第8話:学習する指先と、飼い慣らされた熱
人間というのは、恐ろしいほど適応力の高い生き物だ。
かつては致死レベルの猛毒だと思っていた環境も、三日も浸かれば「ただの日常」へと劣化する。
アステール王女の部屋に通い始めて、今日で四日目。
私は、自分がこの異常な空間に馴染み始めていることに、薄ら寒い恐怖を感じていた。
「……角度、悪いわよ」
ソファの上で、エレノアが不満げに声を上げた。
彼女はうつ伏せになり、背中を大きく露出させている。
もはや恥じらいなど欠片もない。あるのは、効率的なメンテナンスを求める顧客としての図太さだけだ。
「失礼。脊椎の第三関節付近に、新しい熱溜まりが出来ていたので」
私は手袋を外した素手で、彼女の滑らかな背中を押圧した。
以前なら火傷しそうだと感じた熱も、今では「少し熱めのお湯」程度にしか感じない。
私の皮膚感覚が、彼女の高熱に合わせてキャリブレーション(補正)されてしまったのだ。
「ん、ぁ……そこ……」
親指でツボをグリリと押し込むと、エレノアの背筋がビクンと跳ねた。
快感と苦痛の混じった、甘い吐息。
最初の頃のような悲鳴ではない。
彼女の身体もまた、私の冷たい指による「侵入」を学習し、受け入れ始めている。
「……随分と、反応が良くなりましたね」
「う、うるさい……。貴女が、変なところばかり触るから……」
エレノアは枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で抗議した。
変なところではない。魔力の流動効率が悪い箇所を重点的に掃除しているだけだ。
だが、私の指が動くたびに、彼女の白い肌が桜色に染まり、微かに震えるのを見ると、自分が何か背徳的な行為をしているような錯覚に陥る。
(……雑念ですね。作業に集中しろ)
私は頭を振り、視覚情報をシャットアウトした。
指先の感覚だけに集中する。
彼女の皮膚の下を流れる、マグマのような魔力の奔流。
その流れを読み、滞っている箇所を見つけ出し、私の「虚無」で吸い上げる。
以前は力任せに吸引していたが、今は違う。
もっと繊細に、もっと効率的に。
彼女の呼吸に合わせて、吸い上げるペースを調整する。
吸って、吐いて。
熱を奪って、冷気を送る。
まるで、二つの異なる循環系をパイプで繋いで、強引に同期させているような感覚。
「……っ、ふぅ……」
エレノアの呼吸が深くなった。
緊張していた筋肉が弛緩し、彼女の体温が私の手にどっと預けられる。
信頼、などという生易しいものではない。
これは完全な「降伏」だ。
彼女は自分の命綱を、完全に私に委ねてしまっている。
「……今日は、ここまでにしましょう」
私は指を離した。
途端に、エレノアが「あ……」と名残惜しそうな声を漏らす。
その反応速度。
まるで餌を取り上げられたペットだ。
「もう終わり? まだ、少し……奥の方が熱いの」
「これ以上は依存症になります。自分の力で放熱する訓練もしないと、回路が退化しますよ」
私は冷静に告げ、ハンカチで手を拭った。
彼女の背中には、私の指の跡が白く残っている。
赤く火照った肌の中で、そこだけが雪のように白い。
私が触れた証拠。
エレノアはけだるげに上半身を起こし、乱れた髪をかき上げた。
その瞳はとろんと潤み、焦点が定まっていない。
魔力酔いならぬ、魔力欠乏による酩酊状態。
「……リナ」
「なんですか」
「貴女の手、冷たくて気持ちよかったけど……」
彼女は私の手首を掴み、じっと見つめた。
「前よりも、少し温かくなった気がする」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……気のせいでしょう。室温が高いせいです」
「ううん、違うわ。私の熱が、貴女の中に残ってるのよ」
エレノアはふふっ、と勝ち誇ったように笑った。
「私の色が、貴女に移ったみたいで……なんか、嬉しい」
ぞわり、と背筋が粟立った。
独占欲と支配欲が入り混じった、無邪気で残酷な笑み。
彼女は無自覚だ。
自分の熱が、私という「器」を変質させつつあることに。そしてそれを、喜んでしまっていることに。
「……妄言は寝てから言ってください。追加料金を請求しますよ」
私は乱暴に手を振りほどき、逃げるように鞄を掴んだ。
これ以上ここにいると、彼女のペースに巻き込まれる。
いや、もう手遅れかもしれない。
***
帰り道。
学園の廊下はすでに無人だった。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。
いつも通りの、無愛想で生気のない顔。
だが、頬のあたりが、ほんの少しだけ紅潮しているように見えた。
(……馬鹿な)
私は自分の頬をペチリと叩いた。
熱なんてない。
私は不燃物だ。何にも燃えず、何にも染まらず、ただ世界を掃除して消えていく塵芥だ。
そう自分に言い聞かせる。
だが、ポケットの中で握りしめた右手は、確かに熱を帯びていた。
カイロなど必要ないほどに。
その熱が、エレノアの肌の感触を鮮明に思い出させる。
吸い付くような肌。
甘い匂い。
私の指に反応して震える背中。
「……チッ」
私は舌打ちをして、早足で歩き出した。
早く帰って、冷たいシャワーを浴びよう。
そして、セシルから買った冷却薬を飲んで、この余計な熱を消去しなければ。
でも、心のどこかで分かっていた。
どれだけ洗っても、どれだけ冷やしても。
一度知ってしまった「熱」の記憶は、そう簡単には消えないことを。
私の指先は、もう彼女の熱さを「心地いい」と学習してしまったのだから。




