第2話:最初の調律と、氷点下の契約
「……聞こえていないの? 出て行けと言ったのよ」
床に伏したまま、エレノア・フォン・アステールが再度、警告を発した。
その声には、カミソリのような鋭い魔力が乗っている。
普通の人間なら、この威圧だけで三半規管を揺さぶられ、嘔吐して逃げ出すだろう。
だが、あいにくと私は「不燃物」だ。
彼女が放つ高純度の魔力は、私という空っぽの器を素通りしていくだけで、何の感傷も引き起こさない。
「ええ、聞こえていますよ。ですが、却下します」
私は彼女の殺意を無視し、部屋の隅へと歩み寄った。
そこには、紫色の粘液状になった「魔塵」が、巨大な水溜まりのように澱んでいる。
「貴女の命令よりも、私の『雇用主』の命令の方が優先順位が高いので」
「雇用主……?」
「生活費です。……下がっていてください。埃が舞いますよ」
私は相棒の箒『零式』を構えた。
柄を握る手に力を込める。
導魔繊維の一本一本が、私の意志に呼応して微かに展開し、空気中の魔力密度を感知し始める。
(……ひどい振動だ)
私の鼓膜には、この部屋全体が悲鳴を上げているのが聞こえる。
不協和音。
行き場を失った魔力が、互いに干渉し合い、空間そのものを削り取ろうとする金属音。
調律が必要だ。
「――掃引、開始」
私は最初の一撃を振り抜いた。
ザッ、という鋭い音が響く。
箒の穂先が、物理的に存在しないはずの「魔力の澱み」を捉え、空間から引き剥がす音だ。
「は……っ!?」
エレノアが息を呑む気配がした。
無理もない。
彼女たちの常識である魔法は、魔力をもって魔力を制するものだ。
だが私がやっているのは、単純な物理干渉。
魔塵が持つ固有振動数に対し、箒の摩擦で「逆位相」の振動をぶつけ、その存在を中和・消滅させる。
言うなれば、ノイズキャンセリングの暴力的な応用だ。
ヒュン、カッ、ザザッ。
私は踊るように箒を旋回させる。
壁にこびり付いた煤を払い、天井に浮かぶ靄を叩き落とし、床を這う粘液を絡め取る。
私の箒が通った軌跡から、紫色の毒気が消え、透明な空気が戻っていく。
甘ったるい腐臭が、清潔な無臭へと置換される。
「嘘……。魔法も使わずに、どうして……」
エレノアの声から、棘が消えていた。
当然だ。
彼女を苦しめていた耳鳴りも、肌を焼くような不快な湿度も、私がすべて「処理」したのだから。
3分後。
部屋は、新築のモデルルームのように、無機質で完璧な静寂を取り戻していた。
私は額に浮いた汗を拭うこともせず、箒の穂先を検分する。
摩耗率0.02パーセント。許容範囲内だ。
「……これで、概ね片付きましたね」
私は振り返り、部屋の中央で呆然としている天才を見下ろした。
室温は24度まで下がった。
だが、まだ終わっていない。
部屋は綺麗になった。
けれど、最大の「汚染源」が、まだそこに転がっている。
「……なによ。私を見ないで」
エレノアが身を縮める。
部屋の熱は引いたはずなのに、彼女自身の肌はまだ、茹で上がった蛸のように赤い。
肩で息をするたびに、口元から白い蒸気が漏れている。
魔力過飽和。
彼女自身の体内で生成される魔力が、排出を上回って暴走している状態。
いわば、出口のない原子炉だ。
「見たくて見ているわけではありません。……臭うんですよ」
「は……?」
「焦げ臭いんです。貴女がそこにいるだけで、せっかく磨いた床のワックスが変質してしまう」
私は箒を壁に立てかけると、道具袋から清潔な手ぬぐいを取り出した。
そして、ためらうことなく彼女の目の前に跪く。
「ち、近寄らないで! 言ったでしょう、触れたら貴女の手が……」
「溶ける? 大袈裟ですね。せいぜい低温火傷でしょう」
私は彼女の警告を無視し、その震える肩を掴んだ。
「ひっ……!」
「じっとしていてください。排熱処理を行います」
熱い。
服の上からでも、掌が焼けるような熱量を感じる。
だが、私の平熱は35度前半。
この程度の熱なら、むしろ冷え切った指先には心地よいくらいだ。
私は彼女の身体を強引に引き寄せると、その無防備な首筋へと手を伸ばした。
耳の後ろから鎖骨にかけてのライン。
魔導師にとって、最も魔力の排出が活発な「煙突」にあたる部位。
そこが、目詰まりを起こしている。
こびり付いた古い魔力の垢が、新しい魔力の出口を塞いでいるのだ。
