第3話:不浄な日常と、甘い毒
制服のポケットに入れた魔石が、歩くたびに太股に当たって不快だった。
純度99パーセントの火属性結晶。
市場価格にして、一般家庭の年収が吹き飛ぶほどの高価な石ころだ。
それが今、私という「不燃物」のポケットの中で、ジャラジャラと安っぽい音を立てている。
「……重いな」
物理的な質量のことではない。
これは「契約」の重さだ。
私は昨日、ただの掃除屋としての領分を超えて、あの天才と個人的なパイプを繋いでしまった。
***
昼時のカフェテリアは、私にとって地獄の釜の底に等しい。
数百人の魔導師の卵たちが発する、未熟な魔力のノイズ。
安っぽい香水、整髪料、そして揚げ油の臭い。
「うわ、見ろよ。不燃物が今日も端っこでカビたパン食ってるぜ」
「視界に入れるなよ。魔力が腐る」
彼らが投げる嘲笑は、私にはどうでもいい。
問題なのは、彼らが吐く息に含まれる「魔塵」だ。
私にはそれが、換気扇の裏にこびり付いた油汚れのように、空間にへばり付いているのが見えてしまう。
私は呼吸を浅くして、味のしないパンを胃に流し込む。
早くここを出て、図書館の無菌室に逃げ込みたい。
だが、その願いは叶わなかった。
カフェテリアの空気が、一瞬で沸騰したからだ。
「キャーッ! エレノア様よ!」
「今日も素敵だわ……まるで太陽みたい」
入り口から、取り巻きを従えた「女王」が入場してくる。
エレノア・フォン・アステール。
完璧にカールされた白金の髪、一点の曇りもない制服の着こなし。
彼女が歩くだけで、生徒たちは海が割れるように道を開ける。
(……よくもまあ、あそこまで虚勢を張れるものですね)
私は冷めたスープを啜りながら、冷ややかな目で観察する。
周囲の人間には「輝くオーラ」に見えているだろうが、私の眼は誤魔化せない。
彼女の首筋からは、陽炎のような排熱漏れが起きている。
指先は痙攣を隠すために強く握り込まれ、優雅な笑顔の下で、奥歯が噛み砕かれそうなほど食いしばられている。
限界寸前だ。
昨夜の私の処置は、あくまで応急処置。
彼女の「炉」は、生きている限り熱を生産し続け、彼女自身を焼き焦がす。
ふと、エレノアが足を止めた。
そして、まるで獲物を探す鷹のように、カフェテリアの隅――私のいる最底辺エリアを睨みつけた。
視線が交差する。
緋色の瞳。
そこに宿っていたのは、優雅さなど微塵もない。
あるのは、薬切れのジャンキーが売人を見るような、血走った渇望だけだった。
(……こっち見ないでくださいよ、面倒な)
私は露骨に目を逸らし、トレイを持って席を立った。
ここで彼女に話しかけられれば、私の平穏な「空気モブ生活」は終了する。
背中に、突き刺さるような熱視線を感じる。
彼女が唇を尖らせ、何か言いかけようとして、取り巻きに阻まれている気配がした。
逃げよう。
今の彼女は、触れば爆発する不発弾だ。
***
放課後のチャイムは、私にとってゴングの音だ。
私は誰よりも早く教室を出て、用具室で愛機『零式』を回収し、旧校舎の最上階へと向かう。
重厚な扉の前。
すでに、廊下の壁紙が湿気で少し浮いていた。
中の惨状が想像できて、私は深い溜息をつく。
ガチャリ、と鍵を開ける。
「遅い!」
開口一番、熱波とともに理不尽な罵倒が飛んできた。
「……チャイムからまだ3分です。瞬間移動をご希望なら、空間魔導士を雇ってください」
「うるさい、うるさい! 1分待つごとに体温が0.1度上がるのよ!」
部屋の中央。
エレノアは制服のリボンを乱暴に解き、シャツのボタンを第二ボタンまで開けて、荒い息を吐いていた。
