第15話:高潔な異物と、分相応な嫉妬
病み上がりの私の嗅覚は、いつも以上に敏感になっていた。
教室の扉を開けた瞬間、鼻孔を突いたのは、いつもの埃っぽい日常臭でも、エレノアの甘ったるい熱気でもない。
もっと人工的で、完璧に滅菌された「高級な石鹸」のような匂い。
異物だ。
この雑多な学園という生態系には存在し得ない、純白の異物が混入している。
「……おはよう、リナ。顔色はもういいの?」
私が席に着くや否や、前の席の女子生徒が話しかけてきた。
珍しい。いつもなら私を空気か不燃ゴミのように扱う連中が、今日は妙に浮足立っている。
「ええ、まあ。……何かありましたか? 空気が妙に澄んでいますが」
「あら、知らないの? 今日、アステール様のお客様がいらしてるのよ」
彼女は頬を紅潮させ、窓の外を指差した。
「隣国の公爵家のご子息、ジークフリート様よ。……噂通りの美貌だわ」
中庭を見下ろす。
そこには、一枚の絵画のような光景が広がっていた。
新緑の芝生の上、白いガーデンテーブルを挟んで、二人の人物が向かい合っている。
一人は、私のよく知る「熱源」――エレノア。
そしてもう一人は、銀髪を短く刈り揃えた、背の高い青年だった。
遠目でも分かる。
彼の周囲には、塵一つ漂っていない。
完璧な魔力制御。
体外への魔力漏出はゼロ。完全に循環し、浄化された、クリスタルのような輝き。
(……綺麗ですね)
私は無意識に、自分の掌を見た。
袖口には、いつものように黒い魔塵の染みがついている。
洗っても落ちない、掃除屋の刻印。
あの中庭の世界と、私のいる教室の世界。
その間には、透明だが絶対に越えられない、分厚い強化ガラスの壁があるように思えた。
***
昼休み。私は逃げるように図書館の最奥へ向かった。
だが、運命というのは残酷なもので、私が一番会いたくない人物たちもまた、人目を避けてそこへ来ていたらしい。
書棚の陰から、話し声が聞こえる。
「……エレノア。君の魔力、少し落ち着いたんじゃないか?」
穏やかで、知的で、耳に心地よい低音。
ジークフリートの声だ。
「以前は近づくだけで肌が焼けるようだったが……今は、心地よい温かさだ」
「……ええ。優秀な『清掃用具』を見つけましたので」
エレノアの声は硬かった。
いつもの私に対する甘えた声色とは違う、仮面を被った王女の声。
「清掃用具? ああ、専属のメイドか何かかい?」
「……そんなところです」
「結構なことだ。だが、君のその過剰な出力は、いずれ君自身を滅ぼす。僕との『同調』なら、もっと根本的に解決できるはずだよ」
ジークフリートの言葉に、空気がピリリと振動した。
同調。
高位の魔導師同士が魔力回路を接続し、互いの魔力を循環・浄化させる儀式。
それは事実上の「婚約」を意味する。
(……なるほど。合理的ですね)
私は本棚の隙間から、彼らの姿を盗み見た。
ジークフリートが、エレノアの手を取ろうとしている。
その手は白く、長く、美しい。
私の、荒れて冷たい、死人のような手とは大違いだ。
彼なら、エレノアの熱を受け止められるのだろうか。
私のように「捨てる」のではなく、「循環」させて、彼女を高めることができるのだろうか。
それが、彼女にとっての本当の幸せなのかもしれない。
私のようなゴミ箱に熱を捨て続けるより、宝石箱の中で輝く方が、彼女には相応しい。
「……触らないで」
冷徹な拒絶の声が響いた。
エレノアが、彼の手を払い除けていた。
「あら、ごめんなさい。……静電気が起きたわ」
「……随分と、ガードが堅いね」
「私、神経質なもので。他人の手垢がつくのが嫌いなんです」
彼女は氷のような微笑を浮かべ、自分の右手――私がいつも触れるその手を、左手で隠すように庇った。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