「失礼します」
「あ、や……っ!」
私の氷のような指先が、彼女の沸騰する肌に触れた瞬間。
エレノアの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
ジュッ、と幻聴が聞こえるほどの温度差。
砂漠に氷水を垂らしたような衝撃が、彼女の神経を駆け巡ったはずだ。
「……硬い。これでは熱が溜まるのも当然です」
私は事務的に呟き、親指の腹で、硬直した筋肉と魔力回路を揉みほぐし始めた。
物理的なマッサージではない。
私の「空っぽ」の魔力回路をアース(接地)として接続し、彼女の中に溜まった過剰なエネルギーを吸い出す作業だ。
「ん、ぁ……っ、なに、これ……冷たい……」
「喋らないでください。回路がズレます」
私の指先から、濁流のような熱が流れ込んでくる。
それは私の腕を通り、足裏から地面へと逃げていく。
私という導線を通して、彼女の毒が抜かれていく。
エレノアの瞳が、とろんと潤んだ。
苦痛に歪んでいた表情が、薬を与えられた患者のように緩んでいく。
「あ、ふぅ……っ。すご、い……抜けて、いく……」
彼女が私の腕にしがみついてきた。
先ほどまでの拒絶はどこへやら。
今の彼女は、砂漠でオアシスを見つけた遭難者そのものだ。
私の体温(冷たさ)を貪るように、熱い頬を押し付けてくる。
(……やれやれ。これだから天才様は)
私は内心で溜息をついた。
彼女にとって、これは救済なのかもしれない。
だが私にとっては、他人の汗と汚れた魔力を全身で浴びる、不衛生極まりない泥仕事だ。
あとで念入りに手を洗わなければ。
そう考えながらも、私は指を止めない。
首筋の凝りを削ぎ落とし、指を滑らせて背骨のラインをなぞる。
そのたびに、エレノアの身体がビクンと跳ね、甘い吐息が私の耳元にかかる。
「……リナ、もっと……。そこ、もっと強く……」
「注文が多いですね。別料金ですよ」
皮肉を言っても、彼女の耳には届いていないようだった。
彼女は完全に、私の指がもたらす「無」の快感に堕ちていた。
数分後。
完全に熱が引き、穏やかな呼吸を取り戻したエレノアが、私の膝の上でぐったりと脱力していた。
「……終わりましたよ」
私は冷淡に告げ、彼女の身体をカーペットの上に転がした。
私の制服は汗でじっとりと濡れ、指先には彼女の残り香――焦げた砂糖のような甘い匂いが染み付いている。
最悪だ。
今すぐシャワーを浴びたい。
「本日の業務は以上です。……二度とごめんですが」
私は道具をまとめ、早足でドアへ向かった。
この部屋に長居すれば、また新たな「汚れ(トラブル)」に巻き込まれる気がしたからだ。
だが。
ドアノブに手をかけた瞬間、背後から衣擦れの音がした。
「……待ちなさい」
弱い、けれど確かな意志のこもった声。
振り返ると、エレノアがふらつく足で立ち上がり、私の方へ手を伸ばしていた。
その瞳は、もう濁っていなかった。
アトラスの至宝と呼ばれるに相応しい、研ぎ澄まされた緋色。
けれどその奥には、獲物を見つけた肉食獣のような、飢えた光が宿っていた。
「貴女、名前は?」
「……リナ・バニスターです」
「そう。リナ……」
彼女は自分の首筋――私が触れた場所を、愛おしげに指でなぞった。
「明日も来なさい。放課後、この部屋に」
「お断りします。私は臨時の……」
「命令ではないわ。……依頼よ」
エレノアは、ポケットから無造作に何かを取り出し、私の方へ投げた。
キラリと光るそれが、私の足元に転がる。
最高純度の魔石。
市場価格にすれば、私の半年分の生活費が軽く賄えるほどの代物だ。
「私の熱を処理できるのは、学園で貴女だけよ。……金ならいくらでも払う」
彼女は一歩、私に近づいた。
その顔は赤らんでいるが、それは熱のせいだけではないように見えた。
「だから……明日も、私を掃除して。……これは、決定事項よ」
私は足元の魔石と、目の前の面倒な天才を交互に見た。
逃げられない。
私の本能がそう告げていた。
私は今日、ただのゴミ拾いのつもりで、とんでもなく巨大な「粗大ゴミ」を拾ってしまったのかもしれない。
「……床を汚さないと誓うなら、考えておきます」
私は魔石を拾い上げ、埃を払うように拭ってからポケットに入れた。
それが、私と彼女の、歪な共犯関係の始まりだった。




