第2話 マイナスからの出発 ~絶対契約と、屋敷の掃除~
「は、離せ! 離せぇぇ! 私は男爵だぞ! 王家任命の代官だぞぉぉぉ!」
領主館の玄関ホールに、モール男爵の断末魔のような叫び声が木霊した。
だが、その声に応える者はいない。
かつて彼の命令で動いていた衛兵たちは、いまや無表情な執行者となり、元主人の小太りな体を容赦なく引きずっていく。
「……うるさい男だ。地下牢の防音性は確かだろうな?」
「はっ。地下は石造りで頑丈です。地上の声は届きません」
答えたのは、衛兵隊長の男だった。
先ほど【絶対契約】を結んだばかりの彼は、私に対して直立不動で敬礼している。その瞳には、恐怖と畏敬、そして「これで給料がもらえる」という安堵が入り混じっていた。
「よろしい。彼には後日、王都への移送と法的な審判が待っている。死なせない程度に餌を与えておけ」
「御意」
衛兵たちが去ると、ホールには静寂が訪れた。
残されたのは、私と執事のクラウス。そして、大階段の下で震え上がっている十数名の使用人たち――メイドや従僕たちだ。
彼らは一様に顔面蒼白で、まるで死刑宣告を待つ囚人のように俯いている。
「リアム様……彼らの処遇はいかがなさいますか? 男爵の手足となっていた者たちです。解雇するのが筋かと」
クラウスが低い声で囁く。
確かに、腐敗した組織を再生させる際、旧体制の人間を一掃するのは定石だ。
だが、私は首を横に振った。
「いや、彼らはただの労働力だ。男爵の命令に逆らえなかっただけの弱者だろう。それに、今ここで全員を解雇すれば、明日からの館の維持に支障が出る。……使える駒は使うさ」
私は使用人たちを一瞥し、そのまま大階段を上がった。
「まずは現状把握だ。クラウス、男爵の執務室へ行くぞ。金庫と帳簿を確認する」
◇
二階にある執務室は、悪趣味の博覧会のような部屋だった。
壁には品のない裸婦画が飾られ、床には毛足の長い絨毯。部屋の隅には、高価そうな酒瓶が乱雑に転がっている。
その一方で、窓ガラスにはヒビが入り、隙間風が吹き込んでいた。机の脚もガタついている。
見栄えの良い調度品には金をかけるが、建物の維持管理には無頓着。典型的な破綻者の部屋だ。
「ここが代官の執務室……。なんと嘆かわしい」
クラウスが顔をしかめながら、部屋の奥にある巨大な金庫へと歩み寄る。
鍵は、男爵の腰巾着から没収してある。
重厚な扉が、ギィ、と音を立てて開いた。
「……ッ!?」
中を覗き込んだクラウスが、息を呑んで絶句した。
私もその背後から中を見る。
空だ。
埃ひとつない、見事な空洞。
本来なら領地の運営資金や税収が保管されているはずの場所に、金貨一枚、銀貨一枚すら残っていない。
「そ、そんな……。まさか、ここまでとは……」
「想定の範囲内だが、最悪の部類だな」
私は冷静に、しかし内心では舌打ちをしながら、金庫の奥に放り出されていた数冊のファイルを拾い上げた。
『裏帳簿』だ。男爵が隠していた、真の財政状況が記されている。
パラパラとページをめくる。
私の目は、ある一行に釘付けになった。
『次年度より三年間、ノースランド領の全税収を担保とする』
『債権者:ゴロンディ商会』
『借入額:金貨五万枚』
金貨五万枚。
日本円にして約五十億円。
この何もない辺境の領地が、返せるはずのない莫大な金額だ。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
ゼロからのスタートではない。
マイナス五十億からのスタートだ。
「り、リアム様……これは……」
「男爵の奴、領地の未来を売り払って豪遊していたわけか。ゴロンディ商会といえば、王都でも悪名高い高利貸し兼、闇ギルドの一味だ。法外な利息がついているだろうな」
これが、私が直面すべき最初の『壁』だ。
資金がない。それどころか、入ってくるはずの未来の金まで奪われている。
普通の貴族なら、この時点で絶望して実家に泣きつくだろう。
だが。
「……燃える展開じゃないか」
私の瞳に、昏い情熱の火が灯る。
前世でもそうだった。絶望的なバランスシートを見せられた時ほど、アドレナリンが湧き出したものだ。
借金があるなら、それ以上の速度で稼げばいい。
法外な契約があるなら、より高位の『法』でねじ伏せればいい。
「クラウス、使用人たちを大広間に集めろ。全員だ」
「は、はい! しかし、給金を払う当てが……」
「金なら作る。……物理的にな」
私は意味深に呟き、執務室を出た。
◇
一階の大広間。
集められた使用人は二十名ほど。料理人、メイド、庭師、厩務員。
中には、十代半ばとおぼしき可憐なメイドの姿もあった。栗色の髪を震わせ、涙目で私を見上げている。彼女たちに罪はない。
「楽にしていい。私はリアム・フォン・アークライト。今日からこの地の統治者だ」
私は彼らの前で、先ほどの『雇用契約書』――衛兵たちに使ったものと同じ羊皮紙を広げた。
「単刀直入に言おう。モール男爵は失脚した。アークライト家が直接、この領地を管理する」
