第1話 不良債権としての故郷
ガタッ、と激しい衝撃が腰に響いた。
最高級の地竜の革を使用したシートのクッション性をもってしても、殺意すら感じる路面の凹凸は吸収しきれないらしい。
「……酷いな。想像の三段階は下だ」
私は馬車の窓にかかるカーテンを指先で少しだけ開け、外の景色を眺めながら独りごちた。
曇天の下、枯れ木のような森と、泥にまみれた街道が続いている。
街道沿いに点在する民家はどれも傾き、屋根には穴が空いている。時折すれ違う領民たちは、一様に痩せこけ、瞳から生気が失われていた。彼らが身に纏っているのは衣服というより、ボロ布を継ぎ接ぎしただけの何かだ。
これが、我がアークライト侯爵家が有する直轄領の一つ、北方のノースランド地方の現状だった。
(前世で担当した、倒産寸前の重工メーカーの工場地帯でも、もう少し活気があったぞ。これはもはや、組織としての体を成していない)
窓ガラスに映る私の姿――白銀の髪に、冷ややかな蒼穹の瞳。線が細く、芸術品のように整った顔立ちをした十五歳の少年。
リアム・フォン・アークライト。それが現在の私の名だ。
中身は、現代日本で企業法務とM&A(合併・買収)、そして経営再建を専門としていた弁護士である。
四十五歳。過労による心不全で、デスクに突っ伏して死んだ男の記憶と人格が、この体に宿っている。
だが、今の私は紛れもなくアークライト侯爵家の長男であり、この荒廃した地を立て直すために派遣された『代官』だ。
「申し訳ございません、リアム様。……お怪我はございませんか?」
向かいの席に座る老執事、クラウスが苦渋に満ちた顔で頭を下げる。
白髪を丁寧に撫で付け、背筋を伸ばした彼は、アークライト家に長年仕える忠臣だ。私が幼い頃から教育係を務めてくれた人物でもある。
その表情には隠しきれない疲労と、これから向かう先への深い憂色が滲んでいた。
「謝る必要はない、クラウス。君が悪いわけではないだろう。悪いのは、この惨状を十年間放置した……いや、悪化させ続けた『経営者』だ」
「……代官、モール男爵のことですね」
「ああ。書類上では、この領地の税収は過去五年間で半減。報告では『天候不順』と『魔物の被害』が原因とされているが、実際に目にする現実は数字以上に深刻だ」
私は手元の決算報告書の写しを指で弾いた。
そこには赤字の羅列。
だが、私の長年の勘――数々の粉飾決算を見抜いてきた眼が告げている。この帳簿は、稚拙な改竄だらけだと。
「旦那様も、王都での政務がお忙しく、現地への視察が叶いませんでした。送られた復興支援金も、泥沼に石を投げるが如く消えて……」
「消えたのではない。誰かの懐に移動しただけだ」
私は口元だけで笑った。周囲からは「氷のようだ」と評される笑みだ。
魔導文明が発達したこの世界において、これほどインフラが崩壊しているのは異常だ。
原因は明白。無能な経営者か、あるいは有能な横領者がいるか。
モール男爵は、おそらく後者だ。そして、それを野放しにしていたアークライト家本家の監督責任も重い。
(まあいい。更地からのスタートだと思えば、やりがいはある)
私は合理主義者だ。感情で動くことはないが、目の前に『非効率』と『不正』が存在することは許せない。
徹底的に掃除し、再構築する。それが私の流儀だ。
「リアム様。老婆心ながら申し上げますが……モール男爵は、地方貴族特有の狡猾さを持つ男です。到着早々、何かと理由をつけてリアム様を傀儡にしようとするでしょう。どうか、ご用心を」
「傀儡、か。面白い」
私は懐から、一枚の豪奢な紙を取り出した。
まだインクの匂いが残るその紙片を、指先で弄ぶ。
「心配するな、クラウス。私は法務大臣の息子だぞ? 法に背く者がどのような末路を辿るか……そして、腐った組織をどう『解体』すべきか。父上から嫌というほど叩き込まれている」
「……左様でございますね。リアム様のその冷徹なまでのご判断力、旦那様譲りでございます」
馬車が大きく傾き、そして停止した。
窓の外には、周囲の荒廃した風景とはあまりに不釣り合いな、白亜の豪邸がそびえ立っていた。
領主館だ。いや、もはやモール男爵の私城と言うべきか。
