第1話:不燃物の朝
肺の奥にへばり付いた澱みを、灰色の空気と一緒に吐き出す。
午前5時00分。
視界を埋めるのは、湿り気を帯びた石造りの天井にこびり付いた、カビと魔力の腐食痕だ。
このアトラス魔導学院で「不燃物」と呼ばれる私にとって、朝は希望の始まりではない。
昨日という摩耗が終わり、今日という摩耗が再開する。ただそれだけの合図だ。
***
身体を起こすと、薄い毛布から冷気が滑り落ちた。
私の平熱は35度2分。
魔力出力が著しく低い欠陥品である私の身体は、常に冬場の石床のように冷え切っている。
地下三階、居住区画「デッドエンド」。
壁からは常に魔力の混じった地下水が染み出し、鼻腔を突くのは古い雑巾と、下水管を流れる廃棄魔力の酸っぱい臭気。
「……今日も、最低な気分ですね」
私は自分の影を蹴るようにしてベッドを降りた。
枕元に立てかけてある相棒――自作の箒『零式』を手に取る。
導魔繊維で編み上げた穂先を、指の腹で撫でる。
0.01ミリのズレもなく整列した繊維の感触だけが、この世界で私を裏切らない唯一の秩序だ。
制服に着替える。
支給品の麻の服はゴワゴワとして肌触りが悪いが、私はこれに独自の撥水・撥魔コーティングを施している。
おかげで、エリート様たちが撒き散らす「高貴な汚れ」を弾くことができる。
部屋を出ると、廊下にはすでに「それ」が漂っていた。
紫色の薄い霧。
一般の生徒たちが「魔法の残滓」と呼んで愛でるキラキラした粉塵。
だが、私の眼球には、それが「換気扇の裏側に十年放置された油汚れ」のような、粘り気のあるノイズとして映る。
『魔塵』。
魔法を行使した後に残る、燃えカスのエネルギー。
「……汚い」
私は短く吐き捨て、箒を構えた。
掃除の開始だ。
サッ、と乾いた音が地下の廊下に響く。
ただ闇雲に掃くのではない。
空間に漂う魔塵の「周波数」を読み取り、箒の穂先で逆位相の振動を与え、物理的に叩き落とす。
カサカサ、という不快な音が、私の手技によって、次第に滑らかな無音へと変わっていく。
この瞬間だけだ。
私の脳内から、耳障りなノイズが消えるのは。
「おい、不燃物。そこをどけ。靴が汚れるだろうが」
調律された静寂を、汚らしい靴音が踏み荒らした。
顔を上げなくても分かる。
足音の重さとリズムの悪さからして、二年生の貴族。魔力だけは無駄にあるが、制御が雑な「粗大ゴミ予備軍」だ。
彼がわざとらしく、私が磨き上げたばかりの床に泥のついた靴底を擦り付ける。
「……失礼いたしました。ゴミを避けて歩けないほど、お足元が不自由とは存じ上げず」
私は慇懃無礼な敬語を投げつけ、さらに深く頭を下げる。
床に映る自分の顔は、死人のように冷めていて、自分でも少しだけ滑稽だった。
「あ? なんだその目は。魔力ゼロの穀潰しが、俺たち選ばれた人間に口答えする気か?」
男の掌に、バチバチと未熟な火花が散る。
威嚇のつもりだろうが、私にはそれが「ガス漏れしたコンロ」にしか見えない。
周囲の空気が乾燥し、喉が焼けるような不快感が増す。
ああ、これだ。
魔法使いというのは、どうしてこうも無神経に、世界を汚すことしかできないのか。
「滅相もございません。ただ、その火遊びでスプリンクラーを作動させると、水浸しの床を拭くのは私ですので」
「チッ……。つまらん女だ。一生そこで地べたを這いずり回ってろ」
男は興味を失ったように舌打ちをし、肩を怒らせて去っていった。
彼が去った後の空間には、焦げたゴムのような臭いと、乱れた魔力波が置き去りにされている。
私は無言で箒を動かした。
彼が汚した空間を、彼が存在しなかったかのように「無」へと戻す。
怒り?
