第16話:鏡の中の自分と、分相応な寒気
洗面所の鏡に映っていたのは、幽霊のように色のない女だった。
ボサボサの栗色の髪、血の気のない肌、そして死んだ魚のように濁った灰色の瞳。
制服の袖口には、いつものように魔塵の黒い煤がついている。
何度洗っても落ちない、掃除屋の刻印。
「……ひどい顔」
私は自分の頬を指で突いた。
冷たい。
まるで死体に触れているようだ。
昨日まで、この頬には「他人の熱」が残っていたはずなのに。
今はもう、完全に冷却され、私の本来の温度――不快なほどの低温に戻っている。
これが、正常だ。
私は不燃物。誰の熱も受け取らず、誰にも熱を与えず、ただ世界の隅っこで埃を払うだけの存在。
あの数週間が、異常なシステムエラーだっただけなのだ。
私は冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分に言い聞かせた。
(分相応に戻っただけです。……何も、失ってなどいない)
蛇口を閉める手が、微かに震えていたことには気づかないふりをした。
***
教室に入ると、そこは完璧な「平穏」に満ちていた。
数日前まで私の席に向けられていた好奇心や悪意の視線は、きれいさっぱり消滅している。
誰も私を見ない。
私がそこに存在しないかのように、視線が素通りしていく。
それが、私が望んでいた「空気としての日常」のはずだった。
なのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。
肺の中がスカスカして、酸素がうまく取り込めない。
「……アステール様、今日はお休みだって」
「婚約者の方と、王都へ外出されたらしいわよ」
風の噂が聞こえてくる。
エレノアはいない。
あの圧倒的な熱源がいない教室は、空調が効きすぎたオフィスのように寒々しかった。
私は教科書を開いた。
文字が意味をなさず、ただのインクの染みに見える。
王都。外出。
きっと、あの完璧な銀髪の青年と並んで歩いているのだろう。
彼女のドレスは汚れない。
彼女の癇癪は、彼の上質な魔力循環によって穏やかに宥められる。
私が、痛みを伴う研磨剤で削り取るしかなかったあの黒い澱みも、彼なら優雅な魔法一つで浄化できる。
「……合理的ですね」
独り言が、乾いた音を立てて床に落ちた。
私が彼女にしてあげられることなんて、物理的な掃除と、一時しのぎの冷却だけ。
そんなものは、最新鋭の空調システム(彼)の前では、団扇で仰ぐような原始的な行為に過ぎない。
(これでいい。……契約終了です)
私は鉛筆を握りしめた。
芯がパキリと折れる音が、やけに大きく響いた。
***
放課後。
私は特別寮へは向かわず、図書館の「沈黙の書庫」へと足を運んだ。
ここは学園で最も静かで、最も埃っぽい場所。
古書の紙魚と、乾燥した紙の匂い。
私の安息の地。
「……あら。久しぶりね、リナ」
カウンターの奥から、老婆の声が響いた。
司書長のロレッタ。
盲目の彼女は、虚空を見つめたまま、編み物をしている。
「今日は一人? ……最近、騒がしい『熱』を引き連れていたようだけれど」
「……ええ。不良品は返品されました」
私はいつも通り、一番奥の閲覧席――柱の影の隙間に潜り込んだ。
ここなら誰にも見つからない。
膝を抱えて座り込む。
静かだ。
静かすぎて、耳鳴りがする。
いつもなら、この時間は302号室にいた。
扉を開ければ熱風が吹き、わがままな女王様が罵倒し、そして最後には甘ったるい声で私を求めた。
あの不快で、騒がしくて、愛おしいノイズ。
それがない世界は、まるで真空パックされたように無味乾燥だった。
「……リナ」
いつの間にか、ロレッタが近くに来ていた。
彼女は私の前の席に座り、見えない目でじっと私の方を向いた。
「貴女、泣いているの?」
「は? まさか。……埃が目に入っただけです」
「そう。……でも、貴女の周りの空気が湿っているわ」
彼女は痩せた指先で、空間をなぞった。
「貴女はずっと、自分を『空っぽの器』だと思っていたでしょう。でもね、器ってのは、何かを入れた後に初めて『空っぽになった』と気づくものよ」
「……禅問答なら他を当たってください」
「熱を知ってしまった氷はね、もう元の氷には戻れないの。……ただの水になるだけ」
ロレッタの言葉が、鋭い針のように胸に刺さった。
私はもう、ただの不燃物ではない。
「融けてしまった」何かだ。
自分の形を保てず、冷たい床に広がって、乾くのを待っているだけの水たまり。
「……私は、掃除屋です」
私は震える声で反論した。
「汚い部屋を綺麗にするのが仕事です。……あの部屋はもう、私がいなくても綺麗に保たれる。なら、私の仕事はありません」
「本当にそう思う?」
「思います。……私なんかがいたら、美観を損ねるだけだ」
昨日の、ジークフリートとエレノアの並ぶ姿が脳裏に焼き付いている。
白と銀。光と光。
そこに、煤けた灰色の私が入り込む余地なんて、数ミリたりともなかった。
私は逃げるように席を立ち、図書館を出た。
背中で、ロレッタの深いため息が聞こえた。
***
寮への帰り道。
私は無意識に、ポケットの中を探っていた。
指先が触れたのは、硬くて冷たい金属の感触。
302号室の合鍵。
エレノアが『いつでも入りなさい』と投げてよこした、真鍮の鍵。
返さなければならなかった。
昨日、あんな風に喧嘩別れしたのだから、これはもう不法所持だ。
「……捨てましょう」
私は中庭の噴水の前で足を止めた。
この水底に沈めてしまえば、すべて終わる。
私はまた、ただのリナ・バニスターに戻り、彼女は高潔なアステール王女に戻る。
あるべき場所へ。あるべき形へ。
チャポン。
軽い音がした。
投げたのではない。
私の手から、鍵が滑り落ちたのだ。
水紋が広がり、金色の鍵がゆらゆらと沈んでいく。
「あ……」
身体が勝手に動いていた。
私は噴水の中に手を突っ込み、沈んでいく鍵を必死で掴み取った。
袖が濡れる。
冷たい水が、肌を刺す。
「……っ、はぁ、はぁ……」
私は濡れた鍵を握りしめ、その場にうずくまった。
何をしているんだ、私は。
捨てると決めたのに。
頭では分かっているのに、身体が拒絶している。
この鍵を失ったら、私は本当に彼女との繋がり(パス)を失う。
その恐怖が、プライドも理性も全部吹き飛ばしてしまった。
「……みっともない」
濡れた鍵は、私の体温を奪ってさらに冷たくなっていた。
でも、微かに残る「焦げ臭い匂い」がした。
エレノアが持っていた時に染み付いた、あの過剰な熱の記憶。
私は鍵を胸に抱き、誰もいない中庭で、声を押し殺して泣いた。
自分がこんなに惨めで、こんなに未練がましい人間だなんて知りたくなかった。
鏡の中の自分は、私が思っていたよりもずっと、あさましくて、寂しがり屋だったのだ。




