第4話:事後の熱と、地下室の共犯者
指を離した瞬間、世界が急速に冷却されていくのが分かった。
私の体温になじんでいた熱源が失われ、代わりに夕暮れの薄暗い冷気が肌を刺す。
エレノアの首筋から指を引き抜くと、彼女は名残惜しそうに「ぁ……」と小さく声を漏らし、それからハッと我に返ったように口元を押さえた。
「……見ないで」
ソファに横たわったまま、彼女は乱れた髪の隙間から私を睨みつけた。
先ほどまでの陶酔しきった表情はどこへやら。
緋色の瞳には、羞恥と、それをごまかすための精一杯の虚勢が燃え上がっている。
「見るなと言われても。清掃の最終確認は義務ですので」
私は努めて事務的な口調を保ちながら、ポケットからハンカチを取り出した。
指先に残る、彼女の汗と魔力の残滓を丁寧に拭き取る。
本当なら今すぐ水で洗い流したい。他人の体液ほど不衛生な物質はこの世に存在しないからだ。
けれど、奇妙なことに。
いつもなら感じるはずの嫌悪感が、今日は薄かった。
それどころか、指先に残る微かな熱が、冷え性の私には少しだけ心地いいとさえ感じてしまっている。
(……毒ですね、これは)
私は眉をひそめ、使用済みのハンカチをビニール袋に密閉した。
感染性廃棄物として処理しなければ。
「……っ、ふう。……随分と、手慣れているじゃない」
エレノアがふらつきながら起き上がり、はだけたブラウスのボタンを留めていく。
その指先はまだ震えていたが、顔色は随分とマシになっていた。
茹で上がった赤色は引き、本来の透き通るような白磁の肌に戻っている。
「言ったはずです。私はプロの掃除屋だと」
「掃除、ね……。私の身体はゴミ捨て場じゃないのだけれど」
「溜め込めばゴミ、循環させれば資源です。あなたの魔力は循環不全を起こして腐りかけていました」
私が淡々と事実を述べると、エレノアは不服そうに唇を尖らせた。
だが、言い返す気力はないらしい。
今の彼女は、憑き物が落ちたように穏やかだ。魔力という燃料を抜かれた機械人形のように、どこか儚げでさえある。
「……また、明日も」
帰り支度を始めた私の背中に、蚊の鳴くような声が投げかけられた。
「はい?」
「明日も、来なさいと言ったの。……まだ、完全に抜けきっていない気がするから」
振り返ると、エレノアはそっぽを向いて髪をいじっていた。
耳の先が赤い。
典型的な禁断症状だ。一度「冷却」の味を知ってしまった彼女の身体は、もう自分一人では熱を処理しきれない。
「追加料金が発生しますが」
「……お金なら、いくらでも払うわよ。アステールの資産を舐めないで」
彼女はソファのクッションを抱きしめ、顔を埋めた。
「だから……その冷たい手で、また私を空っぽにして」
その言葉は、命令というよりは懇願だった。
私は小さく溜息をつき、無言で部屋を出た。
背後で、安堵の息が漏れる音が聞こえた気がした。
***
旧校舎を出ると、外はすでに夜の帳が下りていた。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でる。
私は制服のポケットに入っている魔石の重みを確かめ、学園の裏門へと向かった。
寮へ帰る前に、寄らなければならない場所がある。
学園の地下深く。
廃棄された地下通路の奥に、その「巣」はある。
重厚な鉄扉を蹴飛ばすと、錆びた蝶番が悲鳴を上げて開いた。
途端に、鼻孔を襲う刺激臭。
オゾン、機械油、そして腐りかけたエナジードリンクの甘ったるい臭い。
「……相変わらず、ひどい環境ですね。ここに住んでいて肺が腐りませんか?」
「よう、リナか。いらっしゃい。ちょうど新しい換気システムを試していたところだ」
ガラクタの山の中から、ボサボサの黒髪をした頭がひょっこりと現れた。
セシル・ヴァーミリオン。
この学園で唯一の、私の「理解者」であり、どうしようもない変人発明家だ。
彼は白衣の裾で油汚れた眼鏡を拭きながら、ニヤリと笑った。
「で、どうした? 『零式』の調子でも悪いか? それとも、また学園長の銅像に落書き消しの依頼か?」
