから、リサの事は生まれた時から知っている。黒曜石の瞳も薔薇の唇も」
そういって自分を見る彼の目にうろたえる。そこにはっきりと『愛しい』と見えて、どうしようもなく恥ずかしいしいたたまれない、でも、とても嬉しい。
「カイエン、あの、お仕事は?」
「君が倒れたんだから、休暇をもぎ取った」
「私なら、大丈夫よ?」
そう言うと、彼の機嫌は目に見えて落下した。若いからなのか、元来素直なのか、非常に判りやすい。
「どの口でそれを言うかな? 君は今、記憶がないんだ。この状況で1人で置いておけるわけがないだろう。守護の結界があっても危険すぎる」
「えっと、結界?」
「そう、この家に張ってあるよ。他の奴には見つかりにくくなっている。でも、僕より上位の者には効き目は薄い」
つまりは、彼に結界を張る能力があるという事。そして、自分を1人で置いておけない理由は、外部からの危険だと彼女は理解する。
訊いたら答えてくれるだろうか? 彼女は迷う。
何を警戒しているのか。
色々と話してくれたが、今一つはっきりしない点が多い。わざとなのかも判らない。
彼が自分を守ろうとしてくれているのは疑わないが、記憶がないのがもどかしかった。