第14話:逆転のメンテナンスと、手渡された熱
意識が浮上した瞬間、私は自分が「焼却炉」の中に放り込まれたのだと錯覚した。
熱い。
全身の皮膚がヒリヒリと痛み、視界が熱気で揺らいでいる。
だが、不思議と不快な臭いはしない。
代わりに鼻孔を満たしていたのは、高級な花の蜜を煮詰めたような甘ったるい香りと、日向に干した布団のような暴力的な安心感だった。
「……ん、ぅ……」
重い瞼を持ち上げると、そこは私の知らない天井だった。
天蓋付きのベッド。最高級のシルクの帳。
そして、私の胸元にのしかかる、白金色の重り。
「……すー……すー……」
エレノア・フォン・アステールが、私の上に覆いかぶさるようにして眠っていた。
彼女の四肢は私の身体に絡みつき、タコのような吸着力で密着している。
熱源はこれか。
彼女の体温が、私の冷え切った血管に直接流し込まれている。
(……重い。暑い。動きにくい)
三重苦だ。
本来ならすぐに突き飛ばして換気を行うべき状況だが、私の身体は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だった。
どうやら、昨日の雨で私のシステム(肉体)は深刻なエラーを起こしているらしい。
「……あ、リナ……?」
私の微かな身じろぎに反応して、エレノアがぱちりと目を開けた。
至近距離。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離で、緋色の瞳が私を捉える。
「気がついた? 気分は? まだ寒い?」
彼女は飛び起きると、私の額に自分の額をゴン、と押し付けてきた。
「……あつっ」
「うーん、まだ少し高いわね。私の平熱と同じくらいあるわ」
彼女の平熱は38度台後半だ。つまり、私は高熱を出しているということになる。
私の平均体温からすれば、これは炉心融解に近い緊急事態だ。
「……水、を」
「あっ、待ってて! 今、持ってくるから!」
エレノアはベッドから飛び降りると、バタバタと部屋の中を走り回った。
優雅さの欠片もない。
彼女は銀のポットを掴み、コップに水を注ごうとして――盛大にこぼした。
高級そうなペルシャ絨毯が濡れていく。
「……何やってるんですか」
「う、うるさいわね! 慣れてないのよ、看病なんて!」
彼女は顔を真っ赤にして、半分ほどになった水を私に差し出した。
私は震える手でそれを受け取り、一気に飲み干す。
ぬるい。
彼女が持ったせいで、水温が上がっている。だが、今の私にはそのぬるさが喉に優しかった。
「……ありがとうございます」
「べ、別に。……契約だからよ」
エレノアはベッドの縁に腰掛け、そっぽを向いた。
その耳が赤い。
「貴女が壊れたら、私の熱を処理する人間がいなくなるもの。だから、これは私のメンテナンスの一環よ」
「……そうですか。随分と手荒なメンテナンスですが」
私はため息をつき、身体を起こそうとした。
だが、平衡感覚が戻らず、ぐらりと上半身が揺れる。
「っと……」
「危ない!」
エレノアが私を支えた。
彼女の腕が私の背中に回る。
いつもなら、私が彼女を支え、彼女の熱を吸い取る側だ。
立場が逆転している。その違和感が、熱とは別のむず痒さを生んでいた。
「……寝てなさいよ。顔色、まだ土気色よ」
「そういう仕様です。……それより、着替えを。この服、汗で汚れています」
私が着ているのは、昨日の濡れた制服ではなく、エレノアのものと思われる大きめのネグリジェだった。
だが、一晩中彼女という暖房器具に抱きつかれていたせいで、寝汗でぐっしょりと濡れている。
不快だ。
自分の汚れほど許せないものはない。
「だめ。動くと熱が上がるわ」
「でも、気持ち悪いんです。汗が冷えて、また風邪を……」
「じゃあ、私が拭いてあげる」
エレノアは洗面器とタオルを持ってきた。
お湯からは湯気が立っている。
「……は?」
「だから、身体。拭いてあげるって言ってるの」
「お断りします。私は掃除屋です。掃除される側になる趣味はありません」
「問答無用! これは王女命令よ!」
彼女は強引に私のネグリジェのボタンに手をかけた。
抵抗しようとしたが、病人の筋力では、魔力強化された彼女の腕力に勝てるはずもなかった。
はだけられる胸元。
冷たい空気に肌が触れ、鳥肌が立つ。
だが、すぐに熱いタオルが押し当てられた。
「……ん」
思わず声が漏れた。
気持ちいい。