「いいえ。今日は素材の買い取りをお願いしに来ました」
私はポケットから、エレノアに押し付けられた火属性魔石を取り出し、作業机の上に放った。
ゴトリ、と重い音が響く。
「……おいおい、マジかよ」
セシルの目が丸くなった。
彼は慌ててルーペを取り出し、魔石に食いつくように観察を始めた。
「純度99パーセント……アステール鉱山の最高級品じゃねえか。これ、どこで手に入れた? まさか盗んできたわけじゃあるまいな」
「正規の労働対価です。……体液とプライドを削った代償ですが」
「ふうん?」
セシルは意味深な視線を私に向けた。
観察するような、解析するような、ねっとりとした目つき。
私は不快感を露わにして腕を組んだ。
「なんですか。鑑定しないなら帰りますよ」
「いやいや、石の鑑定は終わったよ。俺が気になってるのは、お前の方だ」
彼はルーペを置き、私の手首を不意に掴んだ。
「……熱いな」
「は? 何言ってるんですか。私の体温は平熱で35.2度……」
「36.1度あるぞ、これ」
セシルが別の手で非接触型の体温計をかざしていた。
ディスプレイに表示された数字を見て、私は絶句した。
「……故障でしょう。私がそんな人並みの体温を持っているわけがない」
「機械は正常だ。お前、誰の『熱』を貰ってきた?」
セシルはニタニタと笑いながら、私の手首の脈を指先で探った。
「脈拍も少し速い。魔力回路に外部からの干渉痕がある。……それも、桁外れにデカい出力の奴だ。お前の『虚無』の胃袋が、消化不良を起こしかけてるレベルのな」
「……気持ち悪い分析をしないでください」
私は乱暴に手を振りほどいた。
心臓が、嫌なリズムで跳ねている。
図星だった。
エレノアから吸い上げた熱が、まだ私の体内で燻っているのだ。
まるで、熱いスープを飲んだ後のように、お腹の底がポカポカとしている。
「アステールの女王様か」
セシルがあっさりと正解を口にした。
「噂には聞いてたけどな。あの『歩く核融合炉』がお前の顧客になったとは。……どうだった? 最高級の魔力の味は」
「……最悪でしたよ。粘着質で、高温で、自己顕示欲の塊みたいな味でした」
「へえ。その割には、お前の魔力欠乏症、だいぶ緩和されてるみたいだけどな」
セシルは作業机の引き出しから、小汚い革袋を取り出し、私に投げ渡した。
中には、ずっしりとした硬貨が入っていた。
「魔石の代金だ。相場の8割で買い取ってやる。残りの2割は、俺の情報料と口止め料ってことで」
「……強欲ですね」
「商売人と言ってくれ。で、その金で何を買う? 『零式』のメンテナンスキットか? それとも新しい制服でも新調するか?」
私は袋の口を縛り直し、冷たく言い放った。
「冷却材を。最強力のやつをください」
「は?」
「体の中に残った他人の熱が気持ち悪いんです。さっさと冷やして、いつもの正常な状態に戻したい」
セシルは呆れたように肩をすくめた。
「やれやれ。せっかく人間に近づけたってのに、わざわざ冷血動物に戻りたがるなんてな。……ほらよ」
彼が放り投げたのは、青い液体が入った小瓶だった。
即効性の魔力冷却薬。
これを飲めば、体内の余剰魔力は強制的に散らされ、私はまた「空っぽ」に戻れる。
「まいどあり。……あ、そうそう。忠告しとくけどな、リナ」
帰り際、セシルの声が低くなった。
「あんまり深入りするなよ。高出力のエネルギーってのは、引力も強い。うっかりしてると、お前ごと燃え尽きるぞ」
「ご心配なく。私は不燃物ですので」
私は鉄扉を閉め、その不吉な予言を遮断した。
***
女子寮の自室に戻ったのは、消灯時間を過ぎた頃だった。
六畳一間の狭い部屋。
家具はベッドと机だけ。余計な装飾品は一切ない。
埃ひとつない、完璧に整頓された私の城。
普段なら、この無機質な空間こそが一番落ち着く場所だった。
けれど、今夜はどうしてか、部屋が寒々しく感じられた。
(……気のせいです)
私は制服を脱ぎ、シャワーで念入りに身体を洗った。
