第17話:魔力酔いの夜、溶け落ちる境界
夜の静寂を、不作法な轟音が引き裂いた。
午前二時。
女子寮の硬いベッドの上で、私が天井のシミを数え始めてから三時間が経過していた頃だ。
ドォォォォン……!
地響きと共に、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。
地震ではない。
この振動の波長、そして空気中に急速に充満し始めた、焦げた砂糖のような甘ったるい重圧感。
「……馬鹿な」
私は布団を跳ね除け、窓を開けた。
夜空の一角、特別寮の方角が、毒々しい緋色に染まっている。
まるで、そこだけ世界が炎症を起こしているかのように。
私の鼻孔が、風に乗って運ばれてきた「煤」の臭いを捉えた。
間違いない。
あのアステールの女王様だ。
彼女の炉心が、制御を失って暴走している。
(……自業自得です)
私は窓枠を握りしめた。
今日は行かないと決めた。契約は見直すと告げた。
彼女には完璧な婚約者がいて、私のような不衛生な冷却剤はもう不要なはずだ。
この暴走も、きっと彼が――ジークフリート様が、颯爽と現れて鎮火するに決まっている。
そう自分に言い聞かせ、窓を閉めようとした。
キン。
枕元に置いてあった真鍮の鍵が、余震で落ちて乾いた音を立てた。
昼間、噴水から拾い上げた302号室の合鍵。
まだ微かに、水垢の臭いが残っている。
「……チッ」
私は舌打ちをし、制服の上着だけを掴んで部屋を飛び出した。
理屈じゃない。
あの鍵の音が、まるで助けを求めるノックの音のように聞こえてしまったからだ。
***
特別寮の前は、すでに阿鼻叫喚の巷と化していた。
「下がれ! 結界班、何をしている!」
「駄目です、熱量が異常すぎて結界が溶かされます!」
教師たちが杖を構え、怒号を飛ばしている。
野次馬の生徒たちは、遠巻きにパジャマ姿で震えていた。
302号室の窓からは、紅蓮の炎のような魔力が噴き出し、外壁の石材を赤熱させている。
「……おい、そこの生徒! 近づくな!」
バリケードを突破しようとした私を、男性教師が怒鳴りつけた。
「死にたいのか! 中の温度は推定1000度を超えているぞ! 人間が近づける領域じゃない!」
「だからこそです。可燃物が近づけば燃え広がりますが、私は不燃物ですので」
私は教師の腕をすり抜け、熱波の渦中へと踏み込んだ。
熱い。
肌がジリジリと焼ける。
髪の毛先がチリチリと縮れるのが分かる。
だが、それだけだ。
私の体温は、この灼熱の中でも頑固に「低温」を維持している。私の魔力回路が、外部の熱エネルギーを完全に遮断しているからだ。
階段を駆け上がる。
廊下の絨毯は炭化し、壁紙は剥がれ落ちていた。
302号室の前。
重厚なオーク材の扉は、すでに半ば炭と化していた。
鍵穴など、もう意味をなしていない。
私は焼け焦げた扉を蹴り破った。
ドゴォ!