白い肌が、茹でダコのように紅潮している。
部屋の床には、彼女から零れ落ちた魔力が、紫色のスライム状になって点々と落ちていた。
「……汚いですね」
私は心底嫌そうな声を出した。
「早く、私を冷やして……っ! 頭がおかしくなりそうなの!」
エレノアがふらつく足で私に歩み寄ろうとする。
私はその鼻先に、箒の柄を突きつけた。
「ステイ。お座りください、お嬢様」
「は……? な、なにを……」
「先に部屋の掃除です。こんな埃っぽい空間で施術をすれば、回路に雑音が混じります」
私は彼女を無視して、部屋の四隅から掃き始めた。
サッ、ヒュン、と箒が空気を切る。
澱んでいた魔塵が、私の箒の振動に共鳴し、霧散していく。
「あ、ぅ……」
箒が動くたび、エレノアが小さく声を漏らす。
部屋のノイズが消えていくことが、彼女にとっては「呼吸が楽になる」ことと同義なのだ。
私が空間を磨けば磨くほど、彼女の強張った肩から力が抜けていく。
5分後。
部屋は完璧な静寂を取り戻した。
温度22度、湿度40パーセント。
清浄な空気の中に、エレノアの甘ったるい熱の匂いだけが浮いている。
「……終わりましたよ」
私が告げると同時だった。
エレノアが私に飛びついてきた。
「リナ……ッ!」
「うわ、ちょっ……!」
避けきれなかった。
彼女の全体重が私にのしかかり、二人もつれ合ってソファへ倒れ込む。
熱い。重い。甘い。
彼女の身体は、まるで焼きたてのパンのように熱を帯びている。
私のシャツ越しに、彼女の激しい鼓動が伝わってくる。
「冷やして……早く、リナの手で……っ」
彼女は私の手首を掴むと、自分の首筋へ強引に押し当てた。
「っ……!」
触れた瞬間、私と彼女、双方の喉から短い呼気が漏れた。
冷たい水と、熱い鉄が出会ったような衝撃。
私の指先にある「無」が、彼女の「過剰」を猛烈な勢いで吸い上げていく。
「ん、あぁ……っ、これ……、きもち、いい……」
エレノアの瞳がとろりと濁り、長い睫毛が震える。
彼女は私の腕にしがみつき、もっと触れてくれとばかりに肌を擦り付けてくる。
これは「掃除」だ。
私は自分にそう言い聞かせる。
彼女の体内に詰まったゴミ(魔力)を、私というパイプを通して排出させているだけ。
だが、その行為はあまりにも背徳的だった。
私は彼女の汗ばんだ髪をかき上げ、熱の発生源である「うなじ」に指を食い込ませる。
凝り固まった魔力回路を、物理的に揉みほぐし、流れを整える。
「……いい気味ですね」
私は彼女の耳元で囁いた。
「学園の誰もが崇めるアステール様が、不燃物に触られて、こんなだらしない顔をして」
「うる、さい……。もっと……奥、まで……」
彼女には、もう私の皮肉など届いていない。
ただ快感と、熱が引いていく安らぎに溺れている。
その無防備な姿を見ていると、私の中にあるどす黒い感情が疼くのを感じた。
征服感。
この高慢な天才の生殺与奪の権を、私が握っているという事実。
私が指を離せば、彼女はまた地獄の熱さに苦しむことになる。
(……なんて、歪な)
私は指に力を込める。
彼女の体温が私の身体に流れ込み、私の低い体温を侵食していく。
いつもなら凍えている指先が、彼女の熱でジンジンと痺れている。
それが、悔しいけれど、不快ではなかった。
窓の外では、夕焼けが世界を赤く染めている。
密室には、二人の湿った呼吸音と、衣擦れの音だけが響いていた。
掃除婦と、汚部屋の住人。
私たちの関係は、きっと誰にも理解できない。
けれど、この「甘い毒」のような熱の交換を、私はもう、拒絶できなくなっていた。




