第5話:秘密の契約と、体温の買値
放課後の特別寮は、まるで要塞のように静まり返っていた。
一般生徒の立ち入りが禁止された、貴族階級専用の居住区。
廊下に敷かれた絨毯は、私の靴底が沈み込むほど分厚く、空気中には高級なアロマと、鼻につくほどの高純度魔素が漂っている。
不快だ。
酸素濃度が濃すぎて、逆に息苦しい温室のよう。
私は制服のポケットに入れた「契約書」の感触を確かめながら、302号室の前に立った。
扉は重厚なオーク材。
装飾過多な金色のノブは、すでに熱を帯びているのか、陽炎のように空気が揺らいで見える。
「……はあ」
ため息を一つ。
肺の中の清浄な空気を吐き出し、代わりにこの場の澱んだ空気を吸い込む覚悟を決める。
私はノックをした。コン、コン、ではなく、ドン、ドン、と。
遠慮はいらない。中にいるのは獰猛な野獣だ。
「……開いているわ」
中から聞こえたのは、張り詰めた弦のような声だった。
***
ガチャリと扉を開けた瞬間、熱風が頬を叩いた。
「遅い!」
出迎えの言葉は、予想通りの罵倒だった。
エレノア・フォン・アステールが、部屋の中央にある猫足のソファに座り、貧乏揺すりをしている。
テーブルの上には、ティーセットと、山積みの書類。
そして彼女自身は、室内だというのに分厚いガウンを羽織り、それでも寒そうに震えていた。
「約束の時間は16時です。現在、15時59分40秒。私は時間厳守の優良業者ですが」
「貴女の体内時計はどうなってるのよ……。私の体内時計は、もう限界を訴えてるの」
エレノアがガウンの前をはだけさせる。
その下は、薄手のシルクのネグリジェ一枚だった。
肌が赤い。
昨日よりも、熱の侵食が進んでいるように見える。
彼女の周囲の空間だけ、魔塵が渦を巻き、小さな静電気の火花がパチパチと弾けていた。
「……見ての通りよ。貴女がいないと、もう制御できないの」
彼女は悔しそうに唇を噛み、テーブルの上の書類を顎でしゃくった。
「そこ。座りなさい。契約の話をしましょう」
私は指定された対面のソファに腰を下ろした。
クッションが柔らかすぎて、尻の収まりが悪い。
テーブルには、今朝渡されたものと同じピンク色の封筒と、さらに詳細な条文が書かれた羊皮紙が広げられていた。
『専属清掃契約書(改訂版)』
目を通す。
内容は、独占禁止法に抵触しそうなほど理不尽なものだった。
第一条:甲は、乙の許可なく、他者の魔力清掃を行ってはならない。
第二条:乙が求めた場合、甲はいかなる時も優先的に駆けつけること。
第三条:甲は、乙以外の「熱」に触れてはならない。
「……なんですか、これは」
私は羊皮紙を指先で弾いた。
「私は掃除屋であって、愛人契約を結びに来たわけではありません」
「あ、愛人って……! 言葉を選びなさいよ、不燃物!」
エレノアが顔を沸騰させて叫ぶ。
室温が一気に2度ほど上がった気がした。
「これは防衛策よ。貴女の手は……その、特殊だから。他の誰かに使われて、貴女が壊れたり、穢れたりしたら困るの」
「穢れる、とは?」
「……他の誰かの、汚い魔力が混ざるのが嫌なのよ」
彼女はそっぽを向き、ボソリと呟いた。
独占欲。
あるいは、自分だけの避難所を確保したいという、子供じみた生存本能。
私は呆れを通り越して、少し感心してしまった。
ここまで自分の欲望に正直だと、逆に清々しい。
「条件の修正を求めます」
私は懐から、あらかじめ用意しておいたメモ帳を取り出した。
「第一条、私の営業活動を制限する場合、その逸失利益を補填すること。
第二条、深夜早朝の呼び出しは、基本料金の3倍を請求します。
第三条……『他の熱に触れるな』というのは物理的に不可能です。夏場はどうするんですか」
「屁理屈を言わないで! ……で、いくらなの?」
「はい?」
「補填とか、追加料金とか。全部言い値で払うと言ってるのよ。アステール家の財力を甘く見ないで」
エレノアはテーブルの引き出しを開け、革袋をどさりと放り出した。
ジャラリ。
昨日の比ではない、重厚な金属音が響く。
袋の口から、プラチナ貨の輝きが漏れていた。
「……これで、貴女の放課後を全部買うわ」
彼女の瞳は真剣だった。
金で買えるなら、プライドも常識もすべて投げ打つ覚悟。
それほどまでに、彼女は自分の熱に追い詰められているのだ。
私はプラチナ貨を見つめた。
これ一枚で、最高級の導魔繊維が一年分買える。
『零式』のメンテナンスどころか、新しい機材開発への投資も夢ではない。
私は掃除屋だ。
汚い場所を綺麗にするのが仕事で、対価をもらうのが流儀。
相手が傲慢な王女様だろうが、薄汚い路地裏だろうが、ゴミはゴミ、金は金。
「……交渉成立ですね」
私は革袋を引き寄せた。
重い。
この重さは、彼女の命の重さであり、私への執着の重さだ。
