【短編】夜番の灯守り
その町では、夕暮れになると決まって一体の背の高いオートマトンが動き始める。
真鍮の細長い脚部に、それと同じく細長い胴体。
胸には小さな圧力計が埋め込まれている。
丸みを帯びた頭部には顔らしい顔はなく、ただ一枚の曇りガラスが嵌め込まれていて、その内側で淡い橙色の火が揺らめいていた。
町の人間たちはそれを、「灯守り」と呼んでいた。
正式な名前を知る者はいなかったし、製造された工房を知る者も、もうほとんど残っていなかった。
けれど、灯守りは毎日夕暮れになると倉庫街の古い格納庫を出て、石畳の道を一歩ずつ巡っていく。
通りの街灯の煤を拭い、灯を入れ、計器を確かめ、灯りが安定するまでじっとその場に立ちつくす。
それが終わると、また次の街灯へ向かう。
エミルがその小さな町に引っ越してきたのは、冬の終わり頃だった。
港近くの安い家を借り、昼は時計店で働き、夜は一人で魚のスープを飲む。
知り合いと呼べる者は店主の老人しかいない。
けれど、エミルは通りを歩く人々や、たまに訪れる客の顔を覚えようとも思わなかった。
エミルには他人への関心というものが少しばかり欠けていた。
そういうものは、彼にとって余り必要のないものだった。
この町の夜は、静かだった。
海が近いせいで風が冷たく、日が落ちたあとは、石造りの建物まで凍りついてしまうみたいだった。
エミルは毎晩決まって窓辺に立っていた。
何を思うともなく、窓向こうの薄青い夕闇が濃くなっていく様子をただ眺めていた。
ある日、エミルは気がついた。
灯守りのともす灯の色が、場所によってほんの少しずつ違っていることに。
表通りの灯りは、白っぽく明るかった。
人通りの多い広場はそれより少しだけ華やかで、石畳の濡れた地面をきらきらと照らした。
だが、裏通りへ入ると、灯りはやわらかくなった。
金色に近い、古い蜂蜜のような色だった。
エミルは、最初は気のせいだと思った。
けれど一度気がついてしまうと、どうにもそうとしか思えなくなった。
港へ続く坂道では、潮風に溶けるように淡く。
パン屋の前では、窓から漏れる焼きたての匂いに合わせるみたいに温かく。
医者の家の前だけは、いつも少しだけ長く留まって、光の加減を整えていた。
まるで、その場所に合わせて明るさを選んでいるみたいだった。
店主にその話をすると、老人は修理中の時計をルーペで覗き込みながら、ふうん、とだけ言った。
「昔からそうだよ」
「でも、どうしてそんなことを。
ただの街灯でしょう」
「ただの、ねえ」
老人はそこでやっと顔を上げた。
皺の深い目元に少しだけ笑みが浮かんでいた。
「昔、この町には灯り職人がいたそうだ。
灯りの色で、人の気分は変わるって信じてた連中だよ。
酒場の前は少し鮮やかに。
葬儀屋の前は儚げに。
家への帰路は穏やかに。
そういう加減を、手仕事でやってたんだ」
「じゃあ、あのオートマトンは」
「さあな。
その職人の真似事をするよう作られたのかもしれんし、偶然そうなっただけかもしれん」
老人はそこで話を切り、再び手元の時計の修理に戻った。
それ以上は説明する気がないらしかった。
エミルは少しだけ物足りなく思ったが、深くは聞かなかった。
聞いてしまうと、窓の外を歩くあの灯守りが、急にただのつまらない機械に戻ってしまう気がしたからだ。
春になっても、灯守りは変わらず町に灯をともした。
雨の日も、霧の日も、風の強い日も。
ときどき胸の圧力計の針が頼りなく震え、脚部の関節から蒸気を漏らしながら、それでも一つずつ灯りを点けていった。
子供たちはその後を追いかけた。
母親たちは、危ないからおよしと叱った。
酔っぱらいは肩を組もうとして、熱い真鍮の外装に触れて飛び上がった。
灯守りは誰にも怒らず、振り返りもせず、ただ決められた歩調で街路を歩いた。
けれど、一度だけ。
広場の噴水脇で、泣いている女の子の前に立ち止まったことがあった。
迷子だったらしい。
日が沈みかけ、足元の影は長く伸びていた。
灯守りはその場の街灯を点けると、なぜか次の灯りへは向かわなかった。
女の子の傍で、じっと立っていた。
顔の曇りガラスの内側で揺れる火が、いつもより少しだけ明るく見えた。
やがて女の子の母親が駆けつけ、泣きながら灯守りに礼を言った。
もちろん機械に言葉は通じない。
それでもエミルには、彼がほんの一瞬だけ頭部を傾けたように見えた。
その日以来、エミルはますますあのオートマトンのことが気になった。