中に入った瞬間、視界が歪んだ。
蜃気楼ではない。魔力の濃度が高すぎて、空間そのものがねじれているのだ。
家具は原形をとどめていない。
ベッドも、ソファも、あの高級なペルシャ絨毯も。
すべてがドロドロに溶け合い、極彩色の泥となって床を這っている。
「……あ、は……」
部屋の中央。
唯一、焼け残った場所に、彼女はいた。
エレノア・フォン・アステール。
ドレスは引き裂かれ、肌は汗と魔力で濡れそぼっている。
彼女は床に座り込み、空になったワインボトル――いや、魔力回復薬の瓶を握りしめていた。
魔力酔い。
自身の排出する魔力と、外部から摂取した魔力が体内で衝突し、脳の制御中枢を麻痺させている状態。
人間で言うところの、泥酔状態だ。
「……だぁれ?」
彼女が虚ろな目で私を見た。
緋色の瞳は焦点が合わず、とろんと濁っている。
頬は熟れすぎたトマトのように赤い。
「……リナ・バニスターです。あなたの元・清掃係ですよ」
私はハンカチで口元を覆い、彼女に近づいた。
ひどい臭いだ。
焦げた匂いの中に、腐った果実のような発酵臭が混じっている。
彼女の吐き出す息そのものが、高濃度の毒ガスになりかけている。
「リナ……?」
彼女が首を傾げ、へらりと笑った。
「うそつき。……リナは、もう来ないの」
「……」
「あの子、私を捨てたのよ。……私が熱すぎるから。私が、あの子をいじめたから……」
エレノアは瓶を放り投げた。
ガシャン、と音がして、破片が飛び散る。
「全部、壊れちゃえ。……綺麗なものなんて、私には似合わない」
彼女が手を振ると、紫色の炎が鞭のようにしなり、残っていたカーテンを焼き払った。
「あーあ……暑いなぁ。……ねえ、氷、ないの?」
彼女は自分の服をまさぐり、肌を掻きむしった。
白い肌に、赤い爪痕が残る。
自傷行為だ。
体内の熱を逃がそうとして、無意識に出口を探している。
「誰か……冷やしてよぉ……。溶けちゃう……私が、なくなっちゃう……」
子供のような泣き声。
ジークフリート様はどうした。
王都へ行ったのではなかったのか。
なぜ、彼女はこんな夜中に一人で、自分の熱に溺れているのか。
(……決まっています。彼には無理だったんです)
私は確信した。
あの清潔な貴公子に、この泥のような汚濁は処理できない。
彼女のこの、見苦しくて、臭くて、どうしようもない「生ゴミ」のような本音を受け止められるのは、同じくらい薄汚れた掃除屋だけだ。
「……馬鹿な人」
私は、炎の輪を越えて彼女の前に立った。
靴底が熱で溶け、床に張り付く感触がする。
「氷なら、ここにありますよ」
私は手袋を脱ぎ捨て、彼女の真っ赤な顔を両手で挟み込んだ。
ジュウッ!!
激しい音がして、私の掌から白煙が上がった。
ステーキ肉を鉄板に乗せたような音だ。
熱い。痛い。
だが、私は手を離さない。
「ひゃっ……!?」
エレノアがビクンと身体を震わせ、見開かれた目で私を見た。
「つ、冷た……っ! あ、あぁ……」
彼女の瞳孔が収縮する。
強烈な温度差が、酩酊していた彼女の脳を強制的に覚醒させる。
「リ、ナ……?」
「はい。不燃物です」
「なんで……? もう、来ないって……」
「ゴミ出しの日を間違えました。こんな粗大ゴミ、放置しておいたら近所迷惑です」
私は彼女を引き寄せ、そのまま床に押し倒した。
ドロドロに溶けた床の感触が背中に広がるが、構わない。
「じっとしていてください。今夜は徹底的に冷やします。……あなたの脳味噌が凍りつくまで」
「ぁ……うん……っ」
エレノアが私の首に腕を回した。
その力は強く、痛いほどだ。
彼女の全身から、堰を切ったように熱が流れ込んでくる。
いつもとは桁違いの熱量。
私の内臓まで焼け付きそうな奔流。
だが、不思議と不快ではなかった。
これは彼女の命だ。
寂しさと、後悔と、愛情が混ざり合って暴走した、彼女の魂の温度だ。
「……ごめん、なさい……」
エレノアが私の胸元で泣きじゃくった。
「行かないで……。私、貴女がいないと、息もできないの……」
「……分かっています」
私は彼女の汗ばんだ髪を撫でた。
その髪には、まだあの青いヘアピンがしがみついていた。
熱でガラス玉はひび割れ、金具は黒く変色しているが、それでも奇跡的に形を留めている。
それを見たら、もう観念するしかなかった。
私は彼女を掃除するために来たのではない。
私もまた、この熱に焼かれたくて戻ってきたのだと。
崩壊した部屋の中心で、私たちは泥と煤にまみれて抱き合った。
外では教師たちの叫び声が聞こえるが、私たちには関係のないノイズだった。
今夜、この部屋は世界で一番汚くて、そして世界で一番温かい場所だった。




