一(仮)
僕は中三の春休みに、初めて歯科医院に行くことにした。中学校に入ってからだろうか、僕が歯を磨かなくなったのは。歯を磨くのが面倒だったのでではない。それは歯科医である父と、僕の運命に対するせめてもの抵抗だったのだ。当然何本もの歯が虫歯になった。虫歯の痛みは夕立のように何の予告もなしに僕を襲い、暫くたてばやむ。その痛みは日に日に強烈さを増していき、最初は痛みを我慢するように努めていたが、虫歯が痛むたびに集中が切れてしまうのに耐えかねていたし、氷砂糖を食べていたら虫歯がかけてしまったので、歯科医院に行くことにした。
その歯科医院は、新しく出来たショッピングセンターに客を奪われ、廃れてしまった商店街の端にあった。
その建物は、一階建てで小さく、健康な歯を連想させる明るい白に包まれており、
明らかにその土地とはミスマッチな様相を呈していた。僕はドアを引き、建物の中に入った。
深い緑色のスリッパを履き、受付で保険証を出し、診察カードを作ってもらった。
狭い待合室には誰もおらず、とても静かだった。聞こえるのは、僕の心臓の鼓動だけだった。
四、五分して僕の名前が呼ばれた。僕は治療室に入り、大きな椅子に掛けた。治療室には六十歳ぐらいの、細い目をした歯科医と、若い女の助手がいた。
「こんにちは。え〜っと、田辺くん、どこの歯が欠けたんだけ?」
「右上の奥歯です。」 僕から見て、と付け足そうとしたが、面倒だからやめた。ウィーンという機械音と共に、椅子がゆっくり倒れた。
「それじゃあ口を大きく開いて。」僕は口を大きく開けた。医者は口の中を照明で照らし、先に鏡の着いた細い棒を口に突っ込んだ。僕は照明のあまりのまぶしさに、目を閉じた。
「うわ〜ひどいな〜君ちゃんと毎日歯を磨いてないでしょ。歯石だらけだよ。」
棒が口の中を左右に移動する。歯科医はアルファベットや数字をぶつぶつ呟き、助手がそれをメモする音が聞こえた。
歯科医がため息をついた。棒が口の中から出て、照明が消え、椅子がゆっくり引かれた。