ざわめきが広がる。不安と期待が入り混じった空気。
「君たちには二つの選択肢を与える」
「一。退職金を渡して解雇。ただし、これまでの未払い賃金は、男爵の資産を売却した後に支払うことになるため、いつになるかは保証できない」
「二。私と【再契約】を結び、働き続ける。その場合、未払い賃金は私が個人資産から即時補填し、今後の給与は……これまでの二倍とする」
「「「に、二倍!?」」」
驚愕の声が上がった。
この辺境で、給与二倍など夢のような話だ。
だが、すぐに一人の年配のメイド長がおずおずと手を挙げた。
「あ、あの……旦那様……いえ、リアム様。そのような好条件、信じられません。それに、私たちは男爵様の元で働いていた身……罰せられるのではと……」
「罰などない。君たちは被害者だ。ただし、条件がある」
私は契約書を指で叩いた。
魔力を込めると、羊皮紙が淡い黄金色に発光し始める。
「私への『絶対の忠誠』だ。情報を外部に漏らさないこと。私の命令を最優先すること。不正を働かないこと。……この契約書にサインすれば、君たちは私の『所有物』同然となる。裏切りは決して許されない。その代わり、生活と安全は私が完璧に保障する」
アメとムチ。そして、圧倒的な支配者のオーラ。
彼らは互いに顔を見合わせ――そして、一人が進み出た。先ほどの栗色の髪のメイドだ。
「わ、私……サインします! 病気の弟がいるんです……薬代が必要なんです!」
「いい判断だ。名前は?」
「マリーです……!」
彼女が震える手で羽ペンを取り、サインをした瞬間。
カッ、と契約書が輝き、光の粒子が彼女の胸へと吸い込まれていった。
「あ……体が、熱い……?」
「契約成立だ。これで君は、何があっても私を裏切れなくなった。……クラウス、彼女に金貨二枚を。特別ボーナスだ」
「は、はい!」
チャリン、と重みのある金貨が手渡されると、マリーは涙を流して崩れ落ちた。
それを見た他の使用人たちが、我先にと契約書に殺到する。
数分後。
私はこの館にいる全人員の、完全なる支配権を手に入れた。
「さて、人事の問題は片付いた。次は環境だ」
私は再び、二階の執務室へと戻った。
ボロボロの机。ガタつく椅子。ひび割れた窓。
これでは仕事にならない。
「クラウス。庭にある廃材……壊れた馬車や、男爵が捨てた古家具をすべて、窓の下に集めさせろ」
「は? 廃材、ですか? 薪にでもなさるおつもりで?」
「いいから集めろ」
数分後、窓の下には木材や鉄屑の山ができた。
私は窓を開け、眼下のゴミの山を見下ろす。
そして、意識を集中させた。
私のもう一つのユニークスキル。
前世の知識と、この世界の魔力が融合して生まれた、産業革命の要。
「【万能工場】――起動」
私の視界が、青白いグリッド線に覆われる。
脳内に浮かべるのは、前世で愛用していた最高級オフィス家具の設計図。
素材は、眼下の廃材(木材、鉄、革、布)。
「プロセス開始。……解体、精錬、成形、結合」
ズズズズズ……!
庭の廃材の山が、青い光に包まれた。
クラウスや、庭にいた使用人たちが悲鳴を上げて後ずさる。
光の中で、ボロボロの木材が一瞬でパルプ状に分解され、不純物が取り除かれ、乾燥され、削り出されていく。錆びた鉄は還元され、美しいボルトやフレームへと変わる。
魔法ではない。これは『生産』だ。
超高速で行われる、分子レベルの加工ライン。
「出力」
光が収束し、ドンッ! という重い音と共に、それが現れた。
艶やかなマホガニー風の光沢を放つ、機能的かつ重厚な大型デスク。
人間工学に基づいて設計された、疲れ知らずのワークチェア。
そして、透明度の高いガラス板と、精巧な収納棚。
まるで王都の高級店でも見たことがないような、洗練された新品の家具一式が、そこには鎮座していた。
「な、な、なんですかこれはぁぁぁ!?」
クラウスが絶叫した。いつも冷静な彼が、完全にキャラを崩している。
私は【万能工場】で作り出したデスクを、衛兵たちに運ばせ、執務室に設置した。
ガタついていた部屋が、一瞬で『デキる男のオフィス』へと変貌する。
「これが私のスキル【万能工場】だ。素材さえあれば、イメージ通りの『規格品』を大量生産できる」
私は新しい椅子に深く腰掛け、座り心地を確かめた。完璧だ。
呆然とするクラウスに、私は不敵に笑いかける。
「金庫は空だが、材料はある。森には木が、山には鉱石があるだろう? このスキルがあれば、ゴミ同然の素材を、王都の貴族が喉から手が出るほどの『商品』に変えられる」
そう。借金が五十億あろうと関係ない。
この世界にはない高付加価値商品を、原価ゼロ(現地調達)で量産し、売り捌く。
それが私の基本戦略だ。
「クラウス。明日は領内の視察だ。……アークライト商会、いよいよ開業だぞ」
窓の外、厚い雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。