彼女は拒んでいる。
あんなに完璧な相手を。
私の冷たい手なんかに執着して、正解を遠ざけている。
それは、愚かなことだ。
不合理で、非生産的で、……どうしようもなく、嬉しいと思ってしまった自分が嫌だった。
私は音を立てないように、その場を去った。
背中を向ける私の足取りは、病み上がりの身体には重すぎた。
***
放課後の特別寮。302号室。
私が部屋に入ると、エレノアはドレスを脱ぎ捨て、下着姿でソファに突っ伏していた。
「……疲れた。最悪。二度と来ないでほしいわ」
彼女は枕に顔を埋め、悪態をついた。
部屋の温度は適温だ。
魔力の暴走はない。彼女自身が、必死に制御していたのだろう。
「優秀な婚約者様でしたよ。魔力制御も完璧、容姿端麗、家柄も申し分なし。……優良物件じゃないですか」
私は鞄を置き、わざと事務的な口調で言った。
心がささくれ立っているのが自分でも分かる。
その棘を、言葉に乗せて彼女に刺そうとしている。
「……なに、その言い方」
エレノアが顔を上げ、私を睨んだ。
「貴女も見たの? あいつの、あの気取った顔。……『君の魔力を浄化してあげる』ですって。大きなお世話よ」
「事実でしょう。私のような一時しのぎの冷却剤より、彼のような循環システムの方が、長期的には安定します」
「は……?」
エレノアが起き上がった。
その瞳から、険しい色が消え、傷ついたような色が浮かぶ。
「何言ってるの? リナ、貴女……私にあいつと結婚しろって言うの?」
「それがアステール家のためであり、あなた自身のためです。……私はただの掃除屋です。いつまでもあなたの熱処理係でいられる保証はありません」
嘘だ。
ずっと処理していたいと思っているくせに。
あの青いヘアピンをつけた彼女の髪を、誰にも触らせたくないと思っているくせに。
でも、言わなければならない。
私は「不燃物」だ。
燃えるゴミと一緒にいれば、いずれ私も燃え尽きるか、彼女の輝きを煤で汚してしまう。
「……ふざけないで」
エレノアが立ち上がり、私に詰め寄った。
「私が誰のために……っ、誰の手なら許せると思ってるのか、分からないの!?」
「分かりませんね。私はあなたの所有物ではありませんし、あなたは私の主人でもない」
私は冷たく言い放ち、彼女から目を逸らした。
「契約書を見直しましょう。……正規のパートナーが見つかるまでの、つなぎの契約だったはずです」
パチン。
乾いた音が響いた。
私の頬が熱い。
叩かれたのだと理解するのに、数秒かかった。
エレノアの手が震えている。
その瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「……出て行って」
彼女の声が震える。
「貴女なんか……大嫌い。ただの掃除用具のくせに……私の気持ちを、勝手に決めつけないでよ!」
ドォン!
感情の爆発とともに、彼女を中心とした衝撃波が部屋を揺らした。
窓ガラスにヒビが入る。
花瓶が割れ、水が床に広がる。
彼女の制御が外れた。
完璧だった魔力循環が乱れ、赤黒い熱が部屋中を埋め尽くしていく。
「……分かりました。本日の業務は中止します」
私は叩かれた頬を押さえ、一礼した。
痛みはない。
ただ、胸の奥に空いた穴に、冷たい風が吹き抜けていくだけだ。
私は逃げたのだ。
彼女の熱さと、真正面から向き合うことから。
自分のみじめな劣等感を守るために、彼女を傷つけた。
扉を閉める瞬間、背後で何かが壊れる音と、獣のような嗚咽が聞こえた。
私は振り返らなかった。
振り返れば、二度とこの冷たい世界に戻ってこられなくなる気がしたからだ。
廊下を歩く私の影は、いつもより濃く、そして長く伸びていた。
ポケットの中の、彼女に貰った金貨袋が、今はただの鉛のように重かった。