そんな高カロリーな感情は持ち合わせていない。
彼はあと数十年もすれば土に還る有機物だ。
私はただ、賞味期限切れの生ゴミを見るような目で、その背中を見送っただけだ。
その時。
腰に下げた通信用魔導具が、無機質な振動を伝えてきた。
『清掃員コード004、リナ・バニスター。直ちに学園長室へ出頭せよ』
冷たい機械音声。
呼び出し。それも、この早朝に学園長室から。
嫌な予感しかしない。
私のような最底辺が上層部に呼ばれる理由は、決まって一つだ。
「誰もやりたがらない、致死性の汚物処理」がある時だけ。
***
「単刀直入に言おう。特級清掃命令だ」
学園長室のふかふかした絨毯は、埃を溜め込む温床のようで気に入らない。
初老の学園長は、私を見ようともせず、書類にサインをしながら告げた。
「対象は、学生寮最上層『セレスティアル』。エレノア・フォン・アステールの私室だ」
その名前が出た瞬間、室内の空気がピリリと凍りついた気がした。
エレノア・フォン・アステール。
17歳にして王国の戦略級魔導師と並び称される、アトラス魔導学院の至宝。
そして、同時に。
過去三人の清掃員を「魔力酔い(マナ・ドランク)」で再起不能にした、歩く汚染源。
「……お断りしても?」
「拒否権はない。だが、成功すれば来期の生活費を3倍にする。特別手当も弾もう」
学園長が初めて顔を上げ、値踏みするように私を見た。
その目は、壊れかけの掃除機を見る目と同じだ。
「失敗すれば……まあ、代わりの清掃員などいくらでもいる」
つまり、死んでも構わないということだ。
私は心の中で舌打ちをした。
生活費3倍。その餌は、路地裏で野垂れ死ぬ未来を回避するためには魅力的すぎる。
「……承知いたしました。ただし、清掃用具の損耗経費は別途請求させていただきます」
私は淡々と答え、一礼して部屋を出た。
***
学園の最上層「セレスティアル」。
そこは、選ばれし特級生徒だけが住まう天空の楽園――のはずだった。
階段を上るにつれ、空気が重くなる。
湿度が急激に上昇し、肌にまとわりつくような不快な粘り気が増していく。
廊下の壁紙は微かに焦げ、飾られた生花は枯れているのに腐ることもできず、ドライフラワーのように乾ききっている。
(……酷いな、これは)
私はハンカチで口元を覆った。
一般人なら、この場にいるだけで頭痛と吐き気で立っていられないだろう。
高密度の魔塵が、視界を紫色の霧で覆っている。
その発生源は、廊下の突き当たり。
黄金の装飾が施された、巨大な扉の向こうだ。
一歩近づくたびに、鼓膜の奥で「キィィィ」という高周波のノイズが強くなる。
それは、制御を失ったエネルギーが悲鳴を上げている音だ。
ドアの前に立つ。
ノブに手を伸ばすと、指先が触れる前に、パチッと静電気が弾けた。
熱い。
金属製のドアノブが、まるで焼けたフライパンのように高熱を帯びている。
私の冷たい指先との温度差で、ジ、と皮膚が焼けるような音がした。
深呼吸。
肺に入ってくる空気すら、甘ったるく焦げた砂糖のような味がする。
私は覚悟を決めて、ドアノブを回した。
***
「……っ!」
扉を開けた瞬間、熱波が顔面を殴りつけた。
そこは部屋ではなかった。
巨大な生物の胃袋の中だ。
視界を埋め尽くす極彩色のノイズ。
床、壁、天井、あらゆる場所に、行き場を失った魔力の残滓が、ドロドロとしたスライムのようにへばり付いている。
サウナのような蒸気と、鼻が曲がりそうなほどの濃厚な魔力臭。
そして。
その混沌の中心に、彼女はいた。
豪華な天蓋付きのベッドではなく、冷たい大理石の床の上。
そこに倒れ伏す、ひとりの少女。
窓から差し込む光を受けて輝く、白金の髪。
陶器のように白い肌は、高熱で朱に染まり、汗が玉となって首筋を伝っている。
エレノア・フォン・アステール。
学院の至宝。天才。
だが今の彼女は、自分の熱で内側から焼かれ、溺れかけている「壊れた器」にしか見えなかった。
彼女が、苦しげに瞼を開く。
燃えるような緋色の瞳が、ゆらりと私を捉えた。
「……誰。……出て、行きなさい……」
掠れた声。
それだけで、周囲の空気がビリビリと震え、室温が一度上がった気がした。
拒絶。威嚇。
近づくもの全てを焼き尽くす、孤独な獣の目だ。
普通の神経なら、ここで逃げ出すだろう。
あるいは、その神々しいまでの美しさに跪くかもしれない。
けれど、私はそのどちらでもなかった。
私の目に見えているのは、彼女の美貌でも、才能でもない。
ただ、この部屋を埋め尽くす「掃除すべきゴミの山」だけだ。
私は箒を構え、かつん、と靴音を鳴らして部屋に踏み込んだ。
「……床を汚して寝転がるのは、そのくらいにしていただけますか」
私は彼女を見下ろし、心底うんざりした声で告げた。
「掃除の邪魔です。お嬢様」