屋根には純金の装飾が施され、庭園には季節外れの華やかな花々が魔法温室で咲き誇っている。
領民が飢えているすぐ側で、ここだけが別世界の飽食を貪っている。典型的な、そして最も悪質な独裁者の構図だ。
「到着いたしました」
御者が扉を開ける。
私が馬車を降りると、そこにはすでに数十名の衛兵と、煌びやかな衣装を纏った小太りの男が待ち構えていた。
「おお! ようこそおいでくださいました、リアム様! 遠路はるばる、このような辺境へ!」
大げさな身振りで近づいてくる、油で撫で付けたような髪の男。
間違いなく、代官のモール男爵だ。
彼の背後には、武装した衛兵たちが二十名ほど。歓迎の整列というよりは、明らかに威圧のために並ばせている。剣の柄に手をかけ、殺気を隠そうともしていない。
(なるほど。初手からマウントを取りに来たか)
「出迎えご苦労、モール男爵。……道中、領内の様子を見させてもらったが、随分と『風通し』が良いようだな。屋根のない家が多かった」
「ははは! いやはや、お恥ずかしい限りです。貧しい領民たちは、勤勉さが足りず、すぐに家を壊してしまうのですよ。我々がいかに指導しても、馬の耳に念仏でして」
モール男爵は、領民の貧困を彼ら自身のせいにし、卑下した笑みを浮かべた。
その瞬間、私の中で明確な『不合格』の印が押される。
従業員や顧客(領民)を馬鹿にし始めた経営者は、百パーセント信用できない。
「まあ、堅い話は後になさいましょう。旅のお疲れもあるでしょう。今日は私の屋敷で宴を用意しております。美しい踊り子も手配してありますぞ? まだ十五歳とお若いリアム様には、少し刺激が強いかもしれませんが、ぐふふ」
男爵の視線は、私を「世間知らずのボンボン」と値踏みしている。
適当に酒と女をあてがって骨抜きにし、実権は自分が握り続ける。そんな魂胆が透けて見える。
「明日はゆっくりとお休みください。領地の細かな数字の話などは、私が全て処理しておきますので。リアム様は、ただ書類にサインだけしてくだされば結構です」
完全に舐めている。
背後の衛兵たちが、ガチャリと鎧を鳴らした。
無言の圧力。もし私がここで反抗的な態度を見せれば、彼らは「護衛」という名目で私を軟禁するつもりだろう。
クラウスが一歩前に出ようとした。主君を守ろうとする忠誠心ゆえだが、ここで彼が動けば男爵に口実を与えることになる。
私はそれを片手で制し、静かに口を開く。
「モール男爵。貴殿の配慮には感謝するが、宴は不要だ」
「は? いやいや、しかし……せっかくの準備が」
「それより、直ちに執務室へ案内してもらいたい。過去十年分の出納帳簿と、貴殿の個人資産の目録、そして商会ギルドとの契約書原本。すべて今すぐにだ」
モール男爵の顔から、へらへらとした笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、田舎貴族が都会の若造に向ける、侮蔑と苛立ちだ。
「……リアム様。お若いあなたに教えて差し上げますがね、現場には現場のやり方というものがあるのです。王都の学校で学んだ綺麗な理想論で、この領地は回せませんよ?」
「ほう。現場のやり方、とは?」
「我々への『敬意』です。……おい、リアム様がお疲れのようだ。お部屋へご案内しろ。多少、強引でも構わんぞ」
モール男爵が顎でしゃくると、衛兵たちが一斉に動き出した。
ジリジリと間合いを詰め、私を取り囲む。
クラウスが悲鳴のような声を上げた。
「無礼な! このお方をどなたと心得る! アークライト侯爵家嫡男、リアム様であらせられるぞ!」
「ここでは私が法だ、ジジイ!」
モール男爵が喚き散らす。唾が飛び散るほどの剣幕だ。
完全に、自分がこの地の絶対権力者だと錯覚している。長い年月の専横が、彼から客観性を奪ったのだ。
私は小さく溜息をついた。
交渉決裂。いや、最初から交渉の余地などなかった。
私は懐から先ほどの『紙片』を取り出し、広げた。
「クラウス、下がっていろ。……モール男爵、一つ訂正しよう」
「ああん? 命乞いか?」