特に、エレノアに触れられた首筋や手首は、皮膚が赤くなるほどゴシゴシと擦った。
彼女の匂いも、熱も、全て洗い流すために。
パジャマに着替え、ベッドに潜り込む。
シーツの冷たさが心地いいはずなのに、どこか物足りない。
指先が、無意識に何かを探してシーツを握りしめる。
……あんな、沸騰したヤカンみたいな女。
二度と触れたくない。
そう思っているはずなのに、脳裏に焼き付いているのは、私の手の中でとろけていた彼女の顔だ。
『……リナの手で……っ』
耳元で再生される、熱を帯びた声。
ぞわり、と背筋が震えた。
「……飲みましょう」
私はサイドテーブルに置いた冷却薬の小瓶を手に取った。
これを飲めば、この妙な火照りも消える。
いつも通りの、冷たくて乾いた私に戻れる。
栓を抜き、口元に運ぶ。
ツンとした薬品の臭い。
それが、先ほどまでの甘い熱の記憶を上書きしていく。
でも。
「…………」
私は寸前で動きを止めた。
瓶の中の青い液体が、月明かりに揺れている。
もったいない。
ふと、そんな卑しい考えが頭をよぎった。
これは高価な薬だ。こんな些細な熱のために消費するのは、経済的に非効率的だ。
そう、ただの貧乏性だ。
決して、この熱を消したくないわけではない。
「……今日は、寒いですから」
誰にともなく言い訳をして、私は小瓶の栓を閉めた。
薬を机に戻し、布団を頭まで被る。
自分のお腹のあたりに残る微かな温かさを、カイロ代わりに抱きしめて。
私は目を閉じた。
それが、私という「器」が汚染され始めた、決定的な証拠だとも知らずに。
***
翌朝。
私は最悪の目覚めを迎えた。
夢を見たのだ。
部屋中が紫色の炎に包まれる夢。
炎の中心にはエレノアがいて、彼女は私に手を伸ばして叫んでいた。
助けて、とも、愛して、とも聞こえる声で。
私はその手を掴もうとして――逆に、彼女の炎に飲み込まれて目が覚めた。
「……汗、かいてる」
額を拭うと、びっしりと冷や汗をかいていた。
心臓が早鐘を打っている。
体温計を見ると、35.8度。
まだ、私の平熱には戻っていない。
重い気分で身支度を整え、教室へ向かう。
廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちが、いつも以上に私を避けていく気がした。
「おい、あれ……」
「なんか今日、雰囲気違わないか?」
「不燃物のくせに、なんか……生々しいっていうか」
ひそひそ話が聞こえてくる。
私は無視して歩を進めたが、靴箱の前で足を止めざるを得なかった。
私の靴箱の前に、人だかりができている。
その中心には、見覚えのある白金髪の背中があった。
「……何をしているんですか」
私が声をかけると、エレノアがビクリと肩を跳ねさせて振り返った。
その手には、不釣り合いなほど可愛らしいピンク色の封筒が握られている。
「あ、貴女が遅いのが悪いのよ!」
彼女は顔を真っ赤にして、私に封筒を突き出した。
周囲の生徒たちが「えっ、まさか果たし状?」「いや、あれって……」とざわめく。
「今日の放課後! 予約を入れたわよ! 拒否権はないから!」
「……口頭で言えばいいでしょう。なんでわざわざ手紙にするんですか」
「か、形から入るのが貴族の流儀なの!」
エレノアは私の胸に封筒を押し付けると、逃げるように走り去っていった。
その背中からは、隠しきれない湯気が立ち上っている。
残された私は、呆然と封筒を見つめた。
甘い香水の匂いがする。
封筒の裏には、金文字で美しく、こう書かれていた。
『専属契約書(仮)』
「……はあ」
私は深い、深い溜息をついた。
どうやら私の平穏で冷たい日常は、あの熱帯魚のような王女様によって、完全に書き換えられてしまったらしい。
私は封筒をポケット――魔石が入っていたのとは逆のポケットにねじ込み、埃っぽい教室へと足を踏み入れた。
その足取りが、昨日よりもほんの少しだけ軽くなっていることに、私はまだ気づいていなかった。