「ただし、一つだけ条件を追加します」
「……なによ」
「私の掃除のやり方に、一切口出ししないこと。痛かろうが、恥ずかしかろうが、ゴミは黙って処理されること」
私が冷たく言い放つと、エレノアは喉を鳴らし、潤んだ瞳で私を睨み返した。
「……いいわ。好きにしなさいよ」
契約は結ばれた。
私は手袋を外し、テーブルの上の羊皮紙を脇へ追いやった。
「では、早速業務を開始します。……そこのテーブルに乗ってください」
「えっ、ここ、で……?」
「ベッドまで移動する時間が惜しい。あなたの首筋、もう限界でしょう」
図星だったのか、エレノアは素直に従った。
ガウンを脱ぎ捨て、ネグリジェ姿でテーブルの上に四つん這いになる。
薄い布越しに、背骨のラインと、その奥で脈動する魔力の光が見える。
美しい、とは思わない。
ただ、掃除しがいのある汚れだ。
「……動かないでくださいね」
私は彼女の背後に立ち、その無防備な背中に手を伸ばした。
ひんやりとした室内の空気が、私の指先と彼女の肌の間で対流を作る。
触れる。
「ひぐっ……!」
エレノアが背中を反らせ、テーブルクロスを握りしめた。
私の冷たい指先が、彼女の肩甲骨の間、もっとも熱が溜まる「魔力溜まり」に沈み込む。
ジュッ、と音が聞こえるような錯覚。
指先から、猛烈な勢いで熱が流れ込んでくる。
熱い。痛い。
けれど、その不快な熱量が私の体内を駆け巡り、空っぽだった血管を満たしていく感覚は、何にも代えがたい充足感があった。
「あ、ぁ……リナ、もっと……つよく……」
エレノアの声が甘く溶ける。
彼女はもう、王女としての体面などかなぐり捨てていた。
テーブルに頬を押し付け、涎を垂らしそうなほど口元を緩め、私の手による「排熱」を貪っている。
私は冷静に作業を進めた。
肩から背骨、そして腰へ。
詰まったパイプの汚れを押し流すように、指の腹で強く、執拗に魔力のラインをなぞる。
「そこ、だめ、おかしく、なる……っ!」
「ゴミが溜まっています。我慢してください」
腰のあたりにある魔力結節点を強く圧迫する。
ビクン! と彼女の身体が跳ね、大量の魔素が蒸気となって噴き出した。
部屋が白く霞む。
それは彼女の体内から排出された、純粋な魔力の霧だ。
「はあ、はあ……っ」
エレノアがガクンと力を失い、テーブルの上に突っ伏した。
全身から力が抜け、今はただの肉塊のように脱力している。
私は手を離した。
指先がジンジンと痺れている。
自分の体温計を見なくても分かる。今の私は、きっと人並みの温かさを持っているはずだ。
「……本日の業務は終了です」
ハンカチで手を拭きながら告げる。
エレノアは焦点の合わない目で私を見上げ、とろんとした笑みを浮かべた。
「……すごい。空っぽ……。頭の中が、真っ白……」
「それは酸欠です。深呼吸を」
「ねえ、リナ……」
彼女がふらふらと手を伸ばし、私の袖を掴んだ。
「明日も……絶対、来てね。お金なら、また用意するから……」
それはまるで、麻薬の売人に縋る中毒者のようだった。
あるいは、暖炉の火が消えるのを恐れる幼子のようにも見える。
私は彼女の手を、やんわりと、しかし拒絶の意思を込めて振り払った。
「契約しましたからね。金銭が発生する限り、私は来ますよ」
ドライに割り切る。
そうしなければ、この熱に引きずり込まれそうだったからだ。
私の中に残る彼女の熱が、「もっと触れていたい」と訴えている。
そんなバカな。
私は掃除屋だ。汚れに愛着を持つなんて、あってはならない。
「……ふふ。契約、ね。……私の、共犯者さん」
エレノアは満足げに目を閉じ、そのままテーブルの上で寝息を立て始めた。
不用心すぎる。
だが、この部屋に入ってくる人間など私くらいしかいないのだろう。
私は床に落ちたガウンを拾い上げ、彼女の背中にかけてやった。
優しさではない。
風邪を引いて発熱されたら、魔力の熱と区別がつかなくなって掃除が面倒になるからだ。
***
寮への帰り道。
ポケットの中の金貨袋が、歩くたびに太ももを打つ。
チャリ、チャリ。
その軽やかな音は、私が「魂」の一部を切り売りした音のようにも聞こえた。
空を見上げると、一番星が光っている。
冷たい夜風が心地いい。
けれど、私の右手の指先だけは、まだ微かに熱を帯びていた。
「……温かい、か」
独り言が漏れる。
その言葉の意味を深く考えるのをやめて、私は早足で歩き出した。
早く地下室に行って、セシルに冷却材を売ってもらわなければ。
このままでは、私が「変質」してしまう。
契約書という名の鎖。
金貨という名の錠前。
それらで繋がれた私たちはいずれ、どちらかが壊れるまで、この摩擦熱から逃れられないのかもしれない。
まあ、いい。
壊れるのが私でなければ、それでいいのだ。
私はあくまで、道具なのだから。




