第9話:学園のノイズと、独占される不燃物
学園のカフェテリアは、私にとって巨大な培養槽だ。
数百人の生徒が発する熱気、欲望、嫉妬。それらが混ざり合い、天井付近にはドス黒い「湿気」が層を成して滞留している。
換気扇のフィルターは先週掃除したばかりだというのに、もう油と魔塵で目詰まりを起こしていた。
「……食欲が失せますね」
私はトレイの上の、少し冷めたスープをスプーンでかき混ぜた。
私の席は、食堂の最奥。
ゴミ箱の隣にある、通称「不燃物指定席」。
ここなら、誰の視界も汚さずに済むはずだった。
――昨日までは。
「あら、ごきげんよう。……掃除婦さん?」
頭上から、甘ったるい香水の匂いが降ってきた。
顔を上げずとも分かる。
香水の濃度が高すぎる。フローラル系の香りに混じる、鼻につく金属臭。
魔力持ち特有の、プライドの高さと比例するノイズだ。
「……何かご用でしょうか」
私が顔を上げると、そこには三人の女子生徒が立っていた。
制服の着こなしからして、どこぞの上級貴族の令嬢だろう。
彼女たちの瞳には、分かりやすい「侮蔑」と、隠しきれない「嫉妬」が渦巻いている。
「最近、調子に乗っているという噂を聞きましてよ。アステール様の腰巾着ですって?」
中央のリーダー格らしき生徒が、扇子で口元を隠して笑った。
「勘違いしないでいただきたいわ。貴女のような『持たざる者』が、あの方の視界に入ること自体が不敬なの。身の程を知りなさい」
ああ、うるさい。
彼女が口を開くたびに、キーンという高周波のハウリング音が鼓膜を刺す。
中身のない言葉ほど、空気中で乱反射して騒音になるのだ。
「勘違いも何も」
私はスープを一口啜り、淡々と答えた。
「私は業務命令に従っているだけです。文句があるなら、雇用主であるアステール様に直接どうぞ」
「なっ……! 口答えする気!?」
リーダー格の顔が赤く歪んだ。
彼女の指先に、チリチリと未熟な魔力が集束していく。
安い挑発だ。
ここで魔法を使えば、彼女たちは停学、私は黒焦げ。
どちらに転んでも、私の平和な昼食は終わりだ。
「……汚らわしい。その減らず口、焼いて塞いで差し上げますわ!」
彼女が杖を振り上げた、その時だった。
ドォン。
重い衝撃音が、カフェテリアの空気を震わせた。
魔法ではない。
空間そのものが、圧倒的な「質量」によって歪められた音だ。
一瞬で、喧騒が凍りついた。
いや、蒸発した。
肌を刺すような熱波が、入り口から津波のように押し寄せてくる。
「……誰の許可を得て、私の前で騒音を撒き散らしているの?」
絶対零度の声が響いた。
エレノア・フォン・アステール。
彼女がそこに立っていた。
取り巻きを従えることもなく、たった一人で。
その白金髪は逆立つように揺らめき、美しい顔には能面のような無表情が張り付いている。
怖い。
怒りではない。
あれは、自分のテリトリーにゴキブリが出た時の、純粋な「嫌悪」の顔だ。
「ア、アステール様……!?」
「ご、誤解です! 私たちはただ、この生意気な掃除婦に教育を……」
令嬢たちが青ざめて弁解しようとする。
だが、エレノアは彼女たちを一瞥すらしなかった。
彼女の緋色の瞳は、真っ直ぐに私だけを――正確には、私の手元にあるスープだけを見ていた。
「私の、所有物よ」
彼女がポツリと呟いた。
「は……?」
「その『不燃物』の管理権限は、私が買い占めたの。貴女たちの安っぽい香水の臭いがついたら、使い物にならなくなるでしょう」
エレノアが一歩、足を踏み出す。
ジュッ。
床のタイルが、彼女の靴底の形に溶けた。
カフェテリアの室温が、異常な速度で上昇していく。
テーブルの上のコップが震え、生徒たちの額から玉のような汗が噴き出す。
「消えなさい。……私の視界が曇る」
彼女が軽く手を払う仕草をした。
それだけで、暴風のような熱風が巻き起こり、令嬢たちのスカートを捲り上げ、悲鳴と共に数メートル後ろへ吹き飛ばした。
「きゃああああっ!」
「あ、熱っ……!?」
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う令嬢たち。
周囲の生徒も、巻き添えを食らってはたまらないと、我先にと出口へ殺到する。
数秒後。
広大なカフェテリアには、私とエレノアだけが残された。
静寂。
そして、サウナのような蒸し暑さだけが漂っている。
「……やりすぎです」
私はスプーンを置いた。
もうスープは完全に温まり直し、湯気を立てていた。
「公共の場での魔力放出は校則違反ですよ」
「……うるさいわね。害虫駆除よ」
エレノアは肩で息をしながら、私の前の席――さっきまで令嬢がいた席に、ドカッと腰を下ろした。
彼女の全身から、蜃気楼のような揺らぎが立ち上っている。
相当、無理をして出力を上げたらしい。
「それに……貴女がボサッとしてるのが悪いのよ。あんな雑魚に絡まれて」
彼女は頬杖をつき、上目遣いで私を睨んだ。
その瞳は潤み、熱で微かに充血している。
「傷一つつけてごらんなさい。……私の掃除道具としての価値が下がるわ」
言葉は高圧的だ。
けれど、テーブルの下で、彼女の足先が私の靴にコツン、と当たった。
まるで甘えるように、爪先を擦り付けてくる。
「……助けていただき、感謝します」
「ふん。当然よ」
私はため息をつき、ポケットから手袋を取り出した。
「ですが、代償は高くつきますよ」
「え?」
「周囲の気温を5度上げましたね。これだけの熱量を無駄に放出すれば、反動が来るはずです」
私は立ち上がり、テーブル越しに彼女の頬に手を伸ばした。
触れる。
「ひゃっ……!」
エレノアが可愛らしい悲鳴を上げた。
私の冷たい手が、火照った彼女の頬を包み込む。
「ほら、やっぱり。オーバーヒート寸前じゃないですか」
「……だ、だって……ムカついたんだもの」
彼女は目を細め、私の掌に顔をすり寄せた。
猫だ。
さっきまで周囲を威圧していた女王様が、今は私の冷たさに骨抜きにされている。
「貴女が……他の人間の臭いをさせてるのが、嫌だったの」
ボソリと、危険な本音が漏れた。
私は背筋が寒くなるのを感じた。
これは「保護」ではない。
「管理」ですらない。
これは、歪んだ所有欲による「隔離」だ。
彼女は私を守ったのではない。
私という冷却装置に、他人の手垢がつくのを嫌っただけ。
(……分かっていますよ、それくらい)
私は親指で、彼女の熱い唇を軽く撫でた。
「放課後、いつもの部屋で。……溜まった熱、全部絞り出してあげますから」
「……うん。絶対よ」
エレノアは蕩けた顔で頷き、私の指を甘噛みした。
遠巻きにこちらを覗き見る生徒たちの視線など、もう彼女の目には入っていない。
そして私も、その視線が気にならなくなっていることに気づいてしまった。
共犯関係。
その泥沼に、私はもう膝まで浸かっている。
カフェテリアの澱んだ空気の中で、私たち二人だけが、熱と冷気という「正解」を共有していた。