適温に絞られたタオルが、私の肌のべたつきを拭い去っていく。
エレノアの動きは慎重だった。
壊れ物を扱うように、優しく、丁寧に。
いつも私が彼女にするように、首筋から鎖骨、そして腕へと拭き下ろしていく。
「……貴女、痩せすぎよ」
彼女が私のあばら骨をなぞりながら呟いた。
「ちゃんと食べてるの? 食堂のパンの端っこばかり食べてるから、こんなに薄っぺらいのよ」
「……燃費が良いんです。あなたみたいに、無駄にカロリーを熱変換していませんから」
「憎まれ口だけは元気ね」
彼女は苦笑し、タオルを洗い直した。
ジャボ、ジャボという水音が、静かな部屋に響く。
不思議な感覚だった。
誰かに身体を綺麗にしてもらうなんて、いつ以来だろう。
記憶にない。孤児院時代ですら、自分のことは自分でやるのが鉄則だった。
彼女の手は熱い。
でも、その熱さが、今は「害」ではなく「救い」になっている。
彼女の指先が触れるたび、私の凍えていた細胞が一つずつ解凍されていくようだ。
「……よし、背中向けて」
言われるがままに背中を向ける。
温かいタオルが背骨を滑る。
そこは、私がいつも彼女の「澱み」を押し出すラインだ。
「リナの背中、小さいわね」
「……」
「こんな背中で、私の全部を受け止めてたのね」
エレノアの声が湿り気を帯びた。
彼女の手が止まる。
タオル越しの熱が、じわりと背中に染み込んでくる。
「……ごめんね」
小さな謝罪。
「私、自分のことばっかりで。……貴女が無理してるの、気づかなかった」
「無理などしていません。対価分の仕事をしただけです」
「嘘つき。……昨日の貴女、死にそうな顔してた」
彼女はタオルを置き、私の背中に素手で触れた。
そして、後ろからぎゅっと抱きついてきた。
「……エレノア?」
「このまま。……少しだけ」
彼女の額が、私の肩甲骨のあたりに押し付けられる。
「私ね、自分の熱が嫌いだった。触れるもの全部壊して、傷つけて……呪いみたいだと思ってた」
彼女の吐息が背中にかかる。
「でも、今日初めて思ったの。……この熱があって良かったって」
「……どうして」
「だって、こうして貴女を温められるじゃない」
彼女は私の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
熱い。
私の氷のような指先が、彼女の熱でジンジンと痺れる。
それは魔力の強制排出ではない。
ただの、体温の譲渡。
「いつもは貴女が吸い取ってくれるけど、今日は私が貴女にあげる。……私の有り余るエネルギー、全部使って、貴女を治してあげる」
傲慢で、不器用で、どうしようもなく温かい宣言。
私は目頭が熱くなるのを感じた。
風邪のせいだ。
涙腺の制御機能までイカれているらしい。
「……迷惑です。そんな高熱、受け取ったらオーバーヒートします」
「ふふ。じゃあ、二人で一緒に燃えちゃいましょうか」
エレノアは楽しそうに笑い、私の手を強く握り返した。
窓の外では、まだ冷たい雨が降り続いている。
世界中が湿気に沈む中、この部屋だけが、過剰なほどの乾燥と熱に守られていた。
私は彼女の体温に身を委ねた。
これはメンテナンスではない。
一方的な「救済」だ。
私が彼女を掃除しているつもりで、いつの間にか、私の方が彼女の熱によって「生かされている」のかもしれない。
そんな弱気な思考が頭をもたげた時だった。
コン、コン。
無粋なノックの音が、部屋の静寂を切り裂いた。
エレノアの身体が強張る。
空気の温度が一瞬で下がる。
「……アステール様。旦那様より、急ぎの書簡をお持ちしました」
扉の向こうから聞こえたのは、冷徹な執事の声だった。
エレノアが私から離れる。
剥がされた背中が、急激に寒さを訴える。
彼女はネグリジェの襟を正し、一瞬で「女王」の顔を作った。
「……入りなさい」
許可と共に扉が開く。
入ってきた老執事は、ベッドの上の私を一瞥もしなかった。
まるで、そこに置かれた家具か、あるいは処理されるべきゴミを見るような目で。
「本家より通達です。……来週末、婚約者候補との顔合わせが行われます」
その言葉は、部屋に残っていた温かな空気を、一瞬で凍りつかせるには十分だった。
エレノアの拳が、シーツを握りしめて震える。
私はただ、自分の手のひらに残る彼女の熱の余韻を、消えないように握りしめることしかできなかった。
つかの間の平穏なメンテナンスは、唐突な外部要因によって強制終了されたのだ。