ある晩、彼は仕事帰りに遠回りをして、灯守りの巡回路をついて歩くことにした。
石畳の端を踏み、点いたばかりの灯りの下を辿っていく。
灯守りは決まった順路を行き、灯芯を確かめ、ひとつ灯してはまた次へ進む。
その姿を見ているうちに、エミルは不思議なことに気づいた。
自分がこの町へ来てから、寂しいと思う夜が減っていた。
時計店の仕事は単調だったし、暮らし向きも決してよくはない。
潮風は冷たいし、知り合いだってほとんどいない。
それでも、夕暮れに窓の外を見ると、必ずあの灯がともった。
そして、人々がちゃんと夜を迎えるのを見届けてくれる何かがいた。
それだけで、なぜか少し安心できた。
その日、エミルは巡回の最後までついていった。
倉庫街に近づくにつれ、人通りはなくなり、石畳を叩く湿った足音だけが響いた。
やがて灯守りは、倉庫街の外れにある最後の一本に灯をともした。
小さな港に架かる桟橋の街灯だった。
そこだけはなぜかいつも、ほかより少しだけ暗い。
灯守りはしばらくその灯りを眺め、それから格納庫の方へ戻っていこうとした。
けれど、そのとき。
灯守りの古い関節が、がくりと崩れた。
真鍮の脚が石畳に擦れ、短い悲鳴のように蒸気を噴いた。
灯守りは片膝をつき、そのまま動かなくなった。
エミルは慌てて駆け寄った。
外装はまだ熱を持っていたが、触れられないほどではない。
胸の圧力計は不規則に震え、頭の内側の火は弱々しく揺れていた。
「おい、大丈夫か」
答えが返るはずもないのに、そんな言葉がエミルの口をついた。
エミルは自分の工具鞄を探った。
時計用の簡単な道具しか入っていない。
けれど、灯守りの関節部の螺子を外してみると、内部の構造は思ったより簡素だった。
歯車列の一つに錆が詰まり、蒸気弁の動きが鈍っている。
応急処置くらいならできるかもしれない。
彼は夜風に指をかじかませながら、ひとつずつ丁寧に掃除をした。
古い油を拭い、外れた細いピンを戻し、錆びついた歯車を取り換える。
そのあいだ、灯守りは一度も動かなかった。
ただ頭の内側の火だけが、消えそうで消えずに揺れていた。
やがて、小さくかちりと音がした。
止まっていた歯車が、噛み合ったのだ。
圧力計の針がふっと持ち上がり、頭の内の火が少しだけ強くなる。
「……よし」
灯守りの頭部がゆっくりと持ち上がった。
曇りガラスの奥で燃える灯が、エミルの胸元を照らした。
灯守りは立ち上がると、そのまま桟橋の街灯の元まで戻った。
そして、何をするでもなく、しばらくそこに立っていた。
潮風が水面を撫で、街灯の灯りが水面に揺れていた。
エミルも彼の隣に立った。
言葉はなかった。
ただ、一人と一体で灯りを眺めた。
その灯りは、あまり明るくはなかった。
けれど今度は、暗いとも思わなかった。
夜に沈みきってしまわない程度の、仄かな明るさだった。
エミルはふと、この町へ来て最初の夜のことを思い出した。
誰も知らず、どこへ向かえばいいのかも分からず、窓辺で海の匂いを嗅いでいた夜だ。
あのときもきっと、この灯りはともされていたのだろう。
自分のことなどつゆも知らない、この古い機械の手で。
「……ありがとう」
彼は返事を期待して言ったわけではなかった。
灯守りは少しのあいだ動かなかった。
それから、吹き抜けてきた潮風に合わせるみたいに、頭の灯が一度だけ揺れた。
翌日から、エミルは夕方になると通りへ出るようになった。
灯守りが来る時間に合わせて、仕事からあがる支度を早めるようにもなった。
たまに工具を持って歩き、関節の様子を見てやることもあった。
灯守りは相変わらず何も言わず、礼も示さず、ただ町に灯りをともしていった。
港へ続く坂道では淡く。
パン屋の前では温かく。
家に続く帰り道では、穏やかな灯を残した。
そしてエミルの家の前では、いつからか、ほんの少しだけやわらかな色で灯るようになった。
どうして灯守りがそうするようになったのか、彼は最後まで考えようとはしなかった。
理由を知ってしまうと、この町の夜はもう少しだけ暗く、寂しいものになってしまう気がしたから。
だから彼はただ、夕暮れ時になると通りへ出て、石畳を叩く足音を待った。
やがて灯守りが現れる。
曇りガラスの中で小さな火を揺らし、今日もこの町に夜を連れてくる。
夜番の灯守り fin
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