「『ここでは私が法だ』と言ったな? 違う。アークライト家の領地においては、当主の言葉こそが法。そして代行である私の言葉もまた、法だ」
私は、取り囲む衛兵たちを見渡した。
彼らの顔には、躊躇いがある者、男爵の金に目が眩んでいる者、様々だ。
だが、彼らの心の内など関係ない。重要なのは、彼らが『何をしたか』だ。
「衛兵隊、聞け」
私の声は、決して大きくはなかった。
だが、その場にいる全員の鼓膜を震わせ、脳髄に直接響くような、奇妙な圧力を帯びていた。
「【命令】。モール男爵を拘束せよ」
一瞬の静寂。
モール男爵が吹き出した。
「はっ! 何を言っている! こいつらは私の金で雇った……」
ガシッ。
「……え?」
鈍い音が響き、モール男爵の視界が反転した。
彼を背後から羽交い締めにしたのは、彼の命令で動いていたはずの衛兵隊長だった。さらに、副隊長が男爵の足を払い、泥の地面へと押さえつける。
「ぐ、ぐあああっ!? き、貴様ら!? 乱心したか! 誰が給金を払っていると思っているんだ!」
「う、動きが……体が勝手に……!?」
「す、すみません男爵! 逆らえないんです! 体が……!」
衛兵たちもまた、恐怖に顔を歪めていた。
彼らの意志は男爵への攻撃を拒んでいるかもしれない。だが、肉体はまるで精密機械のように整然と動き、男爵を完全に無力化した。
残りの衛兵たちも、私を守るように円陣を組み、外部への警戒を始めている。
「な、なんだこれは……魔法か!? 貴様、何をした!?」
泥に顔を押し付けられ、高級な衣装を汚しながら喚くモール男爵。
私は彼の前までゆっくりと歩み寄り、手に持っていた紙片を見せつけた。
そこには、衛兵全員の署名と、鮮やかな血判が押されている。
「これは……ついさっき、街の入り口で検問をしていた彼らにサインさせた『雇用契約書の更新』だよ」
私は冷淡に告げた。
「私のユニークスキルは【絶対契約】。双方が合意し署名した契約に対し、神聖なる強制力を付与する能力だ」
そう。馬車でここに来る途中、私は検問所ですべての衛兵と『面談』を行っていた。
彼らは給料の未払いに喘いでいた。男爵は私腹を肥やすばかりで、現場の人間には金を払っていなかったのだ。
そこに、王都から来た次期領主が『未払い分の全額清算』と『今後の給与倍増』を提示した。
条件はたった一つ。『リアム・フォン・アークライトの命令を最優先事項とし、絶対服従すること』。
彼らは涙を流して喜んでサインした。
この契約書がある限り、彼らは私の命令に物理的に逆らえない。
もし逆らおうとすれば、心臓を鷲掴みにされるような激痛が走り、肉体が強制的に命令を遂行する。
最強の人事管理ツールだ。
「契約違反者には罰則がある。……これ以上騒げば、君の喉を彼らに潰させることになるが、それでもいいか?」
「ひっ……!」
モール男爵の顔色が、土気色に変わった。
自分が絶対だと思っていた『武力』と『金による支配』が、たった一枚の紙切れと署名によって、完全に奪われたことを悟ったのだ。
震える男爵を見下ろす私の瞳に、慈悲はない。あるのは、不良債権を処理する事務的な冷徹さだけだ。
「クラウス」
「は、はいっ! ……あ、あの、リアム様、今の御力は……?」
クラウスが目を白黒させている。彼にもこのスキルは見せていなかったからな。
私は短く答える。
「アークライト家の血筋だよ。……それより、直ちに館へ入り、男爵の執務室を封鎖。証拠隠滅を防げ。それから、地下牢の鍵を開けておけ」
「ち、地下牢……ですか?」
「ああ。これからこの豚……失礼、元代官殿が入る部屋だ」
私は踵を返した。
衛兵たちによって引きずられていくモール男爵の情けない悲鳴が、鉛色の空に吸い込まれていく。
「さて、掃除の時間だ。……まずは、この薄汚い館の膿をすべて絞り出し、マイナスをゼロに戻すところから始めようか」
私の異世界での内政改革は、こうして『法的執行』から幕を開けた。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
この領地には、男爵の不正よりもさらに根深い、絶望的な問題が山積みになっているのだから。




