第13話:冷たい雨と、故障した不燃物
空から降ってくるのは、ただの水ではなかった。
それは大気中の塵埃と、行き場を失った魔素を吸着して重くなった、液状の「泥」だ。
雨。
この世界で最も憂鬱な清掃作業。
湿度は98パーセント。私の不快指数は計測不能を起こしている。
私は傘もささずに、特別寮への道を歩いていた。
ささなかったのではない。突風で骨組みがへし折れて、ただの産業廃棄物になったからだ。
「……寒い」
歯の根が合わない。
制服が肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。
視界が少し揺れている。
雨粒がレンズに付着したせいだと思いたいが、どうやら私の脳内ジャイロセンサー自体が不調をきたしているらしい。
足が重い。
一歩踏み出すたびに、鉛の靴を履いているような疲労感が襲う。
休みたい。寮に帰って、布団に包まって泥のように眠りたい。
けれど、行かなければ。
あの部屋には、私がいないと暴走する「熱源」が待っている。
私がサボれば、彼女はまた一人で、自分の熱に焼かれて窒息してしまう。
(……メンテナンス不足の機械ほど、手のかかるものはありませんね)
私は自嘲気味に笑おうとして、咳き込んだ。
喉の奥が鉄錆のようにイガイガする。
どうやら、私のポンコツな体は、防水仕様ではなかったらしい。
***
302号室の前で、私は呼吸を整えた。
大きく吸って、吐く。
肺の中でゼイゼイという異音がするが、無視する。
私はプロだ。顧客の前で不調を見せるなど、三流のすることだ。
ノックをする。
いつも通りのリズムで。……いや、少し弱かったかもしれない。
「入りなさい」
中から聞こえた声は、いつもより少し弾んでいた。
ガチャリと扉を開ける。
瞬間、ムワッとした熱気が、冷え切った私の顔を叩いた。
「遅いじゃない。雨だからって……って、ちょっと!」
ソファで待ち構えていたエレノアが、飛び上がらんばかりに驚いた。
それもそのはずだ。
今の私は、水浸しの野良犬のような有様だろう。
濡れた髪からは水滴が滴り、高級な絨毯に黒いシミを作っている。
「な、何よその恰好! びしょ濡れじゃない!」
「……途中で傘が壊れまして。申し訳ありません、床を汚しました」
私は淡々と謝罪し、鞄からタオルを取り出そうとした。
だが、指先に力が入らない。
鞄が手から滑り落ち、ドサリと重い音を立てた。
「……あ」
拾わなければ。
そう思うのに、膝が笑って言うことを聞かない。
視界がぐにゃりと歪む。
世界が回転し、天井と床が入れ替わる。
「リナ!?」
エレノアの悲鳴が聞こえた。
次の瞬間、ドン、という衝撃ではなく、ふわりと柔らかい熱に包まれた。
エレノアが私を抱きとめていた。
熱い。
いつもなら火傷しそうだと顔をしかめるその熱が、凍えた今の私には、命綱のように温かく感じられた。
「ちょっと、どうしたの!? しっかりしなさい!」
彼女の手が、私の頬に触れる。
「……っ、冷たッ!」
彼女が驚愕に目を見開いた。
私の肌は、死人のように冷え切っていたらしい。
だが、体の内側――コアの部分だけが、異常な熱を持って暴走している。
「貴女……壊れたの?」
「……故障ではありません。一時的な……システムエラーで……」
「黙ってて! こんなに震えてるじゃない!」
エレノアは私を横抱きに抱え上げた。
嘘だろ。
華奢な見た目のどこにそんな腕力があるのか。いや、これは火事場の馬鹿力ならぬ、魔力強化か。
彼女は私を乱暴にベッドへ放り投げた。
ふかふかの羽毛布団が、私の体を飲み込む。
「待ってて。今、医者を……」
「だめ……です」
私は彼女の袖を掴んだ。
掠れた声で、必死に止める。
「医者を呼んだら……私のことがバレます。……ただの風邪です。寝れば、治ります……」
「でも!」
「契約違反……ですよ。私の掃除以外で、他人を部屋に入れないで」
こんな時まで、私は商売道具としての理屈を並べ立てた。
エレノアは唇を噛み締め、オロオロと部屋を見回した。
完璧な女王様が、今はただのパニックになった少女だ。
「ど、どうすればいいの……。温めればいいの? 冷やせばいいの?」
「……寒いです」
「わ、分かった! 温める!」
彼女は部屋中の暖房用魔石を最大出力にした。
室温が急激に上昇する。
これではサウナだ。だが、私の悪寒は止まらない。
ガチガチと歯が鳴る。
「まだ震えてる……。どうして……」
エレノアがベッドの脇に膝をつき、私の手を握りしめた。
その手は熱い。
けれど、私の冷たさに負けて、彼女の手まで震えているように見えた。
「私が……温めるしか……」
彼女は決心したように頷くと、靴を脱ぎ捨て、ベッドに這い上がってきた。
そして、布団の中に潜り込み、濡れたままの私を背後からぎゅっと抱きしめた。
「……っ、アステール、様……?」
「黙ってて。……貴女がいつも私にするみたいに、私が貴女を熱くしてあげるから」
背中に密着する、彼女の柔らかな膨らみと、圧倒的な体温。
人間湯たんぽ。
しかも、最高出力の超高級品だ。
熱い。
正直、熱すぎてうなされそうだ。
彼女の体温は40度近い。高熱の患者にさらに高熱をぶつけるなど、医療行為としては間違っているかもしれない。
けれど。
その熱さが、私の芯にある凍りついた孤独を溶かしていくようで、涙が出そうになった。
「……出力、落としてください。焦げます」
「無理よ。……貴女が冷たすぎて、心配で、勝手に上がっちゃうの」
耳元で聞こえる彼女の声は、泣きそうに震えていた。
彼女の手が、私の冷たいお腹のあたりをさする。
不器用な手つき。
掃除されることしか知らなかったお姫様が、初めて「誰かを守る」ために手を使っている。
「……死なないでよ、リナ」
「風邪で死にません」
「だって、貴女は私の掃除用具なんでしょ? 持ち主より先に壊れるなんて、許さないから」
傲慢な命令。
でも、その腕の力は、私がどこかへ消えてしまわないように必死に繋ぎ止めているだけだった。
私は抵抗するのを諦め、目を閉じた。
雨の音はまだ続いている。
でも、ここには湿気も、嫌な埃の臭いもない。
あるのは、甘い香水の匂いと、少し焦げ臭いほどの過剰な愛着だけ。
(……たまには、悪くないですね)
私は彼女の腕の中で、意識を手放した。
私の体温が、彼女の熱に侵食され、同化していく感覚を覚えながら。
それは、私が初めて知る「安らぎ」という名の高温地帯だった。




