英雄の目覚め
その日、英雄は目覚めた。
「ここは……?」
「お目覚めですか」
声がした方を見ると年老いた女性が温かな表情で英雄を見つめていた。
「あなたは?」
英雄が問うと女性は軽く目を閉じて会釈する。
「お忘れですか? エリザですよ」
「エリザ?」
「……はい。エリザです」
エリザの自己紹介を聞いても英雄は両手で頭を抱えるばかりだ。
「ごめんなさい。思い出せないんです。何も」
「大丈夫ですよ。私はそれをよく知っています」
エリザはニコリと笑う。
「今、全てを説明いたしましょう。あなたはこの世界を救った英雄なのです」
「英雄……?」
「はい。とてつもなく強大な存在から人々を守った偉大なる英雄。しかし、あなたはその世界の脅威と戦った折に相手の最後の抵抗である呪いを受けて随分と長い間封印をされていたのです」
「封印をされていた?」
「ええ。そしてどうやら記憶も失われているようですね。まったく、残酷な呪いを使うものです」
英雄はため息をつく。
なるほど。
これならば何も思い出せないのも仕方ない。
「私、エリザはあなたの乳母でした」
「乳母?」
「ええ。何せ、あなたは天涯孤独でしたからね。私はあなたが目覚めるまでお世話をさせていただいたのです」
「そうか。それじゃあ、僕の全てを知っているのだね」
「ええ。もちろん。背中の黒子の位置だって」
英雄は顔を赤らめて呟いた。
「どうやら本当に乳母らしいな」
「はい……あなたのおしめも替えたこともありますよ」
「分かった。分かったってば。もうやめよう」
クスクス笑うエリザに英雄は赤い顔のままに視線を外す。
「あなたは一年も眠っていました」
「そんなに眠っていたのか」
「はい。きっとやりたいこともたくさんあったでしょうに」
「全く思い出せない」
「……それは良かった」
「え?」
エリザの言葉に英雄は声をあげる。
何も思い出せないのが良いことだなんて、どういうことだろう?
しかし、彼女は穏やかな表情のままに言葉を告げた。
「考えてもごらんなさい。あなたが眠っている間だって人々の世界は動き続けているのです。それなのにあなただけ時間に置いてきぼりとなってしまう。これは筆舌に尽くしがたい苦痛でしょう」
「そんなものだろうか?」
「ええ。間違いなく。だから、あなたは全てを忘れて生まれ変わった気持ちで生きるべきです」
エリザの言葉は尤もに思えた。
少なくとも、今この瞬間においては。
「それもそうか」
「その通りですとも」
「それじゃあ、外に出てみようか。長い間横になっていたなら少しは体を動かさないと……」
「あぁ、お待ちください。怪我をしないよう呪いを掛けますので」
「まじない?」
英雄が問い返す頃にはエリザは既に呪いの言葉を唱えていた。
その声がとても懐かしく感じた。
きっと、幼い頃から聞いていた言葉なのだろうと英雄は思った。
「終わりですよ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「ありがとう」
「あまり遠くに行かないでくださいね。まだ本調子ではないのですから」
「うん。そうするよ」
扉を出ていく英雄を見つめながらエリザは一つ息をつく。
彼女は幾つか、嘘をついていた。
一つは英雄が封印されていた時間は一年なんて短いものではなかったということ。
一つは彼女が唱えたのは怪我除けの呪いではなく、記憶の忘却の呪いだったということ。
そして、最後の一つ。
それは彼女が英雄の恋人であったこと。
彼女は数十年もの間、恋人の帰還を待ち続けていたのだ。
「今更、真実を話したところでね」
くすりとエリザは笑う。
咄嗟についた嘘だがどうやら上手く騙せたらしい。
「失われた時間。しっかり取り戻して……」
窓の外から見える、かつての恋人がぎこちなく歩く姿。
それを見てエリザはようやく安堵の涙を流す。
「幸せにね」
呟いた言葉を涙が綺麗に反射させた。




